ことしは広島に原爆が投下されて80年。8月6日朝、広島市の平和記念式典の様子をテレビで見ました。投下時刻の8時15分、鐘の音とともにわたしも黙とう。続いて松井一実市長の「平和宣言」、小学生2人の「平和への誓い」、石破茂首相や湯崎英彦・広島県知事の「あいさつ」を聞きました。
日本の核武装を公然と口にするような政治勢力が、少なくない支持を得るような状況です。湯崎知事が核抑止論を「頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクション」と言い切り、諄々と諭すように、その危うさを説く様子が、例年にもまして印象に残りました。
※広島県「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(令和7年)における知事あいさつについて」
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/07heiwakinensikitentijiaisatu.html
石破首相の「あいさつ」では、核兵器禁止条約には歴代首相と同様に言及しない一方で、広島平和記念資料館を訪ねたことを織り込み、歌人・正田篠枝さんの歌で締めくくるなど、自らの言葉で語ろうとする姿勢は感じられました。
※首相官邸「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式挨拶」
https://www.kantei.go.jp/jp/103/statement/2025/0806hiroshima.html
松井一実市長の「平和宣言」は冒頭、被爆者が経験した苦しみを紹介する中で、「差別」に触れました。この数年の「平和宣言」にはなかったことと思います。
今から80年前、男女の区別もつかぬ遺体であふれかえっていたこの広島の街で、体中にガラスの破片が突き刺さる傷を負いながらも、自らの手により父を荼毘に付した被爆者がいました。「死んでもいいから水を飲ませて下さい!」と声を振り絞る少女に水をあげなかったことを悔やみ、核兵器廃絶を叫び続けることが原爆犠牲者へのせめてもの償いだと自分に言い聞かせる被爆者。原爆に遭っていることを理由に相手の親から結婚を反対され、独身のまま生涯を終えた被爆者もいました。
※広島市ホームページ「令和7年(2025年)平和宣言」
https://www.city.hiroshima.lg.jp/atomicbomb-peace/1036662/1003065/1015114.html
戦後を生きる被爆者が苦しんだのは、原爆による直接の身体的な苦痛や不安だけではありません。被爆者への差別がありました。
日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)に昨年、ノーベル平和賞が贈られました。核廃絶を訴え続けている活動が国際的に高く評価されてのことです。しかし、戦後しばらくの間は、被爆者は声を上げることができず沈黙を強いられていました。そのことをわたし自身が知ったのは20年前のことです。
敗戦から60年の2005年8月、わたしは新聞労連の委員長でした。8月6日は広島、9日は長崎を訪ねていました。長崎でマスメディア労組が開いた集会でのことは、今も忘れません。当時、運営していたブログ「ニュース・ワーカー」の記事を再掲します。
▽長崎で考えさせられたこと
広島に続き、8月7日から10日まで長崎に出張した。わたしが議長を務める日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)と、地元の長崎マスコミ共闘会議の共催で8日に反核フォーラムを開催。9日は長崎市内に残る原爆被害の跡を歩いてめぐった。
フォーラムのテーマは「被爆60年・平和とメディアの役割」。入市被爆者で長崎平和運動センター被爆連・事務局長の奥村英二さん、長崎新聞論説委員の高橋信雄さん、メディア論の桂敬一・立正大学教授をパネラーに迎えたパネルディスカッションは密度が濃かった。なかでも高橋さんの指摘にはハッとさせられた。地元紙として曲がりなりにも被爆者の声を伝え、核廃絶を求める市民の声を代弁してきたが、これまで伝えきれなかったものも大きい、という。本当に支援が必要だった被爆者が、自らの思いを語ろうにも語れないまま、沈黙するしかないまま、とうの昔に絶望のうちに皆死んでいった、との指摘だ。
今でこそ、新聞も被爆者の被爆体験を積極的に発掘し紹介しているが、これは実は最近のことなのだという。戦後20年間、被爆者は自らの体験を口にすることができず、沈黙するしかなかった。なぜか。被爆者差別があったからだ。長崎という地域社会の中にすら、被爆者に対する差別があった。日本人はみな、戦争の被害者という立場では同じはずなのに、差別ゆえに被爆者は声を上げることができなかった。メディアもまったく動かなかった。被爆者は身体的な苦痛に加え、精神的にも苦しまなければならなかった。そして、絶望のうちに死んでいった。
多くの被爆者がそうやって死んでいった、死んでいくしかなかったことに、メディアはようやく気付いた。被爆者たちが死んでいった、まさにその当時は気付いていなかった。そのことに高橋さんは「痛恨の思いがある」と語った。そして、同じ戦争の被害を受けた者同士の間に差別を生み出したのは何かを考え続けることが、地元メディアの責務だと話した。
また、戦争体験の風化があるとすれば、それはジャーナリズムから始まるのではないかとも訴えた。常に、戦争体験を掘り起こし、社会に伝えていく努力をしていれば風化は起こりえない。風化が始まるとすれば、ジャーナリズムがその努力を怠るようになったときだという。記者は被爆者の被爆体験を追体験することはできないが、体験を掘り起こしていくことで、被爆者の気持ちに近づくことはできるはずであり、ジャーナリストは被爆者が亡くなった後に、現代の語り部の役を果たさなければならない、と訴えた。
「差別ゆえに被爆者は声を上げることができなかった」
「そして、絶望のうちに死んでいった」
マスメディアで働くようになって20年余りがたっていました。自分の「無知」を恥じました。一方で「被爆地の新聞」の覚悟もあらためて知りました。敬意は今も変わりません。
被爆者に対して差別があったことは、人間の「弱さ」を示しているように思います。差別は許さない、許されない、決して見過ごさない、との強い気持ちを持っていなければ、その弱さに流されてしまう。それぐらい、人間は弱いのだと自覚し、自戒することが必要だと、あの夏以来、考え続けています。
被爆者の高齢化とともに、被爆体験の継承が課題になっています。被爆者が受けた差別のことも教訓として継承し、わたしたちの社会で次世代にも共有されるべきだと思います。それぞれが自身の「弱さ」と向き合うきっかけになると思います。
折しも、日本の核武装を公然と口にするような勢力はまた、「日本人ファースト」の言辞で排除と差別をあおっています。仮に「差別する意図はない」との主張がまるっきりウソではないとしても、「日本人ファースト」によって社会に差別、分断が広まっていることに変わりはありません。
広島や長崎で、あるいは全国、海外で被爆者がこの80年間、どんな時間を過ごしてきたのか。想像力を働かせれば、核武装を軽々に口にすることの愚かさが分かります。核武装を口にする愚かさが、差別と分断を深めていることに気付くきっかけにもなります。
この夏、「日本人ファースト」を支持している、支持しかけている人たちに、そのことを呼びかけたいと思います。


※参考過去記事
【追記】2025年8月9日23時50分
8月9日は長崎への原爆投下から80年でした。
鈴木史朗市長が読み上げた「長崎平和宣言」も、「差別」の2文字に触れました。
証言の力で世界を動かしてきた、被爆者たちの揺るがぬ信念、そして、その行動が評価され、昨年、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。日本被団協が結成されたのは、1956年。心と体に深い傷を負い、差別や困窮にもがき苦しむ中、「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」という結成宣言をもって、長崎で立ち上がりました。
「人類は核兵器をなくすことができる」。強い希望を胸に、声を上げ続けた被爆者の姿に、多くの市民が共感し、やがて長崎に「地球市民」という言葉が根付きました。この言葉には、人種や国境などの垣根を越え、地球という大きな一つのまちの住民として、ともに平和な未来を築いていこうという思いが込められています。
この「地球市民」の視点こそ、分断された世界をつなぎ直す原動力となるのではないでしょうか。
▽「令和7年 長崎平和宣言」
https://www.city.nagasaki.lg.jp/page/4920.html
被爆体験や今も続く被害とともに、被爆者が差別されていたこと、その中で被爆者が声を上げ始め、共感が広がり「地球市民」という言葉が生まれた、その80年間の歴史のことも継承していかなければならないと、改めて思いました。