以下の内容はhttps://news-worker.hatenablog.com/entry/2024/09/14/105212より取得しました。


「賊軍」が置かれた苛烈な立場を今に伝える「碧血碑」~靖国「差別の源流」が可視化された函館の史跡

 この夏の休暇は北海道・函館を訪ねました。幕末から明治初頭にかけての内戦の戊辰戦争で、最後の戦いがあった土地です。戊辰戦争では、旧幕府軍の戦死者は遺体の収容や埋葬が禁じられるなど、死んでなお「賊軍」として苛烈な差別を受けた事例がありました。以前の記事では、静岡県・清水港の「壮士墓」のことを紹介しました。函館でも旧幕府軍の戦死者に対し、同じような差別があったことを知りました。朽ちるままになっていた遺体を、見かねた地元民が禁を犯して埋葬。この点も清水と同じです。旧幕府軍の榎本武揚、大鳥圭介らが出獄後の明治8年、函館山のふもとに慰霊のために「碧血碑(へきけつひ、へっけつひ)」が建てられました。
 一方の新政府軍の戦死者は、丁重な扱いだったようです。やはり函館山のふもとに位置する函館護国神社には「旧官修墳墓」、新政府軍の戦死者の墓地があります。神社の由緒によると、戦争終結4日後の明治2年5月21日には、戦死者を祀る招魂祭が行われました。同年9月には現在地に「招魂社」が創建され、現在の函館護国神社に至っています。碧血碑と函館護国神社を訪ねるのが、今回の函館旅行の主な目的でした。

 最初に函館護国神社に向かいました。海外からの観光客も目立つ函館山ロープウェイの乗り場から南に歩いて2、3分。石段を少し上り、鳥居をくぐれば、緑豊かで広々とした境内です。一角に「招魂場」と刻まれた石碑がありました。戊辰戦争の官軍総督清水谷公考の揮毫とも伝わるそうです。
 新政府軍戦死者の墓地は、社務所の奥にありました。59基の墓碑が整然と並んでいます。個人墓の墓碑銘からは弘前藩、大野藩、備後福山藩などの藩士の名前が読み取れました。江戸時代まで、軍事はもっぱら武士が担っていました。戊辰戦争も、庶民が加わった長州藩の奇兵隊の例はありましたが、武士同士の戦いでした。新政府軍とは言っても、新政府に恭順した各藩の連合軍の性格だったのでしょう。各藩の藩士にとって、自藩の領地を一歩出れば異国。まして当時「蝦夷地」と呼ばれていた北海道は、想像の範囲を超えた異郷だったはずです。どのような思いで、この地に来て戦い、そして生を閉じる間際に何を思ったのか。そんなことを考えました。

 函館護国神社を出て、函館山の山麓に沿って道なりに歩いていき、途中、函館八幡神社に寄りながら、30分ほどで碧血碑に着きました。
 森の中の道を少し上ると、開けた広場のような場所に出ました。ひっそりと碑が立っていました。今ではどの観光ガイドでも、短いながらも紹介されています。決して知られていない場所ではないはずですが、ほかに訪れている人はいませんでした。
 函館市の公式観光サイト「はこぶら」は、以下のように紹介しています。

 戊辰戦争最後の戦地となった箱館(現在の函館)。終戦後、新政府軍は旧幕府軍戦死者の埋葬を許しませんでしたが、それに異を唱えたのが侠客の柳川熊吉でした。熊吉は実行寺住職の日隆らの協力を得て、打ち首を覚悟しながらも、町中に放置されている遺体を回収します。結果的に処刑を免れた熊吉は、函館山の山麓に土地を購入し、実行寺などに収めていた遺体を改葬。7回忌にあたる1875(明治8)年には、旧幕府軍の中心メンバーであった大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、碑を建てたのです。用いられている石は伊豆産で、霊岸島(現在の東京都中央区)で刻まれた後、海運されてきました。熊吉が88歳の米寿を迎えた1913(大正2)年、有志らによって彼の功績をたたえる碑が、碧血碑のそばに建立されます。

※「碧血碑」 https://www.hakobura.jp/spots/566

 「碧血」とは、「義に殉じた武士の血は三年たつと碧色になる」との中国の故事からの命名とのことです。同サイトは「さまざまな人の思いが詰まった石碑」と紹介しています。
 碑の裏手に回ってみました。詳しい由緒はなく、「明治辰巳實有此事 立石山上㕥表厥志」とだけ刻まれています。「明治辰巳、実に此の事有り、石を山上に立てて以て厥(そ)の志を表す」と読み、「明治2年、此の事は実際にありました。山上に石を建ててその気持ちを表します」との意味とのことです(ウイキペディア「碧血碑」より)。
 碑の建立は函館戦争終結からまだ6年でした。戦争を「此の事」と、死者への哀悼の意を「その気持ち」としか表現できなかったことに、「賊軍」が置かれた立場の苛烈さを読み取れるように思います。

 函館にこもった旧幕府軍を代表する榎本武揚は、幕府海軍の指揮官でした。江戸開城後に、艦隊を率いて江戸を脱出。最終的に蝦夷地に向かい、ここに生活の糧を失った旧幕臣らを移住させ、ロシアの南下に対する警備につかせることを画策していたとされます。榎本らは仮政府樹立を宣言しましたが、新政府は容認せず武力で制圧しました。
 260年余りの徳川幕藩体制を覆し、新政府の威光を日本国内の隅々にまで行き渡らせるためには、抵抗する勢力は徹底的に押しつぶし、抹殺する必要があると考えていたのでしょう。そうでなければ自らの正統性が問われる、との強迫観念があったのかもしれません。「賊軍」という呼称も、清水や函館の戦死者への苛烈な仕打ちも、その裏返しだったと考えれば分からなくもない。碧血碑の前に立ってみて、そんなことを思いました。

 函館で訪ねた新政府軍戦死者の墓と碧血碑のことを考えていて、「勝てば官軍」という言葉が頭に浮かびました。「負ければ賊軍」と続きます。勝ってしまえば何とでもなる、正義は後からついてくる、という意味で使われます。決して褒められたものではない、とのニュアンスを込めて使われる場合も少なくありません。
 終結から150年以上もたった今、わたしたちにとって戊辰戦争は「官軍」「賊軍」の勝ち負けにこだわるようなものではないと思います。清水の「壮士墓」を紹介したこのブログの以前の記事にも書いたことですが、歴史に謙虚に向き合うなら、戊辰戦争の戦死者は新政府軍であれ旧幕府軍であれ、日本が近代国家の道を歩む過程で非業の死を遂げたという意味では何ら変わりがないと感じます。その中で、賊軍の死者に対する新政府軍の苛烈な仕打ちに対して、死ねばみな同じ、とばかりに死者を弔った人たちが市井にいたことに、ほっとする思いがします。

 函館の戦争の終結は明治2年5月。東京で靖国神社の前身である東京招魂社が創建されたのは同年6月(靖国神社の由緒による)です。前述のように、函館ではこれに先立つ5月21日に、官軍総督清水谷公孝が発企し、市内大森浜で祭壇を設けて招魂祭を執行しました。靖国神社の源流に函館の戦争は深いかかわりがあります。
 靖国神社には戊辰戦争の新政府軍戦死者は祀られていても、「賊軍」の旧幕府軍の戦死者は祀られていません。明治維新の元勲の西郷隆盛も、西南戦争で賊軍だったために、やはり対象外です。同胞でありながら、厳然とした差別があります。賊軍にもそれぞれの「義」がありましたが、ここでは一顧だにされていません。靖国神社をめぐっては、第二次大戦の戦死者を「英霊」として祀っている側面ばかりが強調されます。そうした風潮に疑問を感じる中で、新政府軍戦死者の墓と、旧幕府軍戦死者の碧血碑と、差別の源流を目にすることができた函館訪問でした。




以上の内容はhttps://news-worker.hatenablog.com/entry/2024/09/14/105212より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14