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意図論争の現在① 仮説的意図主義の洗練

ページ数を書いていない「」はすべて引用ではなく、強調や区切りのためのものです。

引用中の[]は私が補ったものです。

morinorihide.hatenablog.com

偉大なる森さんの偉大なる記事。第7章「解釈と意図」のところには以下のように書かれている。

価値最大化説:『分析美学入門』でほとんど紹介されていないのが価値最大仮説(要は、一番価値が高くなるように解釈しようぜ、という立場)。Stephen Daviesがこの立場を取っていた。

仮想的意図主義の洗練:仮想的意図主義は「解釈材料として意図を想定するとして、誰の意図として想定するのか」というところでいろいろな立場に分かれる。現実の作者の意図を仮想するのか、それとも、仮想的作者の意図を仮想するのか、というのが大きな区分けだが、その中にもいろいろな立場があるようだ。このトピックは話がかなり細かくなっていて、専門化している印象がある。

極端な現実意図主義の復興:2010年代に極端な現実意図主義を取る論者たちが出てきた。Kathleen StockのOnly Imagine (2017)はその一つ。他にもWilliam IrwinやPaul A. Taylorなどがこの立場を取っているようだ。

『分析美学入門』以降の議論の紹介 - 昆虫亀

 

この「仮説的意図主義の洗練」のうち、仮説的作者の意図を仮想するほうの展開について詳しく知りたいひと向けに、この領域の最近の動向のひとつとしてSzu-Yen Linによる「仮説的作者についての仮説的意図主義」の擁護を紹介する(Lin (2023). 'Defending the Hypothetical Author.')。

 

さて、『入門』でLevinsonとNathanの立場が並列されて説明されているように、仮説的意図主義には大きく分けて2パターンある。

1パターン目は「実際の作者についての仮説的意図主義(Actual Author-Hypothetical Intentionalism、以下AAHI)」だ。簡潔に言えば以下のような立場。

その芸術形式について知り尽くし、作者が置かれた時代や思想潮流などについても知り尽くしたスーパー物知りエキスパートが、実際の作者の意図について「たぶんこう意図したはずだ」と推測して立てた最良の意図仮説のうち、もっとも作品価値を高める意図仮説を作品の意味だとするべきだ。作者のインタビューや私的な日記は参照するべきでない。

代表的論者はLevinson。この立場の利点としては、作者の意図がしょうもなかったりかなり変だったりしたときでも、それを無視して良さげな解釈を正しいと言える点。逆に難点としては、「実際の作者の意図についての意図仮説を立てているのに、その本人が否定した仮説を正しいと主張するのは矛盾しているのでは」という批判に弱い。(応答

こうした批判から自由なのが、2パターン目の「仮説的作者についての仮説的意図主義(Hypothetical Author-Hypothetical Intentionalism、以下HAHI)」だ。簡潔に言えば以下のような立場。

作品自体から構築された「仮説的作者」の意図に基づいて作品の意味を決定するべきだ。仮説的作者とは、(文学なら)テクスト、ジャンル、時代背景、作者の他の作品などの文脈的要素をもとに構築された、理想的な作者像である。

Linが擁護するのはHAHIのほうで、特にその特定のバージョンだ。ちなみに「仮説的作者(hypothetical author)」の呼び方には論者ごとにさまざまで、apparent artist (Walton)、postulated author (Nehamas、紹介)、ideal author (Nathan)、fictional author (Currie)などがあるらしく、その源流にはBoothのimplied authorがいる。ともかくそれなりに人気のある立場ということだ。(ハイコンテクストな話をすると、Linはそうと断ったうえで、フィクションの哲学系統のtruth in fictionの話と解釈の哲学の話をごっちゃにしている。)

それでは内容に入ろう。

そもそも論

そもそも意図論争は何を目指しているのか。Linはそこで立てられている問いを二つに分けている。

① 意味論的・形而上学的問い(semantic/ metaphysical question)

この問いでは、「作品がなぜその意味性質をもつようになったのかが探求されている」(p. 580)。そしてこの問いに答えるというのはつまり、「作品の特徴について因果的(causal)な説明を提供すること」である(ibid., emphasis in original)。

簡単に言い換えれば、意味論的・形而上学的問いとは、「作品の意味は__によって決まるのだ」という説明のスペースに何を入れるかという問いだ。スペースには「意図」が入ったり「慣習」が入ったり「制度」が入ったり、それらに種々の条件が課されたり、あるいは複数のファクターが組み合わさったり、階層化されたりして洗練されていく。

② 規範的・認識論的問い(normative/ epistemic question)

これは「解釈者が採用するべき解釈の方針(policy)や規範をめぐる問いである」(ibid.)。

簡単に言い換えれば、規範的・認識論的問いとは、「作品の意味は__によって決めるべきだ」という説明のスペースに何を入れるかという問いである。

Linは、両者は混同されてはならないと忠告したうえで、意図論争においては後者の規範的問いこそが必要不可欠だという。意味論的問いの方を論じている論者でも、「解釈者が〇〇に訴えるのは正当だ。なぜなら作品の意味は〇〇によって決まる(意味論)のだから」というし、けっきょく最後に重要視されるのは規範的問いなのである。

①②の区別は哲学やってる人には耳タコだと思うが、じっさいの意図論争の論文はこのあたりを意識せずに書かれていることが多いので、インストラクティブな区別だと思う。

HAHIの2つの主張

このあとLinは、HAHIを保守的バージョンとリベラルバージョンに分けたうえで、その中間の立場を擁護するのだが、そのまえにHAHIの多くの支持者が共有している主張を2つ指摘する。

① 仮説的作者は、作品から取り出された特徴をもとに、受容者が構築するものである。

これは作品中心的な解釈モデルであるという点で反意図主義に似ているが、両者の決定的な違いのひとつとして、作品から導き出された意図が帰属される行為者が措定されるか否かという点がある。もちろんHAHIが行為者を措定するほう。

ただ、ここでの行為者すなわち作者は、実際の作者ではなく仮説的なものである。なぜなら、「仮説的作者は解釈者によって生成された想像上の構築物であり、それは実際の作者が制作プロセスにおいて何を心に抱いていたかにかかわらず、作品に基づいて推定される、作品の外部の対象」だからだ。(pp. 582-583)。ここが、実際の作者についての仮説を立てるAAHIとの違いである。また、この点について、実際の作者がもつような作品に対する因果的な力を持っていないので意図主義の適切なバージョンではない、と文句をいう哲学者もいるのだが、Linが目指しているのは因果的な説明ではなくあくまで規範的な説明なので問題はないとのこと。

また、HAHIは幻の作者や幻の意図を仮定しているが、これは存在論的に余計であるという批判もある。これはTrivediがHAHI主義者のNehamasに対しておこなった批判で、Nehamasは作品の意味は作者が意味したこと(意図主義)ではなく、作者が意味しえたことだと主張しているのだが、であるならばわざわざ仮定作者なる存在を立てる必要はなく、実際の作者だけでいいじゃない、というものだ。

しかし、Waltonが指摘するように、HAHIは仮説的作者やその行為を量化しているのではなく、作品の外観(appearance)を説明しているだけだ、とLinは切り返す。これではよくわからないので、Linは高畑勲火垂るの墓』を例にとって説明する。

火垂るの墓』はふつうに観れば反戦映画であり、多くの批評家によってもそのように解釈されてきたが、高畑監督はインタビューでこの解釈を否定し、あの作品の意図は、ただ戦中の人々の惨めな暮らしをありのままに描写することだったと語った。ここで実際の作者の意図を尊重するひとびとは解釈を修正せざるをえなくなるのだが、HAHIは、「監督はああ言ってますけど、われわれが解釈に使うのは作品の外観ですから気にしませんよ」と言えるのだ——つまり「『火垂るの墓』は実際の作者[AA]の意図と異なった意図を持った作者[HA]によって制作されたように見える(appear)」(p. 583)と。

 

② 仮説的作者の構築は、文脈的な要素によって制約されるべきである。

作品の文脈とは、時代はいつで、世相はどんな感じだったとか、そういう作品外部の情報のことだ。

ここでいう文脈主義とはつまり、作品の意味内容は、作品それじたいだけではなく、時代状況などの文脈的要素からも影響を受けるという立場だ。

HAHIもこれを採用しており、つまり、仮説的作者は作品それじたいだけから構築されるのではなく、社会的・政治的状況も加味して構築されるということだ。

ジョナサン・スウィフトに「穏健なる提案」という作品がある。この作品では、「アイルランドの貧しい人々は、かれらの子供たちを富裕層に食料として売ることで、経済的圧迫を軽減できる」と主張しているのだが、仮に仮説的作者が作品それじたいだけから構築されるとしたら、その仮説的作者は幼児殺しを提唱するヤバいやつになるだろう。しかし、HAHIは社会状況・政治状況といった文脈的な要素も加味するので、仮説的作者は風刺的な意図を持った人物とすることができる。

ただ、ここでひとつ疑問が残る。すなわち、いったいどこまでの文脈的要素が解釈にかかわるのだろうか?例えばシェイクスピアが『ハムレット』をものしたときの髪の長さは文脈的要素のひとつだが、解釈にはかかわらない。では、使うべき文脈的要素と使うべきでないそれとの線はどのへんに引かれるのだろうか?

Linは、その線をどこに引くかによって、HAHIを保守的なバージョンとリベラルなバージョンに分ける

HAHIの2つのバージョンとその中間

先述のとおり、LinはHAHIを保守的・リベラルなバージョンに分けて、その中道の穏健(moderate)なバージョンを擁護する。

まずは保守的なバージョンとその批判を見ていこう。

保守的なHAHI

先述のNehamasに帰される立場。

保守・リベラルは使うべき文脈的要素の範囲で分けられるといったが、保守派のそれはリベラル派に比して非常に大きい。Linいわく、保守的HAHIが解釈に使うべきだと主張する文脈的要素は、実際の作者の伝記的知識同一作者が書いた他の全作品についての知識当該ジャンルに関する知識、さらには歴史、心理学、人類学などの「世界についての知識」だという。保守的HAHIとは、こうした文脈的要素を知り尽くした上で構築される仮定的作者が意図した意味が、解釈の正解だと主張する立場だ。

こうして仮定された作者は実際の作者の理想像なので、解釈の一元論につながる。解釈の一元論とはつまり、正解の解釈はただひとつであるというものだ。テクストの全特徴を完璧に説明する理想を目指しましょう、というのがネハマス流のHAHIであり、ここでいう保守的なHAHIだ。

簡単にまとめると以下。

保守的なHAHI:実際の作者に関する情報を含めた広範な文脈的要素を加味した上で、作品の全特徴を完璧に説明できるような一つの理想の解釈を目指すべきだ。

こうした保守的なHAHIに対して、Linは2つの批判を提示する。

第一に、実際の作者の伝記的情報を使う以上、実際の意図主義と区別がつかないのでは、という批判。後述の実際の意図主義への批判の項で見るように、伝記的情報を使うことには色々問題がある。

第二に、保守的なHAHIが提示する基準では一元論は維持できないのでは、という批判。保守的なHAHIはテクストの全特徴を完璧に説明できる理想の解釈がただ一つあり、それを目指しましょうという立場だが、では完璧にってどういう意味なんだという部分で論争が生じうる。つまり「最大の説明力」という、解釈を一つに絞るための基準はけっこう論争的だから、一元論は無理筋なのではということだ。「解釈者たちは、その解釈が一貫性を持っているのか否か、説明している範囲は既に十全なのか否か、テクストのある特徴は適切に説明されているのか否かといった点について、同意を形成しない可能性がある。仮説的理想を特定するためのこうした理想的条件は、実際問題、論争の対象となりうるのである」(p. 587)。

以上2つの批判によって、Linは保守的なHAHIを棄却する。

リベラルなHAHI

Waltonに帰される立場。

保守派との決定的な違いは2つ。

まず、実際の作者に関する伝記的知識や同一作者の他の作品などを解釈に使うべき文脈的要素としていた保守派と違い、リベラル派は実際の作者に関する情報を禁欲し、作品制作当時の時代に関する一般的な情報(世界史的・思想史的にどういう時代状況であったか)や、当該のジャンルに関する知識、その芸術形式の歴史に関する知識といった情報のみを使う。

そして、解釈の一元論を是とした保守派と違い、リベラル派は多様性を重んじる(これが保守・リベラルという言葉遣いの所以のひとつ)。互いに矛盾しあうような解釈であっても、上記の文脈的要素を加味した上で妥当な解釈であれば許容するという、解釈の多元論を取るのだ。

べつに文脈的要素の範囲と解釈の多元・一元論とは直結しないとは私は思うが、たしかに解釈に使う情報が少なければ少ないほど解釈の幅は広がるものだ。これは証拠が少なければ少ないほど犯人候補が増えるのと似たものかもしれない。

リベラルなHAHI:歴史やジャンルに関する情報といった文脈的要素を加味した上で妥当な解釈を目指そう。作者のプライベートな情報は使わず、互いに矛盾しあう解釈を許容しよう。

Linによる批判は、もっと作者のプライベートな事情に関係する文脈的要素を加味しないと、作品の正しい意味は読み取れないのではというものだ。

たとえば、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』は、作者自身は幽霊譚として意図しているのだが、実際に読むと、幽霊のように見えているのは精神を病んだ語り手の妄想であるようにも思われる。つまり、幽霊譚なのか信用できない語り手の妄想の話なのか、テクストからでは読み取れないのだ。しかしながら、リベラルなHAHIは実際の作者に関するプライベートな情報(インタビューや日記など)は参照しないので、幽霊譚だと正しく解釈できない。

さらに、リベラルなHAHIは同一作者の他の作品を参照できないため、たとえば三部作の読み方を誤る可能性がある。Linは挙げていない例だが、夏目漱石の初期三部作を考えるとわかりやすい。『三四郎』『それから』『門』はそれぞれ別々の人物を描いた作品であるにもかかわらず、三部作という枠組みで読むべきものだ。というのも、どの作品も知識人の男を主人公とし、それぞれ近代的自我や、恋愛や倫理にかかる知識人の内面的苦悩をテーマにしていて、そうしたテーマが三部作で段階的な発展を遂げていくのだ(受動的な若者の失恋→能動的な高等遊民の略奪愛→略奪愛を遂げたおじさんが希求する内面的救済)。こうした連関で読まないと三部作のそれぞれの作品の正しい解釈はできないだろう、だから実際の作者に関する情報(その作者の他の作品など)を使うべき、というのは確かにリベラルなHAHIへの妥当な反論だ。

あるいは、作者が受けた文学的影響も正しい解釈には必要だ。Linが指摘するように、その作者が『動物農場』から多大な影響を受けていると知らなければ、作中の動物に込められた風刺的要素を見落とす可能性がある。

穏健な(中道の)HAHI

そこでLinが提示するのは、穏健なHAHIだ。この立場が解釈に使う文脈的要素は、「実際の作者の他の全作品、実際の作者の文学的影響、作品のジャンル、作品制作を取り巻いた社会史的要素、当該のアートワールドの伝統や当該の芸術[形式]の伝統」だ(p. 588)。見ての通りリベラル派より多く、伝記的事実といった私秘的な要素を使わないという点で保守派より少ない。保守派は使う証拠が多いので解釈の一元論を支持していたが、Linの使う文脈的要素はそこまで多くないので、解釈の多元論を支持している。

Linが穏健なHAHIの特徴づけを要約している部分を以下に引用する。

(a)穏健なHAHIは、解釈をおこなうためのひとつの方針を推奨する、文学解釈*1の規範的な説明である。作品の実際の意味を構成するのはこれこれであるという理論を提示する形而上学的な説明ではない。

(b)その規範とは、解釈者は実際の作者ではなく仮説的作者が作品に持たせようと意図したことにしたがって解釈をするべきだ、というものである。

(c)仮説的作者は、作品から取り出された一連の特徴と、作品制作時の関連する文脈的要素に基づいて、受容者によって構築される 。

(d)仮説的作者の構築に制約をかける文脈的要素は、作品の同一性の条件[ジャンル、カテゴリーなど]である。

(e)こうした制約を受けた文脈的要素は、[リベラル派が参照する]事実に関する広い知識よりは細かい[すなわち作者に関する情報も加味している]が、[保守派が参照する]実際の著者に関する私秘的(esoteric )な情報ほど細かいものでもない。

(f)こうした穏健な範囲の文脈的要素は、単一の理想的な著者の構築を拒否して、〈互いに矛盾しあうにしても平等に受け入れられる諸解釈につながる、複数の仮説的作者〉を支持する 。(p. 589)

 

 

実際の意図主義に反論する

ライバルに反論して自説の優位性を示すパート。

Linが提示する穏健な実際の意図主義への反論は主として3つ。

第一に、穏健な実際の意図主義は、たぶん『入門』でも解説されているように、作者の意味論的意図(こういう意味を持たせようという意図、文脈)が成功しているときは意味論的意図が作品の意味を決定し、失敗したときは決定できないと主張するが、失敗した場合は何が作品の意味を決定するのかについて明確な基準を出せていない。

失敗した場合、作品の意味は意味論的意図以外の要素が決定するか、もしくは作品の意味が決定できないのどちらかだ。後者は論外として、意味論的意図以外の要素が決定できるなら、意味論的意図が成功したときもそれだけでいいじゃないか。つまり、意味論的意図は解釈に使わないでいいじゃないか。これがLinの批判だ。

第二は意図主義からの批判に再反論するかたちで進む。その批判とはすなわち「仮説的作者はけっきょく実際の作者の意図を知るための発見装置としての役割しか担っていないから、最終的に実際の作者に還元されるのでは」というものだ。簡単に言い換えると、「仮説的作者の意図したこと」とは「実際の作者の意図しえたこと」なのだから、わざわざ仮説的作者なんて構築する必要なくない?だったら実際の意図主義でよくない?という批判だろう。

Linの再反論の核心は、「実際の意図主義とHAHIが、正解の解釈の決定要素に関して根本的に異なる形而上学的前提をもつ」という点にある 。つまり、実際の作者の意図を正解の解釈の決定要素とする前者に対し、後者は証拠(テクストや関連する文脈的要素)との整合性を正解の基準と見なすのだ 。したがって、HAHIが実際の意図主義と区別できないという批判は、こうした形而上学的相違(何によって解釈を真とするかの相違)を無視しているため、誤りである

つまり、実際の意図主義は作者の意図と作品の意味との間の因果関係を解釈の正解を決定するひとつの基準として用いるが、HAHIは証拠との整合性をその基準として用いるので、そもそもあなたたちはなぜ仮説的作者を構築するのかの目的を見誤っている、ということだろう。Linが最初に意味論的・形而上学的問いと規範的・認識論的問いを分けて後者に重心を置いたのがここで活きているといえる。

第三。穏健な実際の意図主義者のNoël Carroll(邦訳)は、意図主義に対する「作者の意が作品の意味を決定するなら、ハナからテクストではなく意図のほうを参照すればいいのであって、テクストはいらなくなってしまうのでは?(そしてこれはおかしい帰結である)」という批判に対して、「テクストこそが作者の意図の最良の証拠であるので、テクストは不必要にならない」と反論している。つまり、テクストから作者の意図はふつうに推察できるでしょ、ということ。

Linはこれに対して、「テクスト(内部証拠)から推察される作者の意図が作品の意味であるかどうか、つまり作者の意図が成功してるか否かは、けっきょく作者の意図を示す外的証拠(日記やインタビュー)に拠らないとわからない」と反論する。つまり、テクストを捨てているという批判に対して、「いやいや、テクストこそ意図にたどり着くための最良の証拠ですよ」と反論するCarrollに、「その証拠が正しいか否かは外部証拠を参照しないとわからないから、結局テクストはいらなくなる」と再反論しているのだ。

一方、HAHIはこうした問題に直面しない。テクストという内的証拠+条件付きの文脈的要素(外的証拠)によって仮説的作者を立ち上げるという一貫した理論があるからだ。

AAHIに反論する

ライバルに反論して自説の優位性を示すパートその2。

実際の作者についての仮説的意図主義(AAHI)とは、上述のとおり、理想的鑑賞者が実際の作者について立てた意図の最良の仮説が正解の解釈だという立場だ。そして、その理想的鑑賞者とは、その作品が生まれた伝統、同一作者の他の全作品、公にされている作者の文学的・思想的アイデンティティ、作者のペルソナのすべてに精通した人物であるとされる。

ここから分かる通り、AAHIが用いる解釈の証拠はHAHIのそれと重複している。Linは、2つの立場の唯一の違いは、意図がどこに帰属されるかでしかないと述べる。

ただ、これは決定的な違いだ。というのも、AAHIは仮説的な実際の作者が意図したこと、という唯一の答えを目指す一方で、HAHIは作者が意図しえたことという、解釈の複数性に開かれた多元的な解釈観をもっているのだ。これは重要な隔たりである。

さて、Linによれば、AAHIは、実際の作者によって意図されたものについて最良の仮説を立てることを目指すため、規範的な説明よりも因果的な説明に重きを置いている。

ところで、実際問題として、理想的な鑑賞者と思われるひとびと(有能な研究者や批評家など)の間でも、解釈上の争いは起こりうると想定される。理想的な鑑賞者間で意見が食い違ったらどうすればよいのだろうか。AAHIは、「2つの仮説が認識論的にベストである場合、美的にベターな方を選ぼう」と主張する(p. 594)。

Linがツッコむのはここだ。AAHIのこの主張は規範的な主張であり、さっきまでの因果的な説明と齟齬があるじゃないか、とLinは批判する。いっぽうHAHIはハナから規範的主張を目指しているので、そのような陥穽にはおちいらない。

私としては、因果的主張が規範的主張の根拠に使われておらず、規範的主張の正当化には美的価値という他のアイテムを使っているので、べつに批判するところではない気がしている。ただ、Linが言いたいのが「AAHIは因果的な主張のために実際の作者を持ち出している(なぜなら作者しか因果的な力を持たないので)。だが、AAHIをよくよく調べてみると、最終的には規範的主張をしているようだ。規範的主張をしたいのならば、そもそも因果的主張のために持ち出された実際の作者を引き合いに出す必要性はないのでは」という批判であったならよくわかる。

これに関連して、LinはAAHIが意味論的意図を等閑視することに異議を唱える。因果的な説明を与えたいのならば、作者の意味論的意図は捨てるべきではない。これは日常会話において、意図の仮説が実際の意図に優先されないのと同じだ。

ここはわかりづらいので補助線を引いておくと、

①AAHIが因果的説明をしたいならば意味論的意図は捨てるべきでない。

②規範的主張をしたいならばそもそも実際の作者について仮説を立てる必要がない。

と言っているのだと思う。

ただ、②の「立てる必要がない」を「立てるべきでない」に強めないと①②からはAAHIを採用するべきでないという積極的な主張は導けない。そして、Linは②についてそこまで強い主張を出せていない。というわけで、この辺はちょっと詰めが甘いのではというのが私の評価。

 

倫理的批評についての反論に反論する

Ted Nannicelliは論文'Ethical criticism and the interpretation of art.'において、仮説的意図主義は倫理的批評を説明できないと批判している。実はNannicelliが槍玉にあげている仮説的意図主義はAAHIのほうでHAHIのほうではないのだが、Linは我が事として受け止めて応答しているようだ。

倫理的批評とは「この作品はこれこれの倫理的な美徳(反戦、反差別など)あるいは悪徳(プロパガンダ、差別)を意味しているため、倫理的に良いあるいは悪い」という批評のことだ。穏健な実際の意図主義者であるNannicelliは、こうした倫理的批評は実際の人間による、Linの言うところの「因果的」な意味論的意図が前提にされているため、仮説的意図主義は倫理的批評を説明できなくてだめだと主張する。

Linはこれに対し、Nannicelliが記述的な主張をしているところにツッコミを入れる。第一に、Nannicelliは「現にひとびとは倫理的批評を意図主義的におこなっているから意図主義を採用するべきだ」とis/ought fallacyめいたを主張しているが、われわれが目指すのは規範的主張なのでその批判にはあたらない。第二に、記述的な主張としても微妙である。なぜなら、「解釈は受けての自由」的な反意図主義的実践も、「作者の死」という流行のフレーズのもと広がっているからだ。

以上より、Nannicelliの議論は受け入れられない、とLinは結論づける。

確かにNannicelliの論証に不手際があるのは分かるのだが、私には不満な点がある。すなわち、「倫理的批評には実際の作者が必要である」という主張に真っ向から答えていないところである。

ので、HAHIに共感的な私が足しておく。

たとえば、特攻のシーンに感動的な音楽をかける映画について、HAHIの方針によって「この作品は戦争を美化していてだめだ」と結論づけたあとで、作者が「いやあれって特攻の虚しさを強調するための皮肉のつもりだったんすけど」と返したとして、その倫理的評価は覆るだろうか。実践は覆らない寄りだと思う。「そんなつもりはなかった」という言い訳で評価が覆ることはそうそうないだろう。そしてそんな言い訳で覆ってしまっては「不勉強が祟って意図せずして作ってしまった差別的な作品」を差別的だと非難できなくなってだめなので、規範的にも「覆すべきではない」といえる。

私の立場:倫理的批評において、その評価の帰属先のひとつとしては確かに実際の作者は必要だ。これは作者が持つ因果的な力によって正当化される。しかし、解釈の正解を決めるにあたっては実際の作者の意図の出る幕はない(HAHI)。

コメント

  • 作品評価の哲学に暗いため先行研究をあまり知らないが、倫理的評価(≠解釈)の話はけっこう面白いと思う。例えば昔の作品における差別を理由に作品を低評価するべきか問題とか、考えがいがある。
    低評価するべきでない派「今だから差別って言えるけど、昔のひとはそんなのわからないから仕方ない」
    低評価するべき派「しかし、昔の進歩的な作品が作品が評価されることがある。ストップひばりくんについて「あの時代にしてセクマイを魅力的な人物として描いていてすごい」という評価はありえるだろう。進歩的要素が高評価されるのなら、差別的要素は低評価されるべきだ。差別的表現が出てくる文豪の作品を評価しないなら、その低評価を覆すほどの価値を持っているというべきであって、差別によって低評価するべきでないとまで主張する必要はない」
    べきでない派「進歩的要素が高評価の理由になることは認める。だが、そこから差別的要素が低評価につながるという主張は導かれないはずだ。たとえばある作品では設定の濃密さが評価されるという理由で高評価されたとしても、設定の濃密さの持たない数多の名作がそれによって低評価されることにはならない。ひとつの作品は全ての評価軸によって測られるわけではないからだ」
    べき派「確かにそうだが、評価軸の選択は批評の文脈に依る。たとえばエンタメとしてみれば不快なだけの作品がフェミニズム批評においては傑作とみなされることがある。これと同様に、ある種の倫理的批評においては昔の作品の倫理的瑕疵は作品の低評価の理由になるべきだ」
    つづく……。芸術作品の倫理的評価についてはmoralism-autonomism論争が有名だが、あのへんの話がこれに寄与するかは微妙だと思う。話の前提には使える(というかmoralism寄りの立場を前提しないと作品の話にする必要がない)けど、いまいち使えるイメージがわかない。
     
  • 文学のなかでも意図がどれだけ証拠として強いかはカテゴリに依存するように思えてきた。私はHAHIに共感的なのだが、俳句については意図主義をとりたくなる。
    三池泉という俳人に「夏めくと見えないところ感じ居り」という句がある。「見えないところ」ってなんだろうか。私は「背中」だと解釈して、夏の入りにひさしぶりに背中が汗ばんで、その存在を感じてしまうなあという初夏の情緒を詠んだ句だと考えている。もし私が俳句のエキスパートであれば、HAHI的にはこれが正解の解釈だ。
    しかし、三池さんが「背中じゃなくて股間のことです」といったらどうだろう。私は解釈を撤回したくなる。理由は以下。
    まず、私はこの句を低く評価したくなる。蒸れた股間に初夏の情緒はないからだ。他の芸術形式や文脈によっては蒸れた股間への眼差しが功を奏す場合もあるが、俳句としては微妙だろう。
    そして、解釈を撤回しないと、この低評価はできない。

    つまり、「低評価が正しいだろう、そうすべき」だという理由で、「正しい解釈を、HAHIが支持するであろう背中解釈ではなく意図主義が支持するであろう股間解釈にするべきだ」という主張をしている。
    ……論点先取っぽい感じもするし、低評価が直観以外で支持できていない。また別の機会に考えよう。
     
  • エントリー名が長くなるのが嫌だったので「仮説的意図主義の洗練」としたが、それならAAHIのほうの現状も紹介するべきだったかもしれない。気が向いたら「その2」を付けてそっちも書く。
    ちなみに今年、実際の意図主義からのおなじみの2つの批判(意味論的意図の等閑視は恣意的だ&『入門』で紹介されてるホームズの傷のパラドクス)からAAHIをディフェンスするという昔ながらの論文がBJAから出ている。Linはそうと断ったうえでウォルトンとかカリーとかのフィクションの哲学系統のtruth in fictionの話と解釈の哲学の話を一緒くたにしているが、これの著者は、AAHIが解釈理論としてはよいけれどtruth in fictionの理論としては不十分だと結論づけている。
     
  • 種々の締め切りがあるので、意図論争の現在②は夏休み以降になると思う。価値最大化説について、その擁護者GoldmanのPhilosophy and the novelを読み終わってから書くつもり。たぶん③は極端な意図主義リバイバル、④はフィクションの哲学系統と続いてゆく。

 

 

 

*1:訳注。Linは映画にも適用できるだろうと述べている。




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