1982年9月16日に起きた、サブラ・シャティーラの虐殺。当時、ベイルートを訪れたいたジャン・ジュネは、9月17日にその地区で何かが起きていることを知らされ、19日にジャーナリストを装ってシャティーラ・キャンプに入った。そこで見たことを作家の目を通して叙述した詩の響きがするルポルタージュ。
写真やテレビの画面からは伝わりにくいものを、現場を歩いた者として記した部分を引用してみます。
写真は二次元だ、テレビの画面もそうだ、どちらも端々まで歩み通すわけにはいかない。通りの壁の両側の間に、弓型にねじ曲がったもの、踏んばったもの、壁の一方を足で押しつけもう一方には頭をもたれた黒くふくれた死体たち。私が跨いでゆかねばならなかった死体はすべてパレスチナ人とレバノン人だった。私にとって、また生き残った住民たちにとって、シャティーラとサブラの通行は馬跳びのようになってしまった。死んだ子供が一人で、時にはいくつもの通りを封鎖できた。道は非常に狭く、ほとんどか細いといってもよく、そして死体はあまりにも多かった。その臭いは年寄りには親しみやすいものらしい。それは私を不快にしなかった。だが、何という蠅の群。死体の顔の上に置かれていたハンカチかアラビア語の新聞を持ち上げるだけで、私は蠅の邪魔をしてしまった。この仕草に激昂した蠅たちは、大群をなしてやって来て私の手の甲に止まった。そしてそこから栄養を貪ろうとするのだった。(中略)
蠅も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。一つの死体から他の死体に移るには死体を飛び越えてゆくほかないが、このことも写真は語らない。
(引用元:ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』(インスクリプト)p.10 - p.12)
サブラ・シャティーラの虐殺については、以下のサイトを。
写真や動画は、長文を読むのが苦手な方にも情報を届けられる媒体になりますが、中井久夫が『「昭和」を送る』(みすず書房)でも指摘していたように映像だけではすくいとれないものもある。ことばだから、文章だから伝えられるものがある、ジャン・ジュネの文章からはことばのもつ力が実感できる。ことばは無力ではない。
本の読める人は、本を読もう、こんなときだからこそ。