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小林信彦はフジテレビをどう見ていたか 『テレビの黄金時代』文春文庫

ニュースでフジテレビが話題になっているので、小林信彦が80年代からいきおいづいたフジテレビ的お笑い番組をどう見ていたか、『テレビの黄金時代』から引用しておきます。

 1980年から81年にかけて<漫才ブーム>というのがあった。これは1965年ごろの色物番組(トリオ芸人)ブームに似ているが、ちがうのは中心になったのがフジテレビであること、芸人を供給したプロダクションが主として吉本興業太田プロだったことである。
(中略)
 わずか1年半ぐらいの<漫才ブーム>であったが、後のテレビに非常な悪影響をあたえた。
 なぜかといえば、これほど安上がりなものはないからである。
  1 簡単なセット
  2 漫才ほかのタレント3組~5組
  3 あらかじめ準備された観客
 1965年の色物番組ブームと同じであるが、ちがうのは出演するタレントをわずかなプロダクションから選ぶことであった。大半は大阪のタレントで、東京側は太田プロビートたけし・きよし以下ごくすくない。
(中略)
(……)1980年春からフジテレビ制作の「THE MANZAI」というスペシャル番組が定期的に放送され、フジテレビ=漫才の局というイメージが定着した。
 こうなると、プロデューサーの仕事はタレントを押さえることであり、芸能プロのマネージャーの仕事は一人でも多く自社のタレントを番組に押し込むことである。当時、吉本の東京事務所社長だった木村政雄はフジテレビの横澤彪プロデューサー相手のタフな交渉ぶりをエッセイに記している。
 おそらく他の番組でも(日本テレビも含めて)、プロデューサーの仕事をタレントをいかにして押さえるかが先決になったと思われる。<こういうことをやりたい>という強烈なイメージなしで番組を作ろうとすれば、視聴率のとれるタレントを何らかの形で押え込むしかない。プロデューサーは<タレント押え業>になる。
 アメリカを真似て、1970年ごろから日本でも番組制作のプロダクションが作られたが、そこでも、まずタレント押えが先決になる。タレントと友達風につるむか、<偉い人>とオダててからめとるかは別として、彼らの<ヴァラエティ>はそんな風に作られている。
(中略)

 誰もがコボすが、放送開始五十年になる日本のテレビ界には、トーク番組とは名ばかりの、面白くもない会話をだらだらと流す安手の番組が実に多い。

 または、パロディとは名ばかりの、有名映画やヒットしたテレビの1シーンを、そっくり真似る傾向――これは物真似番組の流行とつながっている。物真似番組そのものが、面白いかどうかも疑問なのだが、それで視聴率がとれるとなると、物真似を転用したコーナーを<ヴァラエティ>の中に作る。
 さらに、<漫才ブーム>の悪影響がいまだに続いていて、汚い大阪弁のタレントを投入して、番組の特色を出そうとする。大阪弁そのものが汚いのではなく、まともな大阪人が嫌悪するような言葉をわざと使うし、使わせる。往年のテレビを知らない世代の人はそれを<ヴァラエティ>と信じ、局の人は「東京のタレントで大物が出ないから、仕方なくこの連中を使って……」と言いわけをしている。
(引用元:小林信彦『テレビの黄金時代』文春文庫 p.354 - p.358)

音楽ヴァラエティを愛する小林信彦の目には、「ヴァラエティの伝統がない」フジテレビはあまりいいものに見えておらず、ほかの本でも「タレントを消耗品扱いする」フジテレビと書いたりしていたのを記憶しています。

 

 テレビの音楽ヴァラエティ盛衰とともに戦後日本の一断面をとらえる『テレビの黄金時代』、ぜひ読んでみてください。




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