
人気の司会者は、特攻要員だった
今年2025年は昭和100年。昭和レトロをテーマにした企画も多そうです。↓例・フェリシモの「カワイイ昭和博」
今日は、まさに華やかな昭和カルチャーを作ってきた人物を紹介しましょう。『ゲバゲバ90分!』や『夜のヒットスタジオ』などの司会で知られたタレントの前田武彦(1929-2011)です。
この明るい画像からは想像しにくいのですが、前田武彦は敗戦の年に、16歳の特攻要員でした。
▽右が前田武彦。左が大橋巨泉。真ん中は「ゲバゲバ90分」のキャラクター、ゲバゲバおじさん。

16歳の特攻要員・前田武彦
「え、16歳で特攻?まだ子供でしょう?」と思われるかもしれませんが、前田武彦は1975年の『暮しの手帖』(35号)で特攻隊にいた少年時代を回想しているのです。
昭和20年、戦争はいよいよ末期的な様相を呈してきた。予科練を育成しても乗せる飛行機がない。苦肉の策で特攻兵器が幾つか作られた。そして、余った予科練をそちらの方へ向けて、いわゆる特攻要員にする計画が立てられた。

▽拡大したところ。エッセイに添えられたイラストも、顔がコドモですね。

特攻要員に選ばれてしまう
15歳で海軍の予科練を志望した前田武彦ですが、昭和20年になると訓練もそこそこに、特攻要員として「振り当てられ」たのだそう。*1。
前田少年は、「特攻要員の志願を募る」ための紙(無記名で提出する紙。「大賛成」「賛成」「反対」「大反対」の四択)に「反対」と書いたせいで、逆に特攻要員に選ばれてしまったのです。
後でわかったところによると、選ばれたのは反対とか、大反対とか書いたものばかりだったのだ。無記名で出したはずの藁半紙には、肉眼でわからぬように、小さな針の穴が開けられていて、何列目の何番目のものが、なんと答えたかが、すぐわかる仕組みになっていたのである。これは特攻隊に転属になってから、誰言うとなく広まった噂で、真偽のほどはいまだにわからないが、反対と書いたものばかりが、ああまで偶然に選ばれるのもおかしい。おそらく、意気地なしのクズだけを、特攻に廻そうという、軍の計画だったと考える事は、容易である。(1975年『暮しの手帖 35号』)
かくして、「意気地なしのクズ」認定された前田少年は、「蛟龍(こうりゅう)」という特攻兵器の乗組員として訓練を受けるはめに。
訓練の場所は、人間魚雷「回天」の基地の隣でした*2。
【参考画像】前田武彦が乗るはずだった「5人乗りの特殊潜航艇」蛟龍

自分の指を切断する少年
出撃の日を「死刑執行の日」と感じていた前田少年は、ある日「恐ろしい話」を知ることになります。
「お前たちの中に、まことに愚かな者が1人いた。訓練用の潜航艇のハッチで、自分の指を3本切断してしまったのである」
訓練用の潜航艇というのは陸上に置いてあって、実戦には使えないが、すべて本物と同じに出来ている。ハッチと言うのは鉄製で重く、指を挟んだら、簡単に切断してしまうだろう。
「しかも誤って切断したのではない、わざわざ自分でやったのだ」
自分で自分の指を3本も…一体どうしてそんなことを…。聞いていた予科練からざわめきが起こった。
「指3本以上を失えば兵役免除となる、栄えある特攻隊に選ばれながら、命が惜しくなってそんなバカなことをした者がいるのだ。その者は直ちに、軍法会議に送られ、処刑される。以上」(1975年『暮しの手帖 35号』)
……「自分で自分の指を3本も」……
この嫌なニュースから、わずか5日後に戦争は終わりました。
上記の『暮しの手帖』エッセイは、「軍歌を肴に一杯飲む気に僕はどうしてもなれない」という一文でしめくくられています。
テレビは「とにかくハッピー」に
現代の私たちにとって、楽しそうなテレビ番組「ゲバゲバ90分」(1969-1971)と、司会者・前田武彦の「特攻」を結びつけるのは、とても難しい。
しかし彼の脳内には、敗戦から30年たっても、《兵役免除のために指を切断した少年》が存在していたわけです。

前田武彦はテレビで大活躍した日々を、自伝『マエタケのテレビ半世紀』でこう綴っています。
暗い過去や悲しい思い出に戻るより、とにかくハッピーな今日・明日を考えていきたい。戦中、戦後を生きてきた人間は、この時、もう自分に課せられた伝達の任務を忘れていた。
「暗い過去や悲しい思い出に戻る」のはイヤ!というのは仕方ないことでしょう。でも戦中・戦後を経験した人達には「伝達の任務」を、もっと果たしてほしかった…*3
現在、いくらでも《美しい日本》のイメージを作れてしまうのは、やっぱり過去の悲しい記憶が、ちゃんと伝わっていないからだと思うのです。
以上、『ゲバゲバ90分』などの司会者だった前田武彦と、特攻について紹介しました。
私たちが目にする「ハッピー」な昭和は、さまざまな苦しい記憶にフタをした上で成り立っていたのかもしれません。
どうか、少年が「兵役免除」のために指を切断する時代が2度ときませんように。
そして昭和の賑やかなカルチャーにふれるときは、ぜひ10年、20年と逆算してみてください。すこし時間を巻きもどしただけで、かならず戦争の記憶にたどりつきますから。
▽少年の命が、軽かった時代
*1:『むかし、みんな軍国少年だった』(2004)から前田武彦の章を引用します「しかし、我々14期が飛練に進む昭和19年の段階では、飛行術などと言う悠長な時間過ぎており、卒業即、特攻兵器要員と言う切羽詰まった時代に追い込まれていた。私たち14期の一期上の13期でさえ、半数以上が飛行教程に進めず、水中、海上特攻兵器要員に振り当てられる始末だった」
*2:「隣には人間魚雷“回天”の基地があって、時々軍艦マーチに送られ、大型の潜水艦に搭載された回転が出港していく姿が見られた。 “回天”は人間が乗る魚雷で、仮に命中しなくても再び浮上し、生還する可能性は皆無だと言う。それに比べれば、まだ“蛟龍”の方が少しは生き残る希望がありそうだが、特攻とつく以上は命の保証があるはずもない。訓練が進み、出撃の日が近づく事は、死刑執行の日が迫っているのと同じだ。」(1975年『暮しの手帖 35号』)
*3:前田武彦は1975年の『暮しの手帖』で特攻隊時代の回想を書きましたが、この時期の彼は、ある事件がきっかけでテレビの仕事を干されていたのです。つまりヒマだった。もし、司会者としてそのまま大活躍を続けていたら、このエッセイすら書かれることはなかったかも?…などと想像してしまいます