
朝鮮戦争とカラフルな服
朝鮮戦争(1950-1953)の前後は、意外なほどカラー写真が豊富。flickrには「祖父が撮ったKoreaとJapan」的なくくりで、多数の写真がアップされています。
なかでも目をひくのが[Korea, 1952]といったキャプションがついている、色あざやかな服の存在です。
「この服はいったいどこから来たのだろう?戦争中なのに」と、長いこと不思議でした。以下、例をあげてみましょう。※すべて元からカラー写真です。
▽[Korea, 1954]太いベルトと鮮やかなスカート。
▽[Korea, 1952]
▽[Koje (Geoje) Island, Korea 1953]
▽[Korea, 1953]
▽[Korea, 1953]
▽街ゆく人たちと、服装のギャップがすごい。[Korean market scene, 1952]
【参考】1952年、朝鮮戦争の野戦病院で手当を受ける子供たち。※【閲覧注意】野戦病院の写真はコチラにも。
アメリカの通販で服を入手していた?
戦争中に存在していたカラフルな服のナゾ。
先日ようやくそのナゾを解くヒントが見つかりました。朝鮮戦争が舞台の『マッシュ 』(1968)という小説を読んでいたら、いきなり「シアーズ」(アメリカの通販)が出てきたんですよ。どうやらカラフルな服は、通販が関係していたらしい。(※作者のリチャード・フッカー・Richard Hookerは外科医。『マッシュ 』は朝鮮戦争での体験をもとに書いた小説です)
ソウルと最前線を結ぶ唯一の主要幹線道路に面しているという地の利を得て、「一流街頭サービス慰安所」は、トラック運転手が1人残らず一時停止することから、その評判がかなり高かった。(略)
さしまねく女たちは「シアーズ・レーバック」のカタログをもとに仕立てた、目もあやなアンサンブル(原書ではthe most colorful ensembles available through the Sears Roebuck catalogue)を着込んで、雨にも負けず風にも負けずハイウェイにずらりと勢ぞろいしている。

カタログを握ったまま亡くなった女性
また『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』(2023、高文研62頁)にも、『ニューヨークタイムス』特派員の報告*1に、シアーズのカタログが……。
3、4日前、中共軍のために進撃が阻止されたので、村落にナパーム弾攻撃を加えた。 村落にはいたるところに、死体が埋葬もされずにころがっていた。(略)。シーアス・ルーバックのカタログから「魅惑的なベッド掛け、珊瑚色」2ドル98セント、手紙によるご注文は3、811、294番に願います、という下に鉛筆線を引いてあるちぎれた1ページを握ったままの、妙に目立たない家庭の主婦、小さな村だが、200人近くも死んだにちがいない。
ちなみに実際の「シアーズ」カタログはこんな感じ。画像はシアーズカタログを年代順にまとめたサイトから。すさまじいボリュームです。

日本でも、シアーズのカタログから注文していた
さらに、同時期の日本(埼玉県朝霞)では、「パンパンガール」達がシアーズのカタログで注文していたという証言を見つけました。朝霞といえばキャンプ・ドレイクがあった土地ですね。画像はハニーたちのよそほひ五六態つづき – 市民が集めた朝霞の歴史 Asaka History Galleryから。
運よくやさしく金離れのいい米兵のオンリーになれた女は、 米国最大の通信会社シアーズのカタログから彼に註文させた”アメリカの服”で街に出る様になります。 こうなるとパンパンばかりではありません 町の娘さんたちのあこがれの的となってしまうのです。

どんなもんだい、2・3年前の姿はどこにもありません。(略) あこがれの「アメリカのナイロンのストッキング」ももちろん着用です。 おっぱいが尖り過ぎですって?そうこの時ブラジャーは円錐状に巻いたはりがねに布をかぶせたものだったのですから。

「シアーズのカタログから彼に註文させた”アメリカの服」…こういう裏話って、まず公の記録に残らない。とても貴重な絵だと思います。これらの絵をまとめた本『金ちゃんの少年時代: アメリカ軍基地のあった朝霞』はKindle Unlimitedで読めるようなので、ぜひ。
▽また、こちらは日本の佐世保(1954)*2。「ブレードランナー」のレプリカント、レイチェルが着ていそうなドレスです。[Kamiyamada, Japan Nov. 1953-April 1954]
で、上のドレスを入手したのは、同じ部屋でうつっているこの人でしょうね。シアーズ経由かどうかはわかないけれど、flickrで前後の写真を見ると彼はこの家の3姉妹にそれぞれとても凝ったドレスを贈っていることがうかがえます。[Kamiyamada, Japan Nov. 1953-April 1954]
資生堂のCMと、アメリカのカタログを模写する少年
余談ですが、CMディレクター杉山登志[1936 - 1973]は、米軍・立川基地のそばで育ち、通販カタログを熱心に模写する少年でした。『CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代』(1978、PARCO出版局)で、弟・杉山伝命はこう回想しています。
僕と兄貴の遊びといえば。空想的なことを絵に描くことが多かったんですね。「オーダーブック」という、今でいえばシアーズ・ローバックのカタログみたいなものがあって、それを見ると、我々にはとても手が届かないイイ物がいっぱい載っていたわけね。(略)それを彼は全部絵にしてね。「俺はいいものばっかり身につけるんだ」ってその頃から言ってましたね。それは中学生の頃からだったね。
ここにも「シアーズ」が出てくる……敗戦国の切なさを煮詰めたようなエピソードです。杉山登志は、有名な遺書「リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません」をのこして、37歳でこの世を去りました。
▽杉山登志のCM(1970)「資生堂ラブ・イン・カラー」。お茶目な感じが悲しい。

以上、極東の通販カタログ事情でした。
韓国でも日本でも、アメリカ人と距離の近かった女性たちが、いちはやくアメリカのカタログを体験していたといえるでしょう。今回紹介した通販カタログに限らず、戦場のKoreaと、バックヤードのJapanでは、相似の光景があらわれがちでした。たとえば混血児の孤児院などですね。以下もあわせてご覧ください。
*1:「 ニューヨーク・タイムズの特派員ジョージ・バレットは、ソウルの少し南の安養の北にある村を占領したのに従軍した時のことを1951年2月初めに次のように報告している。」『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』(2023、高文研62頁)
*2:[Sasebo Replacement Center, 1954]というフォルダに入っていました。









