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明治生まれの方に着物についてうかがいました

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2003年に、明治生まれの方から、着物についてうかがいました。以前、それを自分のサイト*1にのせていたので、そのまま転載します。当時90歳半ばですから、2020年の現在でいえば110歳くらいでしょうか。

裕福な女性の思い出話

 明治末期生まれ(90才代半ば)の女性に、戦前の着物のことを聞きました。戦前の豊かな一時期を「成人後に」享受できた人です。

 1960年代からつい2001年まで現役で働いていたので、質問するとユーモアのある素早い返事がかえってきます。九段下に住んでした裕福な人(ご主人は日本橋で会社を経営) の回想なので、日本全国に通用するお話では無いかもしれません。

しかし、着物姿が収入に結びつかなかった人(シロウトさん)の思い出話は、けっこう貴重だと思いますので参考にしていただければ幸いです。

着物と季節

「4月は袷。5月になるとセルを着ていました。セルは今でいうウールです。戦前は5月にしか着ませんでしたが、終戦後はいつでもウールを着るようになりました。だってどの人も、戦争で着物がどこかにいっちゃったんですから。 無いものはしょうがないよねえ。」

「家の中では衣替えに関係なく、臨機応変に着ていましたが、お出かけとなるとキチキチッと暦どおりに着物を変えました。間違ったって何か言われるわけじゃないけど、守らないと周囲から目立ってしまうんだよね。だから単の季節になったら寒くたってちゃんと単を着て、そのかわり下に着込んで調整してました。」(私の感想・このキチッとした風習は、まだヒートアイランド現象が無い時代のモノです。現代ではそこまで衣替えにがんばらなくても… )

「夏の夜は、今と違ってとっても涼しかったです。九段下や神楽坂には夜店がずらっと出てね。浴衣着て団扇もって子供達と行くのが楽しみでした。でも浴衣と帯なんて、昔が涼しいから出来たんですね、きっと。」

「夏の昼は暑いので洋服でした。姪が洋裁学校に通 っていたので、アッパッパを作ってくれたのです。でも出かける時はがんばって絽を着ました。だけどもう、汗ビーーーッショリでした。」(注:この「出かける」というのは、ゴージャスで公式なお出かけを意味しているようでした。社長夫人なので。

「ずっとお家にいるような職業の人は、絽や紗を着てなかったですね。持ってなければ、仕方ないですもん。」

柄と、季節感

「正式のおよばれの時には、季節の花と着物の柄をあわせるようにしましたが、普段着はそれほど気にしませんでした。」

「昔は服が全部着物だから、着物にだけ、お金をかけることができたけど、最近の人は洋服と着物と両方買うんだから、お金だって大変ですよ。季節にあわせた着物なんて、言っちゃいられないでしょう?だからなるべく季節のわからないものを買うといいよね。」(注: 言っちゃいられない、しちゃいられない、というのが口グセの人なんです。)

「むかし、よそゆき用の白い絽の帯に絵を描いてもらったことがあって、その時、菖蒲を描かれちゃったの。これには、困った!私が絵の柄を指定しなかったのが悪かったんだけど。」

歩き方

芸者さんは内股で歩いていました。あの人達はそれが仕事なんです。芸者は置屋に“置いて”あるんですから。いつも綺麗にしていないと、命に関わるんですから。でも私たちは着物で何でも家の用事をするから、普通 にまっすぐ歩いていました。それに私なんかがシャナリシャナリしたって、お金もらえないしね(笑)」

「粋」について

私は、よその人から「粋ですね」と言われたくないなあ。 お友達をほめる時も「粋ですね」とは言わない。ほめる時は「素敵ですね」とほめるのが一番じゃないですか?"そのへんの奥さんは、1人の人に好かれればいいんだから。ご主人が野暮ったいのが好きっていうなら、別 に野暮ったくていいんですよ(笑)。それにあんまり奥さんきれいだと、(よその男に)とられちゃうよ。」

髪型

「私は病気したことないけど、若い頃からすごい肩こりでした。日本髪で高い枕なんて、とても出来ない。髪型は、襟足につかないくらいの短さにしてパーマをかけていました。まだパーマが珍しい頃だったけど、私は、新しいことはやってみるんです。新宿の美容院でした」

「日本髪を結った頭がかゆくなったら、カンザシを抜いて、静かにかきました。わーっとかくと、髪が壊れちゃうから。」

着物と年齢

「母親になると、落ち着いた感じの着物を着ました。娘時代と同じような着物を着つづけることはありませんでした。娘時代の着物は、人にあげてしまうか、自分の子に残すかするのです。私は子供が出来た頃には、よく紫紺の無地をきていました。私の着物はみんな無地でした。」

浴衣

「浴衣は衣紋をぬきませんでした。家では素肌に着ていましたが外出するときは汗とりのために、サラシの襦袢を着ました。サラシの襦袢は手製でした。そういうの、売っていなかったんですよ。博多の半幅帯をあわせました。」

「 浴衣は時間帯で色をわけるというのはありませんでした。昼も夜も自分の好みの柄をきていました。紺でも白でも。」

「浴衣は普通は8月いっぱいなんだろうけど、単みたいなもんだから、9月に着てもいいんじゃない?」

綿(わた)入れの着物

「冬は今と違ってすごく寒かったので、綿入れの着物を着ました。おはしょりもして。綿入れの着物はうすい綿が入っていました。ドテラの綿みたいに厚くないだから、そんなに太ってみえないよ。」

「 綿入れの綿はカイコからとった真綿で、着ているうちに布のすきまから綿が出てくるんですよね。そのつど切っていました。綿入れの着物は普段用で、よそゆき用ではありませんでした。」

着物まわりの小物等

「ヒザの下くらいまである、長いショールが流行していました。みんなショールを蹴りながら歩いていましたね。綺麗でしたよ。なんでも流行しているものは綺麗ですね。今、若い人の頭が赤いのも、流行しているから綺麗。」 (私の感想・今は自動ドアが沢山あるから長いショールは危険だと思う! )

「昔は半襟に凝りました。すごく綺麗な刺繍の半襟が売られていたんです。銀座の、ゑり円によく行きました。ゑり円、っていうくらいだから、襟がいっぱいありました。でも、それは外出用。普段用の半襟は汚れが目立たないように、色や柄がついていました。家(九段下)から銀座は、子供達と一緒に歩いていきました。皇居のお堀を眺めながら歩くのです。

「着物を沢山買う人は、呉服屋さんが家に来てくれました。少ししか買わない人は自分で呉服屋さんに出かけていきました。」

メリンス(モスリン

「メリンス(モスリン)は薄手のウール。セルはそれより厚いウール。 メリンスは、お腰、長襦袢、うそつき襦袢の袖にしました。」

「メリンスは反物と切り売りがありました。反物は着物になりましたが、切り売りはお腰用でした。子供は大体メリンスの着物でした。」

普段着の手入

「普段着は銘仙か木綿でした。汚れると、しぼったタオルみたいなもので拭いて。普段着の“洗い張り”は自分でやりました。石けん・ブラシ・ぬ るま湯・洗濯板で。」

銘仙は、ぬいこんであるところ(縫い代)をためしに洗ってみて、色が出ないようだったら自分で洗い張りしました。色が出るようだたったら染め物屋さんに頼みました。そのほか、よそゆきを洗うのも染め物屋さんに頼みました。」

半襟は、絹。昔はぬるま湯と石けんで洗っていました。今はアクロン。生乾きの時に、アイロンをかけるとキレイになります」

戦時中「ガソリンは血の一滴」

九段会館李香蘭がきました。きれいな盛りでした」「主人は、日本橋で会社を経営していたので、家から日本橋まで車で送り迎えがありました。だけど、戦争がすすむにつれ、『ガソリンは血の一滴』といって、それが出来なくなりました。」「建物疎開で家がなくなり、九段下から国立に移りました。国立はフクロウが鳴いていました」

 

【おまけ】

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 この絵についても聞いてみました。すると「レースの袖口を見せるのがオシャレだった」「吊革につかまった時、レースが見えると綺麗でした」という答えでした。(この絵みたいに「ゴム入り」の襦袢もあった気がするとのこと)。また薄手の絹スカーフを巻くのが流行ったらしい。この絵の襟にもフワフワと何か巻いていますね。

*1:「着物イメートレーニング部屋」




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