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華厳宗祖師絵伝と安珍清姫伝説

 道成寺といえば、言わずもがな、安珍僧侶に恋をした清姫が、裏切られたことを恨み、大蛇と化して安珍を追う。最後には道成寺の鐘の中に投げ込んだ安珍を鐘もろとも焼き殺す、という安珍清姫伝説を元にした能楽作品です。能舞台では、シテの、とてつもなくゆっくりとした動きから、突然の動きで鐘が落ちる所がクライマックスで、観客が固唾を飲んで見守る中、突然の静からの動を楽しむのです。といいながら、クライマックスまでの張り詰めた動きのない時間が長すぎて、寝落ちしてしまう観客のなんと多いことか。いや、私だけか。

 対して、華厳宗祖師絵伝に描かれた物語はこれとは違い、あっと驚く結末をむかえるのでした。以下、京都国立博物館の解説を読んでいきます。

 女は、中国唐(ちゅうごくとう)時代に、ある港町に住んでいた長者の娘で、名を善妙(ぜんみょう)といいます。彼女は、新羅(しらぎ)の国から仏教の勉強のためにやってきた僧が美男であることを知り、憧(あこが)れていました。義湘(ぎしょう)という名のその僧が、たまたま彼女の家に托鉢(たくはつ)に訪れたとき、善妙は自分の恋心を伝えます。けれども、義湘は「自分は僧であるから、恋を受け入れることはできない。その心をもっと広く持って仏法(ぶっぽう)を支える気持ちになさい」と諭(さと)します。やがて、留学を終えて義湘は帰国します。出航したあとにそれを知った善妙は、義湘のために取り揃えていた仏具(ぶつぐ)などを持って港に行きますが、船は遠くにかすんでいます。善妙は、仏具の箱を船に向かって投げ入れ、そして自分も海に飛び込みます。すると、善妙の心の深さのために、その身が龍に変わり、義湘の航海を守ることになるのです。この絵巻は、京都市の西北、紅葉で有名な栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)に伝わったものです。高山寺は、鎌倉(かまくら)時代の初めに活躍した明恵上人(みょうえしょうにん)が、華厳宗(けごんしゅう)の道場として復興(ふっこう)したもので、この絵巻も、明恵上人の発案で制作されたものと考えられています。物語の主人公である義湘(625~702)は、古代朝鮮(ちょうせん)の新羅の国の僧で、この物語のもとになったのは、中国で編纂(へんさん)された僧の伝記集(でんきしゅう)に収められた義湘の伝記ですが、絵巻の制作にあたっては、善妙の献身(けんしん)の物語を主要なテーマとしています。この構成には、明恵上人が同じ思想を持つ先輩(せんぱい)として義湘に憧れ、自分を義湘になぞらえようとする心が反映 しています。特に、上人が望みながら果たせなかった留学を義湘は実行し、さらに唐で善妙という、仏法の擁護者(ようごしゃ)の女性を得たことは、明恵の心に強く印象づけられ、善妙を神のようにあがめ、自分にとっての善妙を求める気持ちを強く持っていました。この絵巻は、明恵上人のこうした気持ちを反映して作られたものです。この絵巻は全体としてこの善妙の起こした奇跡の意味を解き明かし、自分にとっての善妙にこれを説くために作られたものと考えられています。

 明恵上人の、生身の人間として体温が伝わってきて、切なくなります。

安珍清姫の物語よりも善妙の物語の方が、性愛や愛憎に振り回されて生きるしかない人間の、心の深いところに入り込んでくる物語だと思う。

多くの人に届くべく、もっと有名になって欲しい。

 

赤い十字 物語としてしか語れない物語

赤い十字 サーシャフィリペンコ 名倉有利訳

 第二次世界大戦前後のソ連を生き抜いた一人の女性。90歳を超えてアルツハイマーを患っているが、それでも気丈な婆さんが語る、彼女の人生。 

 スターリン体制のソ連は、敵国からの赤十字を通じた再三の捕虜交換に応じようとしなかった。本当に勇敢に戦う兵士は、捕虜になんかならない。捕虜になることは祖国を裏切る事であり、反逆罪なのだ。そしてその兵士の家族も同じ罪と断じられ、銃殺されるか、あるいは収容所に送られた。粛清、矯正という表現の元で行われた秘密警察による自国民への虐殺、拷問。残された現実の資料を丁寧に読み込んでから書かれた小説だ。

 遠い過去の事とはいえ、日本の入国管理施設での収容の実態や、ウクライナで起こった戦争犯罪のニュースを聞くにつれ、21世紀になったとて、もうあの様な惨禍は起こるはずがないと無邪気に信じる事はよはやできない。

 物語は主にタチヤーナの人生にそって語られる。モスクワの公的機関で働き、戦争終結後に反逆罪を犯した兵士の妻という罪状で、幼い娘と引き離され収容所に送られたタチヤーナ。収容所から出た後、夫と16歳になっている筈の娘を探す事に残りの人生を費やした。とても、とても胸が苦しくなる物語だ。

 作者はきちんと描いていた。スターリン体制によって人生を壊されて、それでも気丈に生きてきた同国民のタチヤーナを目の前にして、彼女の苦しい人生の話を聞いてなお、

「粛清なんてもんはなかった――みんなでっちあげだ。ドキュメンタリー番組で見たぞ。スターリンは国を建て直そうと頑張ってたのに、いまごろになってボンクラ民主主義者たちがわざわざ書類を偽造してアーカイヴに混ぜ込んでやがるんだ、党の名誉を傷つけるためにな。」と、喋り続ける人物。

 人は信じたいものだけを信じてしまう。個人に贖罪を求めているのではなく、国民として人間として、過去の過ちに学ぼうという事になぜ拒否反応を示して攻撃的になるのか。そういう人はある一定数必ずいる。それは2000年のソ連でも、香港でも、現在の日本でもそうなのだ。どうしてなのだろう。そんな彼らも、近寄って見ると、優しい心根の普通の人だったりするのに。

『そんなあなたの事も守りたい』

演説中にヤジを飛ばされて、返す刀でそう絶叫した政治家がいた。

山本太郎

日本もまだ捨てたもんじゃないかも知れない。

 

 

ぞっとしない話

今週のお題「ゾッとした話」

「それは、ぞっとしないね」

 そんな台詞が出てきたのは、なんの小説だったかは忘れてしまったが、いつまでも心のどこかに引っかかっていた。いつか、日常の会話の中で使ってやろう密かに考えたのは、高校生ぐらいの頃だったと思う。なんとクールな台詞なのだろう。年配の、周囲に一目おかれている登場人物の一言。当時の私は、そうか、彼はゾッとしたかったのか。けれども結局はゾッとしなかったのだ。つまり、胸踊る展開を期待したのに、つまらないなあ、と言ったのだ。その事を、期待外れだな、などと言うより、ぞっとしないね、と言う方が、ありもしない含意を勝手に台詞の奥に感じて重厚な空気に酔いしれた。と、まあ当たらずとも遠からずの解釈をしていたのかもしれない。

 結局、その台詞を日常で使うことはついぞ訪れなかったが、何かのはずみに「ぞっとしない」の意味がぞっとするとはあまり関係なく、感心しない、とか面白くない、の意味であると知って驚いた。と言うより、知った風を装ってその台詞を使っていたかもと思うと、ぞっとした。

いずれにせよ「ぞっとしないね」は、金田一耕助先生あたりが口にして初めて、あの重厚な空気が立ち昇るのであって、若僧が口にしたところで、言葉の持つ、場の主催力は全く出せないのだ。

そう、台詞に力を持たせる為には、誰が口にするかという問題もある。

 小学校低学年の頃、母親に髪をさっぱり切られた事がある。美容師でも何でもない素人の母親が子供の髪を切ったら、それはそういう仕上がりだったのだと思うが、本人も母もさして気にも止めずにいた。翌日になり学校へ行くと、突然に短く刈り取られた頭髪に、周囲は言及しない訳にはいかない。ちょっとした騒ぎになって子供たちは盛り上がる。そんな友人達を見て、私は思ったのだ。そうだ、今こそあの台詞を使う時だ、と。

あの台詞とは、数日前に、近所に住むお姉さんが使っていた、ある素敵な台詞だ。

「そうなの。切っちゃった」

お姉さんといっても小学5年生とかの事だ。数十年前の田舎の小学生が美容院に行く習慣はなかったから、私の断髪も彼女の散髪も、客観的には大して違いはなかったに違いない。

数日前のその時、少しはにかんだ様子の彼女に対して、周囲は賞賛と憧れを表明したのだった。

「かわいい」

「短いのも似合うね」

 偶然に通りすがった私は、そんな一連のやり取りを目撃していたのだった。きらきらの、女子トーク。あの台詞は周囲の称賛を呼び込む魔法の言葉に聞こえたのだ。

だから私は真似をして、そっと言ってみた。

「そうなの。切っちゃった」

 その後の出来事は、想像に難くない、まあぞっとしない結末だったのは言うまでもない。さらに言うと、強いくせ毛だった私は「キューピーみたい」と囃し立てられたのだった。

そして、その後しばらく、あだ名はなぜかマヨネーズだった。

 ぞっとしない思い出である。

 

 

 

男性用日傘の様な仕事っぷりを目指す

今週のお題「最近買った便利なもの」とうとう買ってしまったのは男性用日傘だった。ギラギラを通り越して殺意を感じる日差し、紫陽花の葉さえぐったりする夏の仕打ちに耐えきれずに手にしてしまった。男性用日傘は何が違うかというと、とにかく大きい。小さな日傘をちょこんとさすのは優雅なマダム仕草だと、誰かが言ったわけではないのだけれど、そう思い込んでしまっていると恥ずかしくてできないのだ。で、男性用日傘だ。雨傘を、暑さに負けて仕方なくさしている風(と自分に言い聞かせているところが中年の悲哀だな)に、大手を振って歩けるのだ。

 安心快適便利を追求する時、どこからともなく後ろめたさがやってくる。便利さと引き換えに何を差し出せば赦されるのだろうかと不安になる。「フォースタス博士」の様に、悪魔が取り立てにやってくるのではないかと恐ろしくなる。「フォースタス博士」では、悪魔であるメフィストフェレスが、フォースタス博士に近づき、ある提案をする。フォースタス博士に、これから24年にわたって絶対的な能力と際限のない悦楽を約束する。そのかわりに、期限がきたらメフィストフェレスに魂を渡さなければならない。期限が来て、フォースタス博士は絶望しながら悪魔に連れ去られる。なんとも怖くて暗い物語だ。

快適便利な物をちょっと買っただけで何を大袈裟な。けれど、何も明け渡さずに、何かを得ることは出来ないという事は恐らく真実だ。そんな都合のいい事を望んでいると、「買わず女房」の様に、化け物に捕まってしまう。「食わず女房」とは日本昔話のひとつで、ごはんを全く食べずによく働くという嫁っこをもらったケチな男が、その女房が実は鬼で、頭のてっぺんに大きな口があり、男が留守にしている間にその口から大量のごはんを食べていたことがわかってしまう。という、いいとこ取りをしようとする浅ましさを諌める物語だ。

 何かを手に入れて、その都度何かを手放して、浅ましくない生き方をしたいと思う。自分が手放すものが、何か社会にとって良きものでありますように。今日も、とつとつと、仕事しよ。

読まない方がいい本のススメ

今週のお題「読みたい本」広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」が2023年新年度から、広島市内の小学校で使う平和教育教材を見直し、使用しない方針と報じられた。

 数十年前の子供にとっても、はだしのゲンは腫れ物に触る様な扱いをされていたと記憶している。読むなと言いたい様な、けれど真正面から禁止もできない、という大人たちの葛藤の手垢がついた「はだしのゲン」を、鼻をきかせて手にとり読んでしまった子供の一人が、私でした。あの頃の大人達が本当はどういう思いでいたのか、今となっては知りようもないけれど、「はだしのゲン」と聞くと、漫画そのものの強烈な印象と、それを真剣に読む子供を見つめる大人達の微妙な顔つき、市民図書館のべたべたした椅子の感触が思い出される。読む前と読んだ後で読者の人格の何かを変えてしまう力が、はだしのゲンにはあると思う。戦争反対、平和に皆んな仲良くしましょうなんていう、薄っぺらいものではなく、もっとどろどろとした、生き延びる事への執着心や、死と隣り合わせで初めて見えてくる生きることの生臭さや醍醐味を追体験させられる。言うなれば、はだしのゲンを読んだ後は人格が複雑な方向に変わってしまう、単純だった子供がその分だけ大人になれる、そういう読者体験が得られる作品だと思う。戦争が、物事を単純に考える人が始めてしまうものだとすると、あれは読んでおいた方が戦争抑止になる。

 先日、プレジデントオンラインに「『源氏物語』は、デカダンスの時代、ほんのひとつまみほどの貴族を愉しませることを目的とした作品。腐敗した摂関政治の時代の、腐敗した貴族社会の空気を恐ろしいほど生きいきと伝えている。  だから、健全な読者は、こんな背徳乱倫の物語などは読まない方がいい」と、作家先生が寄稿されていて、腰を抜かしてしまった。あれは架空の、しかも千年も昔の時代の物語で、近そうに見えて永遠の様に遠くにある何某かの「もののあわれ」を堪能できる(という錯覚なのかも知れないが)普遍的な文学なのだと思っていたから、作家先生がそんな事言うなんて、とにかく驚いた。源氏物語は、もっと下世話に言うと、変な人と思われずに現実逃避を楽しめる物語だと思っている。そんな便利な現実逃避文学を読まない方がいいだなんて、先生ひどいじゃないですか。ところで記事をよく読むと、中村真一郎先生が言いたかったのは、「あまり文学の判らない人たちに、読まないことの劣等感を刺戟するようなことを言って、あおり立てない方がいいと思う。」という事だった。それで少しほっとしたが、同時に、「ははは。読むなと言ったら、君たちは読みたくなるんだろう、お見通しだよ」という、弟子を導く師匠の、高尚な微笑みを勝手に読み取ってしまったのは、私がひねくれ者だからというだけではないだろう。そう考えるともしかしたら、源氏物語は昔から、読むなよ、読むなよー、と言われ続けて千年、読み継がれてきた文学なのかもしれない。

それに比べると、谷崎潤一郎先生の「痴人の愛」などは、子供っぽい連中には理解が追いつかいだろうだから、読むなとまで言わなくても大丈夫と、考えられているのだと思う。ところがどっこい、谷崎潤一郎先生ときたら、君になら分かるだろう、と(それは読者の勝手な幻覚なのは分かっているが)あの美しい文体で、力ずくでもって、グロテスクな愛とは何か、を理解させてしまうのだ。谷崎潤一郎の物語に身体を通すと、現実に性犯罪を犯してしまうリスクは減ると思う。なぜなら、犯罪の原動力となる、人間の奥深くに沈められている愛憎、寂しさや哀しさ、脆さを追体験できたなら、もう犯罪を犯してまでそれを発露する必要がないから。そう。谷崎潤一郎文学も、読むなと言われて読む文学なのだと思う。いま一度読んでみよう。

 

 

 

 

 

無人島に持っていく4分33秒

今週のお題「わたしのプレイリスト」4分33秒」という楽曲がある。アメリカの作曲家ジョン・ケージが作曲し、1952年に初演された「3楽章」から成る楽曲である。全楽章が休みとなっていて、無音の状態が続いた後、演奏終了となる。放送事故か、一休さんのトンチか、何のことか分からない楽曲なのである。

 先日、坂本龍一さんがテレビに出てらして、この楽曲について言及されていた。もちろん再放送なのだがその時、坂本さんは、全くの無音というのはあり得なくて、テレビを観ている方にとっては生活音が聞こえるだろうし、世界は色々な音に溢れているので、外の鳥の声が聞こえるかもしれないし、各々が聞こえる音が違う所が面白い、と仰っていた。

 私には、ショパンエチュードが聞こえて来た。それは、その映像の演奏者がピアニストだったから。演奏者が坂本龍一さんなら、ラストエンペラーが聞こえたと思うし、体格のいいバイオリニストなら、エルガーの威風堂々あたりが聞こえたかもしれない。つまり、何のことはない、幻聴なのだ。つまり、あの曲は聴衆それぞれが幻聴を楽しむ楽曲なのではないかと思うのです。

 無人島に持って行くCDを一枚だけ選んで下さいと言われて、ヒットチャートのリストを持って行く、それさえあれば全曲思い出せるから、自分で脳内再生して楽しめるから。と答えたのはどなただったか忘れてしまったけれど、そうすると幻聴を楽しむ派は、4分33秒の楽譜があればいいという事になる。その楽譜さえあれば、ありとあらゆる音楽を楽しむ事ができるから。いっそ、楽譜が読めなくたって構わない。素晴らしい事に、TACET(休止)としか書いてないのだ。

日和見菌が矜持を持つと社会は変わると信じたい

 私達は、社会という身体に棲みついている腸内細菌の様なものだと思う。一人ひとりは驚く程に無力だ。しかし集団で宿主に信号を送り、宿主の食欲をコントロールしたり、宿主の免疫を調整し発癌を抑えたりすることによって、宿主が健やかなる様に、結果的に自分達が快適に生きられる様に環境を整える。

 そんな賢い腸内細菌叢だが、近寄って見ると、善玉菌と悪玉菌と日和見菌に分類される。大雑把にいうと悪玉菌が増えると、宿主の生きる力は衰える。菌叢のうちの大多数は日和見菌だ。日和見菌は、普段はぼんやりしていて宿主に立って有益でも害悪でもない。しかし悪玉菌が増えすぎると、日和見菌は悪玉菌と同じ様な振る舞いを始める。それならば、善玉菌だけの腸内細菌が理想なのかというと、そんな単純なものではない。善玉菌と考えられている菌の中でも突然悪玉菌の様な振る舞いを始める菌もいるし、単一の細菌のみ増殖させる事は、無菌室での培養でも難しい上に、単一集団はとても脆く、簡単に死滅してしまう。そもそも、自然界では既に、ありとあらゆる細菌が共存してしまっている状態が前提なのだ。

 人間社会に話を戻すと、日本では入管施設で難民を収容したり、快適に生きられないと分かっている国に送り返そうとしたりしている。

入管のやり方に賛成する人達は、それによってどの様な日本社会を目指そうとしているのだろうか?悪玉菌(と彼らが考える)外国人を排除して、善玉菌だけの社会を作りたいのか?その試みは間違っているし、不可能である事は、自然界の大先輩である細菌叢の振る舞いを見れば明らかだ。私は、難民をたくさん受け入れて日本を好きになってもらって、もしもいつか、自分達が迫害されるような日が来たら助けてもらう。おうた子に教えられ、の精神の方がいいと思う。その方が、様々な地政学リスクヘッジに繋がると思う。

 ところで、人間社会では時々、超善玉菌とでもいうべき人物が現れる。たった一人で社会を変える偉業を成し遂げる様な人物。権力者達の、ちっぽけな権力欲や、ケチな正義を超えて、人類全体として健やかに生き延びる可能性を拡げた人物。例えば、民族迫害の場面においては、命のビザを発行し続け多くのユダヤ人を救ったとされる杉原千畝氏。けれども、想像に難くないところが哀しいが、当時の彼は、賞賛されるどころか左遷された経緯を持つ。権力側の意向に沿わない者が排除される光景は、現在も目の前で繰り広げられている。

 権力とは何かを考えてみる。権力者を権力者たらしめているのは、その他の大多数が、彼らを権力者と認めている、それだけの理由だ。つまり、集団の多数派である日和見菌たちのぼんやりした振る舞いが、権力者に権力を与えている。民衆とは、悪玉菌に簡単に同調してしまう、哀しき日和見菌なのだ。

 さて、超善玉菌もいれば超悪玉菌の様な人物もいる。悪玉菌そのものに悪意があって、宿主を滅亡させようと考えている訳ではないのと同様、超悪玉菌の様な人物も、社会を荒廃させようという意図があってその様な振る舞いをする訳ではないところに問題の根深さがある。例えばロシアのプーチン大統領。彼が悪玉菌としての宿痾からあの様な行動をしていて、それは彼なりの理想の社会を実現しようと試みているのだとすると、悪玉菌がそうである様に、プーチン的なものを殲滅させる事は不可能であると同時に、得策ではないだろう。

 悪玉菌は殲滅ではなく抑制する。あの腸内細菌叢の生き残り戦略に倣うのならば、鍵は日和見菌の振る舞いだ。いつだって多数派で、なんとなくぼんやりしている日和見菌だが、私達日和見菌族の人間には、本家の菌とは違い、一人ひとりが考えて行動する能力がある。

一握りの悪玉菌たちの、ケチな正義や強欲なんか踏み超えて、人間社会の健全な存続を目指して振る舞おうと思う。

 日和見菌よ、矜持を抱け




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