ひらマンの完成稿を諦めて絶望して、映画を観る。『仁義なき戦い』だ。僕は映画の摂取量がまるで足りてなく、『仁義なき戦い』すらも見るのは初めてである。深作欣二は「バトロワ」だけは観たけれども、改めてみると「バトロワ」って仁義なき戦いとやってること一緒じゃん! と気づく(乱暴かもしれないが)。人が次々と死んでいくのが面白い映画だ。
参政党が伸びてからすっかり政治のことばかり考えるようになり、あらゆることで誰が悪いのかを決めなければいけなくなって、ずっとしんどかった。それでなんか映画を久しぶりに観て、ほっとしたな。
わしらはどこで道を間違えたんかのう
かつての仲間たちを殺しつくした坂井はこういう。
これは今まさに僕が言いたいことだ。会社で差別に直面したり、参政党が伸びていくのを目の当たりにして、こんなにも酷いことが起きているのに一体俺たちは何をしてたんだと、かつての仲間を敵とみなすようになった僕のセリフである。本当は仲間と楽しく生きていたかっただけなのに。
もう誰も彼も、自分すらも、搾取構造の加担者だとしか思えないのだ。そうしてこのブログの読者である仲間たちに無意味な攻撃を繰り返している。本当に彼ら彼女らを撃つべきなのだろうか。お前は撃つ相手を間違えていると友人には何度も言われた。だが止まれないのだ。許せないのだ。
夜中に酒飲んどると、つくづく極道が嫌になってのう、足を洗おうちょるが思うんじゃ
朝起きて若いもんに囲われてると、夜中のことはコロッと忘れてしまうんじゃ
僕もこんなことはもうやめよう、といつも思うんだが、朝起きてTwitterのタイムラインで差別扇動ツイートがとんでもない数の支持を集めているのを見ると、コロッと忘れてしまうんである。
そして精神状態が悪くなり、いつもの調子でブログを読んでいる人らに向かってお前ら「日帝本国人」にも責任があるんだぞというようなことをアピールするなり、酷いときには罵ったりすることになるのである。運動的に意味があるかは非常に怪しい。活動家文体みたいなものからは距離を取らないとダメだ。黙々とやるのが正しいのはわかっている。けれどもその黙々とやるってのが、一番しんどい。どうしても鬱憤晴らしをしたくなってしまうのだ。一人で戦うのがしんどい。それで仲間を撃ち続けている。