八王子駅から北西に斜めに貫く歩行者専用道路、ユーロード。
仕事終わりに一時間かけて八王子に着いた僕は金曜の解放された空気の中を幸せそうに歩くカップルたちを尻目に道を急いでいた。目的地は八王子市芸術文化会館。
今日は参政党の演説会の会場となっていた。
少し遅れて建物に足を踏み入れると、右手にオレンジ色の集団が目に入る。くすんだ服を着た男が警戒した目つきでこちらを見る。
「党員ですか?」
「いやちょっと僕わかんなくて…」
まごついてわけのわからないことを口走ってしまう。
「あの、運営党員と一般党員がいるんですが……」
「あ、えっと、一般党員です……」
そう。僕は参政党員になったのである。
極右転向か! とびっくりされたかもしれない。
差別主義者になったのか! と見放されるかもしれない。
少し怒ったり驚いたりするのは待ってほしい。まず経緯を話さなければなるまい。
就職前、僕がいたのは楽園だった。最高の友人たちがいた。最高の場所があった。そこで、毎日遊んで暮らした。生活費はほとんどが親のお金だった。留年と休学で二年も余分に学部生活を送った僕は観念して就職、東京にやってきたわけだ。
就職して本当に衝撃を受けたのは、平気で差別的な発言をする人たちがいることだ。
「俺らの給料が公園の汚いおっちゃんに行ってるんだぜ」という言葉を聞いたときはあまりにびっくりして、その場で倒れそうになった。その前々日に路上生活者支援の炊き出しに行ったばかりで、僕が配った食料はきっと行政から出てる分もかなりあって、それがなくなったらあの人たちは食べ物が食べられなくなるかもしれなくて、そんなひどい状態が僕には違う世界すぎて想像できなくて、それでもとんでもなくしんどいことだけはわかるのに、今目の前にいるこの人はそうなってもいいって言ったってこと?
今でも言い返せなかったことが悔しくて悔しくて仕方がない。
許せない、という気持ちと同時に大きかったのが、どうしてそんなことを思いつくのか、という純粋な疑問だった。だって、なるべくいいことしたいじゃん。困った人は助けたいじゃん。そりゃよくわからん金持ちの懐に税金が入るのは嫌だけど、ホームレスだったら全然いいじゃん。なんで金持ちじゃなくてホームレスに入るのが許せないんだろう。意味が全くわからないのだ。
本当に僕の理解を超えた出来事だったわけで、入党に至る最初の決定的なきっかけはこの言葉にあるといってよいと思う。左翼的規範意識を共有する仲間ばかりに囲まれて生きてきたので、こんな世界があるのかとびっくりしてしまったのだった。
さて、そんな現状に対して差別を許さない社会にしようと人はいう。差別に対して怒ってちゃんと仕返しをしていくことで、差別はなくなるのだという。公民権運動の昔からある方法論だけど、なんだかそれが今や機能していないように見えるのはどうしてだろうか。
実際、僕は会社で目の前の差別発言に対して何ができただろうか。あそこで怒ったら何かが変わったのだろうか? とてもそうは思えない。頭がおかしいと思われるだけだ。社会が全体的にこうなったのには、いろいろな原因があるだろうけれど、とにかくそれが現状だ。じゃあどうするかといえば、粘り強く対話してちゃんと信頼を得てこちらの主張をわかってもらうしかない。
少し飛躍がすぎた。粘り強く対話するしかないというのは今の僕の考えであって、そこに至るまでにはまだ過程かある。
「俺らの給料が」発言を聞いてから、まず僕は自分を責めた。こんなとんでもなく邪悪な人と一緒に働いている自分もこの人と同類なのかと思った。思い返せばかなり待遇のいい会社で、きれいなオフィスでITで、倉庫労働者・運輸労働者や外国の工場労働者を搾取して利益を上げている会社に違いなかった。そうして、自分が搾取者であることに対する確信と自責を深めていった。そうして、突き当たったのが、あの東アジア反日武装戦線だった。
彼らは三菱本社を爆破して八人の死者と四〇〇人弱の負傷者を出した後こう言った。
“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、「同じ労働者」でも「無関係の一般市民」でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。
「労働者」でも「無関係の一般市民」でもない「日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者」とはまさに自分のことだと思った。自分こそが殺されるべきだったのだと思ったわけだ。
しかし、反日武装戦線のメンバーの書き記したものを読んでいると全員が一様に爆破闘争を真剣に悔やみ、自己批判を続けていたことがわかってくる。
そのことについてはこれを始めとした今までの記事などで触れたので省略しよう。
では僕は何をするべきか? もちろん東アジア反日武装戦線の「反日思想」を自分なりに引き継ぐ形での活動(あんまり前線に行かない僕がやるわけだから大層マイルドなものになっちゃうかもだけど……)である。僕はこの「反日思想」というものに、自分が取り組むべきものはこれだ!と感じたわけだ。
東アジア反日武装戦線KF部隊(準)『反日革命宣言』にはこういう。
われわれは、日帝本国人を支配者と被支配者(人民)に区別するが、しかし、被支配者だからといってその在りようを肯定し、被支配者の被害者意識に依拠して主体形成しようとする、マルクス主義的階級(形成)論の立場には与しない。われわれは、被支配者であろうと、日帝本国人は、即自的には、被植民地人民に敵対している帝国主義的寄生虫であると把握し、日帝本国人総体の在りようを総体として思想的に否定し、まずオノレ自身からその寄生虫的在りようを自己否定することを追求する。この日帝本国人としての歴史的現在的な反革命性(収奪者性・侵略者性・支配者性・寄生虫性)を自己否定していくという思想内容を、日帝本国人としての自己否定を回避した日帝打倒路線としての反日帝主義と区別して、われわれは反日思想と呼んでいる。すなわち、われわれは、反日を日帝本国人の自己否定の意を含むものとして把握している。(東アジア反日武装戦線KF部隊(準)、1979、『反日革命宣言』)
なんだか怖そうな文章である。日本人は全員自己批判しろとでも言いたげな雰囲気が伝わってくる。"狼"のリーダー格・大道寺将司の竹本信弘(滝田修)宛の書簡を引用して換言しよう。
日本人は総体として日帝本国人であり、資本家から搾取され、権力から抑圧されている者たちも、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの被抑圧人民に対する加害者であるという関係・構造の内にあることの確認です。被害者だと思っていた日本人が、実は、加害者でもあるんだということの確認、これが反日の根拠です。
要するに、我々が加害者でもあり、被害者でもあるということを確認し続けることが根本にあるわけだ。加害者の立場にあることを認めながら自己否定を繰り返して自分を変革し続けていく。それが加害者である日本人の責務である、と東アジア反日武装戦線は考えていた。
しかし、今見ると、日本人も苦しい生活を送っている人が溢れている。参政党のような排外主義を隠さない党が勢力を伸ばして、なんと若者の中でどの左派政党よりも支持を集めている。そんなのは許さないと批判したくても、なんだか彼らは苦しいものを抱えていそうで、そのために参政党にはけ口を見出しているような感じがして、彼らの苦しさが想像できなくて、なんだか怒れないなあと思ったのだった。
それに彼らが苦しんでいるとしたらその加害者は自分かもしれないと思った。反差別には根本的な問題がある。それは抑圧されている人が実践するのが難しいということだ。本来抑圧されている人のためにあるはずなのに。余裕のない人は他の人の抑圧に関心を抱けないかもしれない。教育を受けられなかった人から見たら難しくて理解ができないものを押し付けているように映るかもしれない。
被抑圧者は被抑圧者であるがゆえに反差別主義者になることが難しいのだ。
余裕のある人にしか実践が難しいのに、その余裕のある人が社会全体が実践するべきだと主張して、あまつさえ参政党の支持者に対して暴言を吐いたりする。
参政党の支持者はますます考えを固めていく。
「反日」を自然と実践できるくらい余裕を持ってほしいのに、ますます余裕がなくなって「反日」から遠ざかっていく。
参政党は「日本ファースト」と繰り返すくらいだから「日本人」であることに強いこだわりがある人が集まっているはずなのだ。外国人を自分たちへの加害者だとみなす人も多そうだ(多分全然全員じゃないと思う)。
フロイト的に考えるならば、「相手が自分を加害している」と思うという事象は「自分が相手に加害している」という気持ちを無意識へと抑圧した結果、自分の思考を相手に投影させているという分析も可能だろう。
つまり加害者としての「日本人」という自意識を最も強く持った集団ということもできるかもしれない。「日本人」であることにこだわりを持っている彼らも余裕さえ持てれば「反日」を実践できるようになるはずだと僕は考えるし、そうあってほしいと思う。
でもその一方で現に攻撃を受けている人たちの恐怖を想像すると、何とかしなきゃといてもたってもいられない気持ちもあるわけだ。でもカウンターをやるのは戦略的にもうまくいく気がしないし、気乗りもしない。
どうやら大道寺将司も似たような問題にぶつかっていたらしい。先ほどと同じ書簡の中にこんな一節がある。
ところで、ぼくらと同じ小市民出身者には、”日本人である自分たちは加害者であり、他国人民の犠牲の上に豊かな物質生活を送っているのだから、そうした自己を否定するために反日闘争を戦おう!”というぼくらの主張は、心情的に受け入れられる余地があると思います。しかし、底辺でむきだしの搾取や差別、抑圧を受けて苦しんできた人民の多くは、”冗談じゃない! そんなバカな話があるか!”と反撥するだろうと思います。実際、こうした反撥に出会ったことが少なくありませんでした。そして、そのようなとき、これまで機械的といいますか、杓子定規的にすでに述べたようなことを繰り返したのですが、全然説得力がなかったと思います。彼らのぼくらの主張を受け入れてもらうためには、ぼくらが彼らとともにあること、彼らとともに闘うという信頼関係を築いていかなくてはならないと思います。そしてその上で、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの被抑圧人民の現実のありようをもって、下層人民でさえ日帝本国人なのだ、ということを確認していきたいと思います。
ということなんですが、竹本さんにとっては承認しにくい主張であるかもしれませんね。ぼくらは、帝国主義抑圧民族だから日本人民はダメなんだと主張しているように思われているのですが、そうではなくて、帝国主義抑圧民族だという確認の上にそうした自己を否定し、新たな存在に自己を変革していこう、ということを主張しているのだ、とご理解いただきたいと思います。
僕には参政党の人たちが、”冗談じゃない! そんなバカな話があるか!”と反発している人のような気がしてならない。
世界のすべての抑圧に反対するというのなら、誰かが彼らの苦しみを聞いて信頼関係を築いていかなくてはいけないと思う。誰もやらないなら僕がやる。
さて、今日の講演だが、意外にも排外主義みたいな話はあまり出なかった。これはこの前の吉祥寺の演説会でも思ったことだ。出てくるのは生活苦に苦しんでいる人がたくさんいるという話ばかりだった(ちょっとこの人がそういう人ってだけかもしれない)。候補者の身の上話も、父親が貧しい家から集団就職で出てきたんだという話だとか、コロナで生活が苦しくなったんだとか、そういう話をしていた。東京選挙区なのにもかかわらず、東京は地方に支えられているみたいな話をこの前の吉祥寺に引き続き繰り返していた。やはり外国の話になると受け入れがたいことを言っていたけども……。
やはり連帯できるところは連帯して、地道に話を聞いて、こちらの考えも伝えて、相手も自分も変わっていけたらいいと思う。会社の人もそうだけど、差別に与している人を排除するのではなく、ちゃんと話を聞いて一緒に考えて、互いに相手を理解してお互いに変わっていく。なんだか参政党が相手だとねじくれているようだけど、僕はそれがかつて東アジア反日武装戦線が掲げた「反日思想」の実践だと受け取っている。東アジア反日武装戦線とは違う、僕の「反日」である。