「ちろきしんのブログはイライラするけど、それは図星をつかれているからで、反論する気にならない」と評されたことがある。友人の中には目に入るのが耐えられずミュートしてしまったものもいるらしい。
ここ最近は参政党を嘲笑するリベラルに批判的な言及を繰り返していたが、ちょっとやりすぎたかな、と後悔している。やりすぎた、というか反差別を訴えている人への無意識の怒りが入ってしまっていた。こういう時はたいていいい方向に転ばない。
昨日の会社の人に路上生活者支援団体に寄付した話をしてみて失敗した件も無意識のうちにお前らはなんで支援しないんだという怒りが入ってしまった気がする。会社で政治の話をしてはいけないと世間一般に言われているのはきっとこういうことがよく起きるからだろう。政治の話は無意識に怒りの情を乗せてしまいやすい。無意識に怒りを乗せないで政治の話をする訓練を積まないといけない。「この人よく政治の話をするけど、面白いからいいや」くらいに思ってもらえるようにならないと。
しかし、逆の立場でいえば、僕はいつも差別に激しく怒っている人を見ると、気分が悪くなる。膝がガクガクして胸のあたりが苦しくなる。裏を返せばこのブログに耐えられなくなった友人も、そんな感じだったのかもしれない。僕が「リベラル」批判の話に乗せてしまった自分の無意識の怒りはそこに由来していると思う。なぜこんなに胸が苦しいのか。それはちゃんと虐げられている他者のために本当のところ真剣に怒れない自分自身の醜さが露わになるからだ。そして、ほかでもないそんな自分に怒りが向けられているのを感じ取ってしまうからだ。まさに「図星をつかれた」ということでもあるわけだが、同時に相手の無意識の自分に対する怒りを感じ取った、ということでもある。無意識の怒りというのは怖い。面と向かって怒られた方がマシなくらいだ。
しかし、そのように図星をつかれても、自分が間違っている気にはなれない。自分はあんなに怒ることはできない。怒らない人に敵意を向けることはできない。もし自分が間違っているのだとしたら、自分は一生、自分のことを生きるに足る正しい人間だと思えなくなる。大真面目に自殺するしかなくなる。だから否定せざるを得ない。参政党を支持する人の心の内にも似たようなことが起きているのではないか。
そう考えると、僕自身、同じことをこのブログという場でやってきたのかもしれない。人の図星をつくだけならいいが、無意識に怒りを乗せるのはよくなかった。もっとちゃんと怒った方がマシだった。自己批判する必要があるかもしれない。
あるかもしれない、と書いたのは、無意識の怒りを込めてしまうことはある程度は避けられないとも思っているからだ。怒りではこの左翼総スカン社会を変えられないとも思う一方で、まったく怒らないのであればそれはそれで何も変わらないだろうとも思っている。
どうすれば外国人や生活困窮者への攻撃をやめてくれるんだろうか。こっちはこっちで楽しくやって引き付けるしかないのかな。
参政党なんかを支持してしまう人は何か不満を持っていることは間違いがない。とにかくその不満というのが何なのか、明らかにしていかなければいけない。それで戦略を練る。今のところはそれしかない。