「水曜からダウンタウン」という番組が炎上している。
差別的な企画で何度も批判されてる藤井健太郎(水ダウ)が、まだこの調子なのは「それがウケる」からで、批判が効いてないことを表してる。
— 茂木フル (@mogilongsleeper) 2025年6月20日
番組の内容は人種差別というより「反差別運動を揶揄するネタ」で、反差別という思想がマジョリティーから共感されてない現状が変わらない限り続きそう。しんど。 https://t.co/efhknHqXci
茂木さんによると企画者は差別的な企画の常習犯だったようだ。ちょっと見てみたが、かなり腹の立つ番組であった。しかし、「反差別」が舐められているという話はどうだろうか。
番組内でも「怖い」「恐怖」というワードが連呼されている通り、むしろ抑圧的な権力としてみられていると考えるのが自然なのではないだろうか。
こんなことを言ってもどうしようもないが、実際問題、茂木さんにしろ僕にしろ大衆から敵意を向けられても仕方のないボンボン育ちじゃないか。
考えてもみてほしいのだが、僕らは社会に不満を感じたとき、すぐさま反差別コミュニティとのつながりを確保することができた。反差別コミュニティなんて大概がインテリだ。それも振る舞いに気を付けなければすぐさま"正論"で糾弾に合うような危険な場所なわけだ。たいていの人は"正論"にぶつかったときに反論なんてできない。実際そういうときはたいてい、いつも僕はただ謝るしかなかった。
はじめの出発点がマジョリティに対する違和感からだったとしても、そこにたどり着いて、ここで生きていこうと思えるのは十分に強者の証だ。だってきっと、僕も茂木さんも、自信があったでしょう? ここで自分はやっていけるんだって。
実際、該当の番組を見てみると(TVerで見れた)、芸人たちの代わりのコンビ名の提案が次々と反差別的な文脈で却下されていた。芸人たちは何がダメなのかわからないまま右往左往している。それを真面目過ぎやろと笑う浜田。
たしかに僕もイライラした。これを見て傷つく人の気持ちを想像した。そして僕も傷ついたんだ。
けれども、見方を変えれば、法を杓子定規的に適用する権力とそれをせせら笑う反権力の芸人たち、という構図にも見えてこないだろうか。
マイクロアグレッションという言葉が僕は嫌いだ。そんなものが正義になったらどうなるか。ちょっとしたことで反差別だと指弾される人たちもまた、傷ついているのかもしれない。その苦しみが拾われないのであれば、自分たちに都合よく裁いているだけだと思われても仕方がないじゃないか。なら反省して反差別の側につけばいいじゃないか、と思うかもしれない。それこそ傲慢だ。
今日「記憶力や認知能力が弱い割にプライドが高く反省しない人」を嘲笑するツイートを見た。「稼げない」「正しく原因分析できない」「辛そう」なのだという。確かに特定の属性やアイデンティティを非難しているわけではないが、この言葉が暴力でなくてなんだろうか。いや、この言葉が特定の人の尊厳を踏みにじるような惨い力を持っていることは誰の目にも明らかだろう。
別にこの発言をした人は左翼でも反差別主義者でもない。
ただの鼻持ちならないエリートにすぎない。
どちらかといえば差別をする側の人間だ。それも(個人的に)一番ムカつくタイプの。
だが、ここで差別を糾弾するものに問う。
「記憶力や認知能力が弱い割にプライドが高く反省しない人」という言葉。
差別者をこんなふうに捉えたことはなかったか。
どうしてわからないんだという怒りが、「理解する能力がない」という侮蔑に姿を変えたことがなかったか。
優越感を感じたことは?
こういうこと、僕はよくあるよ。本当によくある。
例えば職場で。
自分が人よりできないから、その代わりに自分のできるところを探してしまうのだ。
だからこんなわけもわからないところで張り合おうとしてしまう。
優位に立っていると自分に思い込ませる。
そうしないとやってけないんだよ。
自分の価値がなくなるんだよ。
でもきっとそうしたことは全部筒抜けなのだ。
だから彼らが反差別に共感してくれることなんてないのだ。
それはきっと僕たちの態度が招いたことなんだ。
茂木さん、今度またミズサー行くよ。
ほら僕、ヨーグルトの酒好きだろ?
それ頼むからさ。
茂木さん褒めてもらえるのが嬉しくて、結構支えになってるんだよ。
ミズサーって場所があってよかったって本当に思ってるんだよ。
金曜は仕事でいつも疲れ切っているから、ミズサーに行くとほっとするんだよ。
きっと来週になる。
来週はミズサーに行くのを楽しみに仕事するから。
みんなも連れてまた行くね。