ついつい話しても仕方のない自分の不安を友人に話してしまう。負担をかけていないか、と気をもむことになる。僕はいつもそうなのだ。
ひらマンの課題3に取り掛かるうえで、僕の中だけの裏テーマは『まほらば』みたいな漫画を描くということだ。それで小島あきらの漫画を読み返しているが、行間行間に人間に個々の人間に対する優しさがあふれていて泣きそうになってしまう。こういう漫画を描けるようにならないとダメだ。
人に与えられる人間にならなくちゃダメだな、と思う。
今日も友人を前にパソコンをカタカタして金をせしめているような自分のような人間は立派な搾取者であり犯罪者なのだ、という話をしていたが、こういうことは何もならないし、やめるべきなのかもしれない。だが、搾取者ではないということにしてしまった(搾取者であるのは間違いがないのだから何らかの理屈で帳消しにするということだ)ときの自分がどんなことをするのか恐ろしく、それは難しい。かといって、搾取者であるという自覚のまま、その考えを表明することなしに様々な活動を淡々と行うというのも難しい。というか、活動をしていないことがまずよくない。いよいよ漫画なんかを描いていて、本当にいいのだろうか。まあ、漫画によって影響力が高まったりするかもしれないし、まわりまわっていい結果になることを信じるしかない。
実際、僕のこのような発言は人を怖がらせているらしいし、マイナスにしかなっていないのは自覚している。何か考えなり何なりを広めたいなら人に与えることを通して与えないといけない。暴力は最後の手段であることを常に頭の片隅に置いておかなければならない。自らの暴力的なところを常に点検しないとダメだ。暴力を回避するということはただそう決めただけでは達成はできないからだ。一方で常に点検、というのも現実問題難しいし、それでもっとやるべきことが疎かになってしまっては本末転倒だから、ある程度のミスは自分に許さないとダメだ。結局、自分が健康でないと償いだってできないはずだ。
自分がこれまで恵まれた環境でのうのうと人を搾取して生きてきて、そして今もそれを継続していることの罪を贖わなければならない。これは間違いのないことだ。
だが、申し訳ないと思いながらも、その償うという行為は楽しくやらないとダメだ。自分の幸せを軽んじていては、人の幸せを軽んじてしまうことになるからだ。正直どうしてもどうしていつもいつも自分はこんなに申し訳のない気持ちでいっぱいなのに、お前らは……という気持ちが湧いてきてどうしようもなくなるからだ。
自分が罪を背負っているのは自分から見て間違いのないことだ。だが、人の罪を自分が判定できるとする態度は傲慢そのものだと思う。自分の罪と人の罪は分けて考えないといけない。
今日も「まあさすがに日本で中産階級以上なのは第一級の搾取者でしょ」と言ったら反論されたのだが、こうした決めつけはよくなかった。反省している。疑いようがなく有罪なのは自分だけだ。だが、自分が世界で一人だけ罪を背負っていると考えるのも間違いだ。きっと同じような人はたくさんいる。きっといるだろう、ということがミソだ。
そして、自分を信用しないからこそ、罪は楽しく償うよう心掛けた方がよい。なんだか償いというところから遠ざかるようだけれども、自分を痛めつけても結局、抑圧の反動で襲い掛かってくる暴力の衝動に耐え切れなくなるからだ。結局左翼が怖がられるのはここだと思う。いかに人に与えるか、それによって人を、社会を変えるか、というところを考えないといけない。
その点、『まほらば』は左翼にとって第一級の教典である。辛い思いをしている人に寄り添い、その助けになることを左翼とするならば。だから『まほらば』なのである。