僕が人をうまく褒められないのはどうしてだろうかという話になった。
まず一番に思いつく理由は嫉妬が入ってしまうことだ。僕は自分に自信がない。というよりかは、自分にいいところがなく、人よりも劣っているという念に苛まれてばかりいる。自分がほんとうはもっと優れているはずだ、ということでもある。だからちょっとでも褒められると嬉しいし、逆に人を褒めるときはあなたは優れているのに自分は……と言い出すことになってしまう。
人と自分が違うということがまだ受け入れられないのだと思う。かつてホリィ・センに優秀なやつに嫉妬しないのかと聞いたことがあった。自分が同じだけのリソースを使えばその人のようになれるから嫉妬しないのだと返ってきた。僕にはない発想だった。現に自分よりできているのだから憎いだろ、と思った。現に、プログラミングができる会社の同い年くらいの人に嫉妬して仕方がないし、絵の描ける人や人文系の知識のある人についてもそれは同様で……。
なんとかこの人生にも何かできるようになることはあったはずだと思おうとしても、これに関してはあの人の方ができる、それに関してはこの人の方ができる、と何をとっても同じ結論に至ってしまう。最後に残るのは友人関係だけだ。だから僕は友人を大事に思う。とはいえ、その大事な人を気遣う力や意識づけという話になると、てんでダメなのだが……。これは冒頭で話した人をうまく褒められないということも関係してくる。
だから成長を称揚する言説にはいつも腹が立つ。"成長"したところでいったい何になるのか。仕事ができるようになったところで何になるのか。そんな風に言われるとまるで自分がダメみたいじゃないか。中年童貞の坂口(この記事参照)に罪があるとでもいうのか。ただでさえ歯を食いしばって生きているのに、さらにお前のせいだと口汚く罵られるほどの罪を犯したのか。確かに坂口と仕事接する人は大変だったのかもしれないが、それとこれとは別の問題だ。中年童貞の坂口のことはいったん置いておいて、もっと大きな話をしたい。
「自分がマジョリティ側にいることのうしろめたさ」を表明するような文章や振る舞いに出会うことがあるけど、その罪悪感のようなものはまぁ本人からしたらそれなりにしんどいかもしれないけれど、それを表明することによって格差や差別の構造がなくなるわけでもないじゃないですか。
— 藤谷千明 (@fjtn_c) 2025年6月3日
藤谷さんが、このようなことを言っていた。正直にいえば、これを見た瞬間ウッと気持ち悪くなった。僕こそがまさに「自分がマジョリティ側にいることのうしろめたさ」を表明するような文章を量産している人間である。どう言い訳してもこれは自分のことだ。
しかしこの「自分がマジョリティ側にいることのうしろめたさ」は僕だけの問題ではない。むしろこれこそが今の日本社会全体を覆う空気感なのではないか。今から僕がいうことは相手に自分の感情を投影しているのかもしれないがためにそれを差し引いて聞いてほしいのだが、マイノリティを進んで叩いたり馬鹿にしたりする人がいるのは何故かという大きな疑問の答えがここにあると僕は確信している。
「ポリコレ」の普及は、リベラルが勝利した結果なのだと唱える人がいる。現に差別的言説は昔よりはるかに一掃された。このことは端的な事実といってよいはずだ。しかし、かつては一部の人だけが共有していた差別に対する道徳的な価値規範が広い範囲の人に備わるようになったということは、「自分がマジョリティ側にいることのうしろめたさ」も同時に普遍的に大多数が持つ感情に変わっていったということではないだろうか。会社などで日々、マイノリティが馬鹿にされるのを目にする(特に経済的弱者・能力のない者が標的になることが多い)。地位のある人なのにどうしてそんなことをわざわざする必要があるのか、そんな必要がどこにあるのかと疑問に思ってきた。まるで防衛機制が働いているかのように振舞うのはなぜか、意味がわからなかった。でもきっとそれは文字通りの防衛機制だったのだ。「後ろめたさ」きちんとを感じているがゆえのことだったのだ。
オタク文化にはサブカルのままであってほしいとこれまで思ってきたが、「リベラル」的あるいは「左翼的」価値規範についても同じことを思う。サブカルではなくなったからこそ今の惨状はある。それが権力性を持った途端、文化や規範は歪められる。でも僕はそう思うのだけど、実際のところどうなんだろうか。マジョリティになったお陰で救われた人が大勢いるのは明らかだ。みんなにとってどちらがマシなのかはわからない。