僕は学生のころ、口癖のように就職活動への批判を繰り返していた。
大体次のような主張だったと思う。
「ガクチカ」などというけしからん言葉がある。就職活動において企業は必ずこれを聞くという。このことは社会にはびこる「自己実現至上主義」を代表する現象である。今や労働すら自らの自己実現のためにするものとなった。動画配信サイトやSNSも自己実現をすることを煽っている。その「自己実現せよ」という命令は「自由に生きよ」と言っているようでいて、実のところ、社会の、世間の、そして企業の秩序に都合がいい範囲においてという但し書きつきである。ガクチカ=学生時代に力を入れたことを企業が聞くのは、就活生の「自己実現」のあり方が企業に都合がいいかを重視しているかに他ならない。このような状況で若者は、自らの内面を企業に都合がいいように変える努力をせざるを得ないだろう*1。
そして、僕は将来働くとき、金のために心まで売り渡さなければならないのかと心底恐怖を覚えた。僕と比較して、多くの人にとっては心のかたちを変えることなんて容易いことだろうとは思っていた。そんな風に心のかたちを企業の論理に合わせていった人たちの中で、僕はやっていける気がしなかった。ほんとうに、怖いことだった。
学生時代にも、現実はそうじゃない、そんなに人は単純じゃないと否定される場面はあった。実際に働いてきた人の言うことだから説得力があった。
そして僕はといえば、院進を断念して就職活動をすることを決意した。最初は窓際で大して頑張らずにお金が貰えることを期待して、大手ばかりを受けていたが軒並み失敗した。結局学生時代にありがたいことに働かせてもらっていたこともあって、Web系のプログラマの仕事にありつけた。職業柄「自己実現至上主義」的な空気は強めだが、その代わりに残業もなく、稼ぎもいい。たしかに僕はよくWeb企業やWeb技術を批判したりはしているが、今のところ、正直仕事自体に不満はあまりない。
それだけに、就活生に何かいうとき、結局真面目に就職活動をするのって大事だよなって思っちゃって、自分はなんやかんやいいところに行けただけに気が引けちゃって、「場数を踏むのがいいよ」などと現実的なことを言うことになる。
そして実際会社に入ってみると、たしかにそんな感じの人もいるんだけど、そうでもない人もいるな、という印象だった。結局企業側の要請としては存在しているものの、そこに適応できる人はそんなにいないということらしかった。おそらく適応しようとすると心を病んでしまう人が多いのだと思う。だからみんな折り合いをつけてやっているらしかった。そしてそれを会社の側も黙認しているのだった。
それで、僕はいったん自分ごととして労働について考えるのをやめた。どう考えても自分は恵まれている。その代わりに自分が恵まれない他者のためにできることは何かということばかり考えるようになった。それがここ一年の変化ということになる。自分の今考えていることと、自分自身の苦しみとが切り離されてしまったのが、今の悩みだ。
炊き出しだけは月に一回ほど行くのだが、義務感でやるのも違う気がして、人のために時間を使って良いことをしたって満足してる自分に気づくと嫌になるし、時々行くのは良いんだけど、今後これ一本で行くのは僕は無理かな、と思っていて……。
今、精神分析やトラウマ論を真面目に学ぼうとしているのは自分の思考と自分の苦しみとを再びつなぎ合わせるためなのかもしれない。これから一年僕は漫画教室で訓練を積む予定だが、漫画をそこに接続できれば幸せなことだと思っている。