今日は窪寺俊之『スピリチュアルケア入門』の読書会だった。
僕がキリスト教に興味を持ったきっかけは、なんといっても『Kanon』のプレイ体験だ。
自らの分身である真琴が消える瞬間、自分のために真琴が死んでくれたような気がして、それが悲しくて嬉しくて仕方なかった。真琴は何もできない。努力もできない。それでも、いやだからこそ、いなくなることがこんなにも悲しいのだ。もしかしたら僕もそんな価値があるのかもしれない。僕のために、僕なんかのために真琴はその死をもって教えてくれたのである。
キリスト教ではイエスは人類の罪をその身一つ犠牲にして贖ったという。それがなんだか真琴に似ているような気がした。原罪をもって生まれたという発想もしっくりくる。生きていることに罪悪感を覚えるのだ。
本の中ではdoingよりbeing、というワードが気にかかった。僕はかつてアニメ『けいおん!』をそのように読んだ。彼女たちの「目指せ武道館!」ってふざけて言いながら全く練習をしないその態度に惹かれたのだった。そして実際僕は大学時代をそのように生きたのだった。今考えるとそれはbeingでいられるプチブルの特権だったのだと思う。でも後悔はない。文句は言わせない。ほんとうに幸せだった!
茂木さんと、もし地方の大学に行っていたらどうなっただろう、という話になった。きっと僕なら大事な友達なんて誰一人としてできずに寂しさを抱えたまま真面目に学問をやって院に行っていたと思う。僕が留年に休学を重ねたのは友達と過ごす学部という環境がたまらなく居心地がよかったからだ。
あそこにいたときは365日24時間、常に大事な友達が近くにいた。毎日面白いことが起きていた。勉強する暇なんてまったくなかった。
今となってはやっぱり平日は友達と切り離されてしまう。面白いこともそれほど起きなくなった。まさに「退屈なエピローグ」だ。しかも僕は浩之ちゃんとあかりのようにエンディングを迎えたわけではない。ただ終わった日々があるだけだ。
遅まきながらこれまでやれなかった何かを積み上げるということを頑張ってみたい。漫画を描いて学び、本を読んで学び、仕事もしっかり学んでいく。ホリィ・センはある時期からスマブラをやめ、隙間時間は常に論文を読むようになった。僕も見習っていきたい。