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20250314

nakanoazusa.hatenablog.com

 

昨日は東アジア反日武装戦線を取材したノンフィクション『狼煙を見よ』を読み始めいたく感動してその日のうちに読み切って長文の感想を書いてしまった。

 

今でも衝撃を受けている。

 

東アジア反日武装戦線の思想と行動にかねてから共感していたが、本人がまさか獄中で自己批判をしていようとは思わず、しかもその「人民」を十把一絡げにして「特殊性」を見ることができなかったという弁に胸を突かれたのだった。爆死した被害者も個々の生活のある人間であり、その命を奪うことは間違っている、というある種当たり前の論理については、もちろん僕だってあの冷徹な犯行声明に違和感を感じるくらいにはかねてから了解していたが、やはり搾取者、抑圧者である我々は罰を受けなければならないという感覚はぬぐえなかった。罪深い自分は償いをしなければならない。こぎれいなオフィスで自分がどんなに人から奪っていることも意識せずに能天気に過ごしているやつらにわからせなければならないともかねがね思ってきた。だから反日武装戦線の被害者に対して、そして自分に対してどこか殺されるのも仕方がないと思ってきた。僕は今恵まれた立場で生まれたのは偶然である。そして償いを十分にしないままのうのうと生き続けている。であるならば偶然その場にいただけ命を奪われるくらいの罰は当然だ。早く俺を殺せよ! オフィス街に働きに出るたびにそのようなことばかり考えてきた。

 

ところが、"狼"のリーダー大道寺将司は真摯に自己批判する。他でもない"狼"のリーダーがそう語ったということが僕には衝撃だった。決して実行しようとはゆめにも思わない考えを本当に実行した彼のような人でさえ、結局はそこにたどり着くのか。そうして僕は自分がたまらなく恥ずかしくなった。もうそんなことを考えるのはやめようと思ったわけだ。

 

このようなことを書いたところ、ありがたいことにレスポンスをもらった。

 

 

 

 

痛いところを突かれたな、と思った。

僕の発想が生活実感から出ていないことには僕自身負い目がある。

 

もちろん僕だって常に自分を罰しているわけではない。いつものブログを見ればわかることだろう。他人を責めてばかりであるし、純粋に目の前のことを楽しんだりする自分は確かにいる。しかしふと自分を振り返るとき、そこにいるのは搾取者/抑圧者としての自分でしかない。自分の生活は僕が負い目を感じるような人々からはすっかり遊離してしまっている。上から目線だと彼はいうが、そんな風にしかとらえられないのである。

 

僕が「搾取者」でない人たちに出会うのは、せいぜいが月に一度行く炊き出しのボランティアくらいであろう。

 

日雇いの仕事にでも働きに出ればよいではないかという意見もあるだろう。それこそ物見遊山のようで嫌な感じもするが、やらないよりはやった方がいいことは確かだ。反日武装戦線のメンバーの多くもあえて寄せ場に身を置いていたようである。何より自分がプログラミングのバイト以外したことがないということの罪悪感には耐えられない。これから暇を見つけてやっていこうと思う。もちろん、今の仕事を捨てられない弱さをここで認めなければならない。

 

こういう自分の物言いに失礼なところがあるのは百も承知だ。これを書くのは僕の弱さだ。僕は左翼は潔癖すぎるのがいけないと思っている。いや、そんな言い方は正しくない。はっきりいって潔癖な人たちに負い目があるのだ。だからもっともらしい理屈を頭の中でこねながら彼らへの復讐のように書いている。その態度が「生活者」を馬鹿にしていると言われれば返す言葉もない。「見放される」のは百も承知だ。そんな自分が彼らに許されることはないだろう、と思っている。

 

これを書く前、東アジア反日武装戦線について友人と意見を交換した。友人には僕の罪悪感がわからないようだった。そこでどうして自分はこうなったのかを考えた。

 

まず小学校のころからのいじめ体験は影響を与えていそうだ。これで人間関係を加害/被害で理解するようになってしまった。

 

そして中学・高校。僕は私立の中学に通ったのでそこで目の前の生活の見通しが立たないような状況にある人を目にすることがなくなった。

 

大学に入ると再び大変な状況で生きてきた人たちと仲良くなるようになる。そこで自分がいかに恵まれた環境にいたかを思い知らされる。こんなことは間違っていると強く思う中で自分を責めるしかなかった。

 

罪を償わなければならないと述べながら言い訳に終始していることは自分でも気づいている。本当は罪なんて感じていないのだろう、と思われるかもしれない。

 

僕が見てきた「左翼」の人たちは立派な人が多かった。常に自分がどうみられるか、運動がどうみられるかを気にして振舞い、運動にも熱心に参加していた。僕はただ運動に参加できない自分に後ろめたさを感じるばかりだった。うっかりTwitterで「秩序派」の学生に罵声を浴びせ、迷惑をかけたこともあった。今だってろくに運動に参加していない。こうやってときどき自責の念に駆られてはここに書きなぐることしかできない。いない方がマシなのだろうし、運動の側から責められても当然だと思う。

 

僕が「生活経験の不足から観念の中で自閉的に」考えていると彼は指摘する。そのことに僕はなんら異論を差し挟むことはできない。今の搾取者としての生活は「生活経験」たりえるはずがない。そしてそこから出ることに踏み出す勇気が僕にはない。たしかにそのことに悩みはしているが、いろいろ理屈をこねながら結局はしないだろう。もちろん様々な人に出会う努力はしようとは思っているが、それだけだ。どこまでいっても他者の痛みであって自分の痛みではない。

 

だが、そうだとしても日々見るオフィス街を歩く人々を「殺されても当然の搾取者」としてみるよりも、一人の「生活者」としてみる方がずっとよい*1。大道寺将司の思想の変遷を知ることを通してであったが、「観念」でしかそれを理解できないとしてもその方がいいはずだと思う。

 

*1:だからといって自分のことを「生活者」だと認めることは自分の加害性から目を背けているようで難しい。




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