今日は通院の日だったので、午前中は病院に行って午後からの出社となった。
昼飯時に無性にハンバーガーが食べたくなった。こんなことに意味があるとは思えないながらも、虐殺支援企業では食べないぞ、ということで少々無理をしてモスバーガーに行ったところ遅刻しそうになってしまった。
会社で「尊敬する人物は?」という質問が回ってきた。自己紹介でもして親睦を深めようというわけである。ところが僕には桐島聡以外、思い浮かばないのだった。
東京に働きに出てからというもの、僕の中で東アジア反日武装戦線の存在が日増しに大きくなっていった。それは彼らの純粋な階級構造への怒りから来る自責の念に深く共感するからだ。
僕は今Web系プログラマとして働いている。残業もないし、金払いもいい。しかし、その金は、待遇はどこから来ているのか? タイミーで日雇いで雇われた労働者からの搾取、海外の途上国からの搾取、その他、自分の想像の及ばない様々な場所からの搾取。働いていて、自責を感じない日はない。
今よりよっぽど楽で特権的な立場にいた学生のころはそこまで思いもしなかった。やはり今は、実際に自分の労働に不当に高い報酬が支払われることを日々意識せざるを得ない状況にいるからだろうか。
真面目に階級や抑圧について考えていくならば、彼らの思想は必然の帰結であるし、何よりも実行に移したということが立派だ。誰もが頭では考えていながら恐ろしくてできないことを真剣に成し遂げようとした勇敢さは僕の知る限り歴史上の人物では類をみない。人は暴力をふるうとき、たいていは対象を悪魔化・外部化して自らを正義の側に置いてしまう。自分たち自身の暴力性・抑圧性に対して真剣に向き合ったことが偉大なのだ。本当は僕だって彼らのように戦うべきなのだ。そう考えるのが当たり前の人間の感覚だと思う。だが、やっぱりそんな勇気は一生持てそうもない(自分がやらないということを確認しているからこそこんな風にベラベラと彼らへの共感を綴っている。『腹腹時計』に従うならこんなことは表で述べるべきではない)。
桐島聡の最期が僕の胸を打ったのは、官憲の目をかいくぐるために身の回りの生活に想像もできないほどの制限を自分の身に課しながら、人として生きる喜びを忘れなかったことである。楽しそうに踊る桐島聡の姿に深く感動したのだった。いくら共感しているとはいえ、やっぱり彼ら個人と実際相対すると想像すると怖れを感じてしまう。彼らにとっては(そして僕にとってもだが)、僕などは甘い汁をすするプチブルの日帝本国人にすぎない。いくら僕が口では自己批判をしようと実際に行動に移していないではないか、と甘さを指摘されそうで怖いのである。冷たい革命マシーンのような印象もあった。だからこそバーに顔を出し女性とも交際していたという一面に安心した。自分が少しだけ許されたような気がした。
しかし振り返ってみると自分は東アジア反日武装戦線のことをほとんど知らない。彼らが実際どんな風にして事件を起こすに至ったのか、華青闘告発の影響だとかそういう表面的なことしか知らないのだ。
そこで今日は会社を上がってから図書館に行き、松下竜一の『狼煙を見よ』を読んできた。ずっと読まねばと思っていたのだった。
ところで、彼らのことでひとつ引っかかっていたことがあった。下に、三菱重工爆破事件での彼らの声明文の一部を抜粋する。
“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。
確かに三菱重工の本社の近くに平日の昼間いるような人間は搾取構造の上の方にいるので殺されるのも当然だ、という論理はわかる。でもどうにもモヤモヤする。だからといって殺されるのは違うような気がどこかでしている。もしもともとの作戦通りに殺されたのが裕仁であったなら、特に疑問を抱くことはなかっただろう。
こんなことがまかり通るのであれば、どれだけの人を殺せば気が済むのだろうか。確かに彼らの言う通り日帝の虐殺、この今も続く収奪の"おとしまえ"だと思えば、仕方がないのかもしれない。そうなれば僕なんかも殺されなければいけない。そう言われれば自分の死にも納得はすると思う(でも三日間くらいは受け入れられず抵抗すると思う)。
このモヤモヤはおそらく平等に"おとしまえ"をつけるべきだという発想に対する違和感なのだろう。とんでもなく悲惨な目に遭っている人がいてその人が不公平だと思っているからと言って、他の人を全員同じような目に合わせて悲惨な目に遭っている人は幸せになれるのだろうか。平等という形式ばかりにとらわれて、生身の人間のことを考えていないのではないだろうか。やっぱりこの殺人を肯定する論理にはどうにも乗れないところがあった。
ところが、実際に『狼煙を見よ』を読むと彼らは事件による死者が出たことに激しく動揺して、片岡利明などは途中で運動を離脱しているというのだ。しかも彼らは連合赤軍のようにリンチに訴えるようなことはしなかったようだ。話には聞いていたが声明文から受ける印象とはかなり違う。
何より感動したのは著者・松下の自伝『豆腐屋の四季』についての大道寺将司の感想である。『豆腐屋の四季』で松下は自らの「反戦思想」から「人を傷つけることなど絶対にできない」「ひっそりと生活したい」と書き記している。豆腐屋の仕事に奔走した二十代を送った松下は、「ただ誠実におのが家業に精を出し、人々においしい豆腐あぶらげを提供することを生き方としてきた」という。
僕が『豆腐屋の四季』に感動し涙を流したのは、決して"大衆"としてくくってすますことのできない生活を見せてもらったからだと思います。僕が人民とか大衆とくくってしまう中に松下青年の(当時の)生活があった訳だし、三菱で死傷した人たちも含まれます。ぼくはそういったものが全然見えなかったのじゃないかと思いました。その反省と、見せてもらった喜びがありました。
僕は感動した。同時に三菱重工爆破事件で殺された人々に対してどこで三菱に勤めていたのだから仕方がないと思っていた自分を恥じた。人を大衆とくくってしまうと大事なものが見えなくなる。三菱の人々だって一生懸命生きていたのだ。「"人民"の一人一人の生活、特殊性に思いを馳せなければ、それは全く人間性を欠いたものになる」とまで大道寺将司は書く。何より大道寺将司の口からこの言葉が出たことに衝撃を受けた。その通りだと思った。そして自らの「人間性」を欠いてきたこれまでの言動を恥じた。
昨日の記事でもその思想は垣間見えると思うが、たとえば僕はVTuber信者などをその多くが堕落していると馬鹿にしていた。
だからせっかく働くことで得たこの力を、憎んでやまないVTuber信者たちから搾取することで罪悪感なく富を築こうと考えていた。どうせ取るか取られるかの世界である。人が喜んだ分だけお金をもらうというのはきれいごとであって、それも騙すか堂々と奪うかの違いでしかない。それならば嫌いな人間から搾取したい。どうせVTuberを見ているような、それに僕が作るようなチンケなものに金を払うような余裕のある連中は恵まれた搾取者であるに違いない。彼らが搾取してきた分を僕が収奪して何が悪いのだろうか。そう考えていた。
しかしそのことを今僕は恥じる。
僕が見事VTuber信者たちから収奪するシステムを作り上げたとしよう。僕は街中で偶然僕が馬鹿にして騙してきた人のうちのひとりに出会うわけである。彼にも彼の生活があり、彼の苦悩がある。腹を割って話せば親しみを覚えていくだろう(実際、僕もあれだけ距離を感じていた会社の人たちに親しみを覚え始めている)。その時僕ははっきりと自分の過ちを自覚することになるわけである。まさに大道寺将司と同じように。
東アジア反日武装戦線の思想は今でも正しかったと思っている。だが、人は大目標のために人を傷つけることをよしとするとき、人ひとりひとりにそれぞれの人生があることを忘れてしまう。彼らのような人たちでさえ、そうなのである。
「人を傷つけてはいけない」のはなぜか。それは人を傷つけてもよいと僕たちが思うとき、たいていは人ひとりひとりにそれぞれの人生と苦悩があることを捨象しているからである。『狼煙を見よ』には本当に大事なことを教えてもらった。
参考文献