映画『桐島、部活やめるってよ』を観た。
表題の通り桐島という高校生が部活をやめる話なのだが、作中に桐島は一切出てこない。人気者だった桐島が学校に来なくなってからの話だからだ。
スクールカーストや部活動といった学生同士の人間関係(権力関係?)の生きづらさを執拗に描いていく。
かのただ、彼ら彼女らと対比されるかの、オタク集団である映画部の人たちだけはその生きづらさから逃れて楽しそうに映画を作っていて、映画部の部長のメガネの純粋な瞳に見つめられてヒエラルキーの頂点に立っていたはずの人間たちが次々と自らの空虚さや生きづらさを自覚して泣き始めるというのがおおよその構図である。
たしかにこれは憧れるなーと思えるようなメガネの純粋さの表現がひたすらうまかった。
最後にクラスで人気のイケメンの男がおどけてカメラを持ち、インタビュー風に「将来の夢は映画監督ですか?」と聞かれてじっくりと考え込みながら、「映画監督は無理」と答えてそれから言葉を選んで映画への愛を語りだすところなどは、真剣さが伝わってきて辛かった。辛かった、というのも、そのあと、無邪気に撮影の見本を見せようとカメラを向けてきたメガネくんのレンズ越しの視線にイケメンは耐えられなくなるからで、その今にも泣きそうな演技がこの映画の一番光るところだと思う。
全体的にスクールカーストを皮肉る描写が多く、「あるある」ネタで感情を揺さぶってくる作品なのだけど、あのシーンだけは、もっと普遍的な、「見られる」ことの怖さがうまく表現されている。
昔は孤独だった僕だが、いつのころだか友達も増えて他者を批評することばかりに興ずるようになってしまった。
他人のことを喋っている間は自分のことを忘れていられる。自分のことは見ないで済む。
僕もこんな風にして「僕は何もできなくて……」みたいな文章を毎日書いているが、それも自分のダメさと真剣に向き合うのが怖いからだ。卑屈になって自分はダメだと言い聞かせた方が、いざ自分の方にカメラのレンズが向けられた瞬間に辛くならずに済む。
思い返せば、そんなどこから向けられているのかもわからない視線とずっと戦ってきたような気がする。フーコーの権力論(原典にあたったことはないが……)に深く納得するのも、『新世紀エヴァンゲリオン』に深く共感するのも、視線の暴力や抑圧が怖くて戦ってきたと思うからだ。フーコーやエヴァが流行ったひと昔前(ざっくりすぎるけど)の人の感覚に僕が馴染むのもそういうわけなのかもしれない。たぶん、僕と同世代かそれより下の人の多くはそんなに深刻にはとらえていない。
僕の大好きな漫画家・村上かつらもそういうどこから見られているのかもわからない視線の暴力とどうやって向き合うかってことを考えていたと思うのだけど、『天使の噛み傷』のラストで「『保留』にしろ」、なんていう身もふたもない結論をはっきり示してくれたのが僕は大好きなんだな。保留にするしかないよな、そうやって生きるしかないよな、と思うから。