今日は会社でPayPayの話になり、「なんでPayPay使うのやめたんですか?」と聞かれる。うっと言葉に詰まる。
やましいことがない人なら「あくどい商法に嫌気がさしたから」とでも言えるのかもしれない(かなり僕の本心に近い言葉だ)が、僕はそうではない。そのまま話を広げられると、うっかり会社という存在自体を否定しかねない*1。
会社で日常的な会話にふとなると、自分の気持ちをうまく誤魔化して意図を説明しなければいけない場面にすぐ遭遇する。
結局このときは「PayPayは簡単にチャージできるのが怖い」という話をしたのだった。
ふつうの人のふりをするには経済的合理性に従っているふりをするのが一番だ、というのがここ半年の僕の経験則である。経済的合理性に従っているような話をするとやっぱり同じ人間なんだという印象を持ってもらえるらしい。僕自身、人類学的な研究を読むと、一見わけのわからない文化をもつ彼らに対してそういう感じをもったりする。しかし、経済的合理性があるかどうか「みられる」側になってみると、そういった視線の背後にはっきりと暴力性がみえてくる。
もちろん散々研究者の暴力性・権力性については散々いろんな人がこれまで指摘してきた*2。「権力とは『みる』ことである」みたいなことをフーコーか誰かが言っていたような気がするが、権力ある立場であるなら必然的に「みる」ことに暴力性が伴う。これまでは自らの暴力性を意識する側に立つことが多かったが、いざ「みられる」側になるとやっぱりちょっとしんどい。
しかし、ここで会社の人の立場になってみると、ただふつうにしているだけで何もしていないのである。ていうか会社に入ってみて思ったことだが、僕がこれまで接してきた人間たちよりもあの人たちは断然人に対して敬意のある対応ができる人たちである。以外にも包摂してくれることにびっくりしたことがなんどもあった。それでも僕は「視線」を怖がってしまう。
よく、フェミニズムの議論で「視線の暴力」という話になるが、これも会社にずっといるとよく理解できる。男性側からみれば何もしてないのに、なぜ暴力を振るったことにされてしまうのかと紋切り型の批判がある(このブログ記事を会社の人が読んだとしたら同じような疑問が浮かぶだろう)。ただそれも、社会の構造がそうなっているだけで、女性が「視線に傷つく」ことも、男性が自らの暴力性を常に気にして女性に接しなければ傷つけてしまうということも、一般論として、それ自体誰か特定の個人が悪いというわけではない(今回は男性/女性を例に挙げたが同じことは様々な差別の問題でいえる。)。こういうこともこれまで散々よく聞いた話ではあるのだが、今日は実感を得ることができたのだった。