絶望的な気分だった。
研修の進捗が同期と比べて三日くらい遅れている。それが辛くて、頭がおかしくなりそうだった。会社を出るとき、はっきりと死にたいと思った。電車に飛び込みたくなる感覚は久しぶりだった。大学二、三回生くらいの頃以来だろうか。
家に帰って腹いせに同居人をボドゲに誘ったら、快く受け入れられた。ボドゲはボコボコに負けたのだが、どうしてか今は晴れやかな気分だ。シンクの掃除も風呂の掃除も洗濯だってできてしまった。いつもできないのに。
人間の価値は仕事の出来不出来で決まるものではない。考えてみたら当たり前のことだ。ボドゲにたとえ負けたとしてもその時間が僕にとっては大事なのだった。何も得られなかったとしても大事に思えるものこそ大切にしていきたい。
昨日、友人が会社の研修で「人間的魅力を高めるから趣味を持ちましょう」という話をされたと怒っていた。怖ろしい話だ。僕の方は会社の人が「漫画なんか読んでても仕事の役に立たないどころか足を引っ張る」みたいな話をしていた(漫画好きの人たちがふざけたノリでしていて悪意のある感じではなかった)のを覚えている。そう考えている方がよっぽど健全だ。生きるために漫画を読んでも、仕事のために漫画を読んでいるわけではない。
自分には人と比べて優れているところはない。会社の人にはよく「文系だから(今はできないのも仕方ない)」とフォローされるが、何の言い訳にもならない。僕は別に人文系の学問について詳しいわけでは全くない。遊んで六年間を過ごしてきたからだ。かといって何か別のことに秀でているわけではない。一番自信のある漫画だって僕より読んでいる人は本当にいくらでもいる。こんな風に思うくらいならもっといろいろ頑張ればよかったのだけれど、もう遅い。これから頑張れる気もしない。そんな自分を受け入れていくしかないが、それは辛い。こんな自分は誰も認めてくれないのではないか。
絶望に暮れる帰りの車中で、二宮ひかるの漫画を読んでいた。『シュガーはお年頃』。まだ実は読んだことはない。大事な人に認められるか認められないか、という話だけをしていて本当によかった。人から認められることしか頭にない自分が嫌いだった。『シュガーはお年頃』の世界の中にはそんな人しかいなくて、心地よかった。ここにいていいと言われた気がした。ていうか二宮ひかるの漫画ってどれもそうなんじゃないか……? だからこんなにも惹かれるのかもしれない。僕は他者に承認されたいって気持ちがない人が怖かったんだと思う。あるいは十分な承認を得られてしまうほど能力が高く努力もできる人。
自分にとって意味のある努力をすればするだけ承認欲求は満たされる。「努力してきた」という確信があれば自分で自分のことを認めてあげられる。僕は努力ができなくて、後悔ばかりで、だから今の自分を認めることはできない。きっと恋人が欲しいのもその分の不足を他者からの承認で補おうとしているからなのだと思う。
『シュガーはお年頃』がまさにそういう話だった。
主人公の女は自分への嫌悪から「娼婦になりたい」と言う。
「娼婦になったら」
「淋しいひとを包みこむ」
「悲しいひとをなぐさめる」
「いっしょうけんめい愛してあげる」
「きっと女神さまみたいに感謝されるよ…」
なんだそうだ。
僕もずっと誰かを救いたかった。
誰かに感謝してほしくて、「あなたがいてくれてよかった」って言って欲しくて、そんな気持ちばかり先走って……。
いつか「大したことじゃなかった(『ハネムーンサラダ』)」と思えたらいいのだけど。