
つづきを展開
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日記
今日の新規性は、「心地よさ」という曖昧な語を、感覚的な満足ではなく、無目的な快として捉え直せたことである。
今日は桂英史『表現のエチカ』とスタンダール『赤と黒 上』を読んだ。いかにも遠い二冊に見える。片や表現の倫理をめぐる思索であり、片や十九世紀フランスの野心と恋愛と身分の小説である。しかし読んでいるうちに、両者にはどこか深いところで通じるものがあるように思えてきた。どちらも、芸術とは何か、表現とは何か、人が何かに惹かれるとはどういうことか、という問いを、それぞれ別の角度から抱えている。そして今日は、その共通点を考えるうえで、自分のなかでひっかかっていた「心地よさ」という語が少しだけ整理されたのが大きかった。
これまで私は、芸術に触れたときの「よさ」を、なんとなく心地よさとして受け取っていた。しかしその心地よさが、ケーキを食べたときのうまさや、柔らかい布に触れたときの気持ちよさとどう違うのか、そこがうまく言えずにいた。むしろ、言おうとすればするほど曖昧になった。音楽が心地よい、文章が心地よい、絵が心地よい、と言ってしまえば、それで何かを説明した気にはなる。だがその「心地よい」は、いったい何を指しているのか。単に快楽であるなら、芸術もまた感覚の満足に還元されてしまう。しかし実際には、芸術に触れたときのよさは、そういう満足とは少し違うように感じられる。今日はそこを、AIとの対話を通して少しだけ言い当てられた気がした。芸術的な快は、無目的な心地よさである、と。
この「無目的な快」という言い方は、まだ粗い。しかし今の私にはかなりしっくり来ている。ケーキを食べる場合、そこにははっきりした筋がある。食べたい、食べる、うまい、満足する。この流れは分かりやすい。欲求があり、それが対象によって満たされ、その満たされた感覚が快として現れる。ここでは快は目的に結びついている。腹が減っているかもしれない。甘いものが欲しいのかもしれない。気分転換したいのかもしれない。いずれにせよ、そこには「何のため」がある。感覚の満足は、たいてい目的を背負っている。だが芸術の前で起きる快は、そういう筋に乗りにくい。絵を見て、なぜか立ち止まる。詩の一節を、何の役にも立たないのに繰り返し読む。悲しい旋律なのに、なぜか耳を離れない。小説の人物の卑小さや虚栄が描かれているのに、そこに妙な魅力を感じる。ここには「食べたいから食べる」のような明快な目的がない。むしろ、目的がないのに、なお惹かれる。その無駄さ、その回り道、その即効性のなさこそが、芸術の快なのではないかと思えてきた。
この点で、『表現のエチカ』と『赤と黒』はたしかに遠くない。桂英史の本は、その題名からして、表現を単なる技巧や装飾ではなく、倫理の問題として扱おうとする気配を帯びている。表現は、ただきれいに書くことでも、上手く伝えることでもない。そこには、世界との関わり方、人との距離の取り方、言葉を発するときの姿勢が問われている。表現は技術であると同時に態度であり、その態度には倫理が宿る。そう考えると、表現とは、目的達成のための単なる手段ではないことになる。効率よく情報を伝えるだけなら、表現は最短距離でよい。だが実際の表現はそうならない。余計な比喩があり、言い淀みがあり、遠回りがあり、ときには沈黙や躓きまで含まれる。その余剰、その回りくどさ、その役に立たなさの部分にこそ、表現の倫理が滲むのではないか。そうであるなら、表現もまた無目的な快とどこかで結びつく。役立つからよいのではなく、ただ役立ちだけでは届かない何かに触れるからよいのである。
スタンダールの『赤と黒』もまた、読み進めるほどに、単なる立身出世の小説ではなくなってくる。ジュリヤン・ソレルは美青年であり、聖書を暗誦でき、本を愛し、貧しい出自から抜け出そうとする。筋だけ追えば、野心ある青年の上昇物語にも見える。だが読んでいて本当に気になるのは、彼の成功の手際よりも、彼が世界をどう見ているかである。彼はまっすぐではない。信仰も、身分も、恋愛も、社会的成功も、そのまま信じてはいない。どこかで演技として見ている。しかもその演技をただ冷笑しているのではなく、自分もまたその舞台に上がろうとする。この屈折が、読んでいて妙におもしろい。彼が本を愛することも、たぶんここにつながっている。本を読むことは、世界の表面をそのまま受け取らず、別の見え方を知ってしまうことだからである。
すると『赤と黒』における芸術性とは、ただ美しい文章や劇的な展開にあるのではなく、人間の欲望や虚栄や野心が、そのまま道徳的整理に回収されないところにあるのかもしれない。ジュリヤン・ソレルは善人ではない。だが、そのことがかえって彼を生きた人物にしている。彼を見ていると、こちらは気持ちのよい教訓を得るわけではない。むしろ嫌なもの、滑稽なもの、危ういものを見せられる。しかしそれでも読んでしまう。つまり、そこには単純な快楽ではない快がある。不快さを含みながら、それでも引き込まれる快である。ここにもまた、無目的な快という言い方は当てはまる気がする。読んで得をするわけでもなく、役に立つ教訓がただちに得られるわけでもないのに、なお読んでしまう。人間の屈折を読むことは、気分よくなるためだけの行為ではない。だが、それでもそこには確かな魅力がある。
考えてみれば、芸術の快とは、快と不快の単純な対立では測れない。美しい悲劇、救いのない小説、重苦しい映画、不穏な絵画。こうしたものが成立するのは、芸術における快が、単純な「気持ちいい」ではないからである。むしろ、こちらの認識や感情や想像力が、目的から少し自由になって動き出すことそのものが快なのではないか。役に立つかどうかではなく、所有したいかどうかでもなく、ただ惹かれてしまう。立ち止まってしまう。考え込んでしまう。その停滞の時間、その寄り道の時間が快である。だから芸術の快は、消費の快とは違う。消費は対象を取り込み、満足し、次へ進む。芸術はしばしば、対象の前にこちらを留める。満たすというより、むしろ引き延ばす。解決するというより、考えさせる。私はそこに大きな違いを見た。
そして今日は、この違いが、明日の問いにつながるのだとも思った。無目的な快と、目的だけで動く実社会とは、どう共存しうるのか。これはかなり切実な問題である。なぜなら、私たちが日々いる社会は、ほとんど目的でできているからである。仕事には成果が求められる。行動には効率が求められる。努力には回収可能性が求められる。人間関係でさえ、ときに利得や評価や将来性の言葉で語られる。何の役に立つのか。何のためなのか。どれだけ得になるのか。こうした問いは、現代社会のいたるところに染み込んでいる。そのなかで、無目的な快は、たしかに肩身が狭い。芸術は役に立つのか。文学は何の意味があるのか。哲学して飯が食えるのか。こうした問いは、すべて目的の言語から発せられている。
しかし、もし人間の生が目的だけでできているなら、芸術の場所はほとんどなくなる。いや、芸術だけではない。散歩、余白、沈黙、ためらい、回想、祈り、ぼんやり眺めること、そうしたものもまた居場所を失うだろう。だが実際には、人間はそういう無駄なしには生きられない。目的だけで構成された人生は、おそらく非常に効率的ではあっても、非常に乾いている。達成はあるかもしれないが、滞留がない。成果はあるかもしれないが、観照がない。役には立つかもしれないが、惹かれるものがない。すると人生は、前へ前へと進むばかりで、立ち止まる意味を失う。私は最近、仕事のなかで効率や設計や再発防止を考えることが多いだけに、このことが余計に気にかかる。目的の言語は必要である。だが、その言語だけで世界を埋め尽くしてしまうと、人間はたぶん窒息する。
ここで「無目的な快」は、単なる贅沢ではなく、むしろ人生を人生として保つための条件なのではないかと思う。役に立つから読むのではない。得になるから見るのではない。評価されるから聴くのではない。ただ惹かれるから、そこにとどまる。そういう時間があることで、人は自分を目的の歯車から少しだけ取り戻すことができるのではないか。もちろん、これは仕事を捨てろという話ではない。現実社会は目的で回っているし、目的をまったく持たずに生きることはできない。食べていかねばならないし、働かねばならないし、責任も果たさねばならない。問題は、目的の世界と無目的な快とをどう接続するかである。
この接続は、たぶん単純な折衷ではない。平日は仕事、休日は芸術、というふうに綺麗に分けられるものでもない。むしろ、目的の世界のなかに、無目的な快の回路をどう忍ばせるか、という問いになるのだと思う。たとえば仕事をしていても、言葉の使い方に少しこだわる、形式の整い方に妙な愛着を持つ、説明のわかりやすさだけではなく、どこかひっかかる言い回しを大事にする。あるいは、まったく役に立たない比喩を心のなかで育てる。こうしたことは、表向きには不要である。しかし、不要だからこそ、人間の側に属している。人生を全部目的に回収してしまわないためには、こうした不要なものを不要なまま持っておくことが大事なのかもしれない。
『表現のエチカ』を読み、『赤と黒』を読むという今日の取り合わせも、そう考えると象徴的である。表現の倫理を考える本と、野心的な青年の物語。どちらも一見すると、すぐに役立つ本ではない。しかし、役立たないからこそ、こちらの感覚や思考の襞に入り込んでくる。表現とは何か、人はなぜ屈折するのか、なぜ虚栄に惹かれ、なぜなお本を愛するのか。そうした問いは、人生を効率化するものではない。だが人生を厚くする。芸術の快とは、おそらくこの「厚くする」力のことでもある。満腹にするのではなく、厚みを与える。即効的に満足させるのではなく、あとを引く。消費して終わるのではなく、何かが残る。その残り方が、芸術の快の独特さなのだと思う。
今日はAIとの対話によって、そのあたりが少し言葉になった。「趣味的な心地よさ」は、自分の好みに合って気持ちいいという快である。「芸術的な心地よさ」は、自分の欲や実用と切り離されているのに、なお惹かれるという快である。この違いが腑に落ちたことで、読んでいた二冊の本も少し違って見えてきた。『赤と黒』のおもしろさは、単なる娯楽の快に還元されない。『表現のエチカ』が問う表現の問題も、単なる技術論ではない。どちらも、人が何かに無目的に惹かれ、その惹かれを通して生を組み替えられていく、その運動に関わっている。芸術とは、目的を失った快ではなく、目的では尽くせない快の場なのだろう。
明日は、無目的な快と、目的だけで動く実社会との共存について考えてみたい。芸術の快をただ聖域として讃えるのではなく、それが労働や制度や生活のなかでどのような位置を持ちうるのか、そこまで考えたい。人生は目的だけでは痩せる。しかし無目的だけでも成り立たない。そのあいだで、人はどのように生きるのか。芸術は現実逃避なのか、それとも現実を現実だけにしないための装置なのか。私は明日、その問いをもう少し先まで追ってみたいが、そもそも私たちは、役に立たないものに惹かれる力を失ったとき、まだ人生を人生として呼べるのだろうか。
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