
つづきを展開
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日記
ミスを防ぐために人間を機械へ近づけようとする設計そのものが、かえって人間とは何かを問い返してきた。
今日は、ケアレスミスが二重に重なり、ちょっとしたインシデント寸前まで事態が進んだ。Aさんの見落としがあり、それを別のところで受け止めるはずのBさんもまた別の見落としをして、ふつうならどこかで止まるはずのものが、二つの小さな綻びの連鎖によって危ういところまで行ってしまった。こういうことが起こると、仕事を設計する側の人間として、すぐに一つの方向へ思考が引っ張られる。つまり、手入力を減らせ、判断を減らせ、手順を固定せよ、例外をなくせ、Google Apps Scriptで自動化せよ、人間が触る部分を最小化せよ、という方向である。現場でミスが起きるたびに、設計者の頭のなかでは「人間を信用しない仕組み」の正しさが強化されていく。これはある意味では当然である。事故が起きれば、次は起きないようにしろと言われる。再発防止とはたいてい、自由度を削ることだからである。
しかし今日は、その当然さのなかに、どうにもひっかかるものが残った。人間ってなんだろう、と。もしミスが許されないなら、結論はかなり明白である。入力は撤廃する。転記も撤廃する。確認も機械にやらせる。人間がやることは、画面に出てきたものをコピペするだけ、印刷するだけ、押すだけ、流すだけになる。つまり、作業者はロボットでよいという設計思想に行き着く。もちろん、現実にはロボットではなく人間がその席に座る。だからその人は、人間の姿をしていながら、人間でなくてもよいような仕事をすることになる。ここに、仕事の不気味さがある。
私は仕事として、ミスが起きないように設計しなければならない。これは責任である。現場で誰かがミスをして困るのも、そのミスが別の人の手を煩わせるのも、最終的には利用者や関係者へしわ寄せが行くのもよくない。しかも、単純なケアレスミスほど、人を傷つける。悪意ではないだけに、言い訳も空しく、起こした本人も受け止める側も疲弊する。だから人の善意や注意力に依存しない仕組みをつくることは、ある種の優しさですらある。気をつけてください、丁寧にやってください、確認を徹底してください、と精神論だけを重ねる職場よりは、ミスしにくい設計のほうがましである。それは疑いようがない。
だが、その「ましさ」が進みきった先にあるものは何だろうか。流れてきたパンにソースをかける、また次のパンにソースをかける、延々とソースをかける。あるいは単純作業Aをし、飽きたので単純作業Bに移り、またAに戻り、今度は単純作業Cで気分をごまかす。そこにはミスは減るかもしれない。しかし、その減ったミスのぶんだけ、人間のなかの何かも減っていくのではないか。判断の余地、工夫の余地、全体像への関心、自分のしていることの意味の感覚。作業を安全にするほど、作業者は作業の中身から遠ざけられる。この逆説が、今日は一日じゅう頭に残っていた。
アダム・スミスは分業によって社会が発展すると言った。ひとりが最初から最後まで全部つくるより、工程を分けたほうが生産性は上がる。各人が自分の利害を追っていても、市場の仕組み全体のなかで結果として公共の益が増える。近代社会はこの思想を相当に信じてきたし、実際、その信頼によって豊かになった部分も大きい。だが、アダム・スミス自身は、分業の暗い面にも気づいていたはずである。作業が細分化されればされるほど、ひとりの人間が担う行為は痩せ細る。全体を見る力は衰え、反復だけが残る。社会全体としては効率的であっても、個々の労働者にとってそれがどういう生であるかは別問題である。私は今日、まさにその別問題の前に立たされた気がした。
設計する側に回ると、人はどうしても全体最適で考える。どこでエラーが起こるか。どの工程を切ればよいか。何を自動化すればよいか。どうすれば誰がやっても同じ結果になるか。これは必要な思考であるし、私もその思考をする。むしろ、その思考をしなければ給料をもらう資格がないとすら思う。しかし全体最適は、部分の生の貧しさを見えにくくする。設計図のうえでは、ある工程が三秒短縮され、確認漏れのリスクが下がり、再入力が不要になり、集計が自動化される。それは美しい。だがその美しさの裏で、作業者が一日中やることは、ますます薄い行為になっていく。判断しなくてよい。迷わなくてよい。考えなくてよい。気を利かせなくてよい。ただ手順どおりに、ソースをかける。パンにソースをかける。これは人間にとって何になるのだろうか。
ここで私は、単純に「人間らしさが奪われる」と嘆くだけでは足りないとも感じる。なぜなら、現実には、人間らしさを発揮する余地が大きい仕事ほど、別の種類の苦しさも生むからである。判断が多い仕事は責任も重い。裁量がある仕事は属人化しやすい。工夫の余地がある仕事は、できる人に負荷が集中する。人間らしさという言葉は聞こえはよいが、その実体はしばしば「標準化できないしんどさ」である。だから単純作業化が絶対に悪いとは言い切れない。むしろ、人によっては、余計な気疲れがなく、定型で終わる仕事のほうが心が楽だということもあるだろう。今日私が感じたのは、単純化が悪いというより、単純化せざるをえない現実と、その先に残される生の手触りの乏しさとのあいだのねじれである。
このねじれをうまく言うために、今日は一つの概念ラベルをつけてみたい。配慮なき安全である。安全のために工夫し、ミスを防ぎ、事故を起こしにくくすること自体は正しい。だがその安全が、作業者の時間感覚や自尊心や思考の厚みへの配慮を欠いたまま進むとき、そこには「配慮なき安全」が生まれる。事故は減るかもしれない。しかし、そのぶんだけ人は、自分がただ置換可能な指先になったような感覚を抱く。安全は守られているのに、人間は少しずつ痩せていく。私は今日の仕事を通して、この奇妙な状態に言葉を与えたくなった。
さらに言えば、現代の自動化は、単に作業を減らすのではなく、責任のあり方も変える。ミスが起きたとき、昔ならその場の人の注意不足として処理されたものが、いまでは設計の欠陥として戻ってくる。これは健全でもある。人のせいにせず、仕組みを直すという発想だからである。だが同時に、設計者は人間を信用しないことを職務として引き受けるようになる。人はミスをする。だから触らせるな。考えさせるな。選ばせるな。こうして設計者は、人間の弱さを前提にした世界をつくる。そのこと自体は正しいが、それを長く続けていると、だんだん「人間の弱さ」だけでなく「人間の可能性」に対する感覚まで鈍っていく。人は任せれば工夫するかもしれない。全体像を知れば関心を持つかもしれない。意味を感じればミスの質も変わるかもしれない。そうした可能性は、事故報告書の様式のなかではほとんど語られない。そこに現れるのは、起きたことと、起きないようにする方法だけである。だが人間とは、本当にその二つの欄だけで足りる存在なのだろうか。
今日は『ロック書簡集』も読んだ。休養についてのくだりが妙に沁みた。肉体労働の人はゆったりして休み、座ってばかりの人は運動が休養になる、という趣旨である。なるほどと思った。たしかに、疲れには種類がある。筋肉の疲れと神経の疲れは違う。手を動かす疲れと、気を張り続ける疲れも違う。私の今日の疲れは、肉体よりも頭のほうに溜まっていた。誰が悪いというほどでもない二重のケアレスミスが連なり、それをどう解釈し、どう再発防止につなげ、どう人のせいにせず、それでも仕組みは締めていくかを考え続ける疲れである。この疲れには、座って休むだけでは足りない。だから私は走った。汗を流した。頭のモヤモヤが少し剥がれた感じがした。これはまさにロックの言う通りで、座り続けて濁った神経は、別種の運動で洗われるのである。
だが、走ってすっきりしたあとに待っているのは、また明日である。そこが少しつらい。運動は頭を整えてくれる。しかし人生そのものを片づけてはくれない。走って、汗をかいて、風を受けて、その瞬間だけは世界が単純になる。息を吸う、吐く、足を前へ出す。それだけでよい。ところが走り終えると、再び設計と責任と反復の世界へ戻る。あとは寝るだけ、という感覚もよく分かる。休養は回復であると同時に、再投入の準備でもある。そう思うと、休むことさえ少し働くことに回収されてしまう。ロックは休養を身体の均衡として語ったのかもしれないが、現代人の休養はしばしば、壊れない程度に自分を再調整する技術になっている。ここにもまた、仕事の時代の影がある。
ただ、私は今日、走ったことを軽く見たくない。なぜなら、仕事が人をコピペ機械へ近づけるとき、走ることは少なくとも、自分の身体がまだ自分のものであることを確かめる行為だからである。画面上で決められた手順をなぞるのではなく、自分のリズムで呼吸し、自分の脚で地面を蹴る。そこには定型がないわけではないが、定型しかないわけでもない。少なくとも、パンにソースをかけ続けるのとは違う時間が流れている。私はこの違いを、少し大事にしたいと思った。仕事がどうしても人を部分化するなら、仕事の外で全体を取り戻すしかないのかもしれない。とはいえ、それもまた悲しい話である。本来なら、仕事それ自体のなかに、多少なりとも全体性や意味や手応えが含まれていてほしいからである。
仕事とは何だろう。今日の私はその問いに、すぐには答えられない。ただ、少なくとも仕事は、生きるための糧を得る手段であるだけでなく、人間観を組み替える装置でもある。どんな仕事をするかによって、人は人間をどう見るかが変わる。ミスを減らす仕事をしていれば、人間はミスをするものだと強く思うようになる。標準化の仕事をしていれば、人間は置換可能な工程に分けられるものだと見えてくる。自動化の仕事をしていれば、人間は機械が苦手なところだけを補う部品のように思えてくる。この視線は実務上は有効である。だが、その視線だけで人間を見続けると、いつか自分自身まで工程の一部に見えてしまう。私は設計する側の人間になってしまった、と今日感じたのは、そういう意味でもある。設計するとは、どこかで人を部品として見ることだからである。しかも、それが必要な場面がたしかにあるから厄介なのである。
しかしそれでも、私は仕事を全面的に悲観したくはない。むしろ今日のような日にこそ、仕事の意味は「ミスなく終えること」だけではないのだと考えたい。人が関わるからミスが起きる。だが人が関わるから、ミスの意味づけも変えられる。仕組みを締めつつ、作業者がただの指先にならないようにできないか。自動化を進めつつ、単調さのなかに少しでも理解や工夫や循環を入れられないか。全部を任せるのではなく、全部を奪うのでもない中間はないのか。これは設計の問題であると同時に、倫理の問題でもある。効率と安全だけでなく、その工程を担う人の時間がどういう質になるかまで考えること。それが配慮というものではないか。難しい。たぶん綺麗には解けない。だが、そこを考えない設計は、どれだけ事故率が低くても、どこかで人間を摩耗させる。
アダム・スミスの分業論から二百年以上が経ったいま、私たちはさらに細かく仕事を分け、さらに多くを自動化し、さらにミスを許さない世界に住んでいる。その結果、社会全体は便利になった。だがその便利さの一部は、誰かの単調さの上に立っている。しかも、単調さは目立たない。事故は報告書になるが、退屈は報告書にならない。インシデントは記録されるが、毎日少しずつ痩せていく働き手の感情は記録されない。私は今日、その見えない退屈と見えない悲しさのことを考えていた。流れてきたパンにソースをかける仕事が悪いのではない。問題は、その仕事が世界のどこにつながっているのか、自分のしていることが何を支えているのか、その感覚まで奪われたときである。反復は耐えられる。意味のない反復がつらいのである。
だから、仕事ってなんでしょうね、という今日の問いに、いまの私はこう応じたい。仕事とは、単にミスなく回る仕組みではなく、人間が自分の時間をどう差し出すかの形式である。そこに意味があるか、誇りがあるか、全体への手触りがあるか、少なくとも自分がただのソースかけ機ではないと思える何かがあるか。その問いを忘れた設計は、きれいでも冷たい。私もまたその冷たさへ流されやすい側にいる。だからこそ、今日の二重のケアレスミスは、単なる再発防止の材料ではなく、人間をどこまで機械に近づけるべきかを考え直す小さな警告として受け止めたい。ミスを防ぐことと、人間を痩せさせないことは、本当に両立しないのだろうか、それとも私たちは効率の名のもとに、考えるべき設計の難問から早々に逃げているだけなのだろうか。
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