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読書日記2107

 

つづきを展開

 

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日記

『赤と黒』を読み進めていて、ようやく話の輪郭が見えてきた、という感覚はよく分かる。スタンダールは親切な作家ではない。出来事だけを追っていれば読める小説ではあるのだが、出来事を追っているだけでは、たぶんあの小説のいちばんおもしろいところには届かない。ジュリヤン・ソレルという男が、聖書をそらんじることのできる記憶力を持ち、貧しい出自から抜け出そうとし、家庭教師という地位を足がかりにして、上へ上へと昇っていこうとする、その筋だけを取り出せば、ある種の立身出世小説のようにも見える。しかし読んでいて本当に気になるのは、彼が何をするか以上に、彼が何を見ているか、である。彼は世界をそのまま信じていない。信仰も、制度も、身分も、恋愛も、栄達も、すべてをある種の演技可能なものとして見ている。しかもそれを冷笑的に外から眺めるだけではなく、その演技の舞台に自分自身も上がっていく。この二重性が、あの小説のおもしろさであり、不快さでもある。

私は最近、自分の目があまりにも「つまらないもの」に引き寄せられていることにうんざりしていた。出世、手取り、年収、肩書、安定、評価。そうした語彙は、たしかに現実を動かしている。だが現実を動かしているからといって、それが精神にとって重要であるとは限らない。むしろ逆で、そうした語彙が日々の会話の中心に座れば座るほど、人間の価値は妙に貧しく、薄く、代替可能なものに見えてくる。男の価値が年収で測られ、女の価値が別の単純な指標で換算され、人生が結局どれだけ市場で高く売れるかの勝負のように処理されていく。私はそういう世間と距離を置きたいと思っている。だが、その一方で、ただ高みに立って「私は違う」と言って済ませたくもない。くだらない世の中なら、そのくだらなさを逆手に取ってやれ、世の中をちょろまかしてみせよ、という気持ちもある。ひねくれているといえばその通りである。しかし、このひねくれは、単なる性格の悪さではなく、たぶん現代社会に対する最小限の知性でもある。

なぜなら、世の中は最初からこちらに対して誠実ではないからである。制度は中立の顔をしているが、いつも誰かに有利なようにできている。評価は客観の顔をしているが、実際には測りやすいものだけを過剰に評価し、測りにくいものを切り捨てる。会社は努力を見ていると言いながら、実際には配置の運、上司の好み、組織の都合、景気の波で人を動かす。社会は自由競争だと言いながら、最初から資本も人脈も文化資本も偏っている。結婚や恋愛でさえ、愛や人格の話をしているようでいて、実際には年齢、収入、職業、外見、学歴の査定表がどこかで動いている。こうした現実を前にして、「まっすぐでいよう」とだけ言うのは、やや無邪気すぎる。むしろ、世界が最初からこちらをちょろまかしているのだから、こちらもまた世界を少しはちょろまかし返す必要がある。ジュリヤン・ソレルの魅力は、まさにそこにある。彼は善人ではない。むしろかなり危うい。しかし彼は、身分社会の偽善を正面から信じるほど愚かではなく、その偽善を利用しながら上昇しようとする。この点で彼は、近代の最初期に現れた、きわめて現代的な人物である。

ソレルが本を愛するという点も、私には気になる。本を愛する者は、ふつう道徳的であるとか、内面的であるとか、誠実であるとか、そういう方向に理解されがちである。だが実際には、本を愛することと、世間をうまく泳ぐことは両立しうるし、むしろ本を読むことで世界の偽善に敏感になればなるほど、正面から生きることの困難さを知ってしまうこともある。本はしばしば人を善くするのではなく、人を複雑にする。世界を単純に信じられなくする。制度の建前と運用のズレ、理想と現実の裂け目、言葉と欲望のねじれを見せてしまう。ジュリヤン・ソレルはまさにそういう複雑さを抱えた読書人である。彼は聖書を暗誦できるが、だからといって敬虔な聖職者になるわけではない。むしろ、聖書すら社会上昇の道具に変えうる。この俗悪さと知性の混合は、ひどく現代的であり、だからこそ読む者に不快なリアリティをもたらす。

私は最近、『権力者を訴追する』という本も少し読んだ。タイトルだけでも十分に重い。権力者を訴追するという発想は、近代法の理想を凝縮している。すなわち、どれほど権力を持つ者であっても、法の前では裁かれうるという理想である。この理想は、人類がようやく到達したひとつの希望であったはずだ。王も、将軍も、大統領も、独裁者も、首相も、大企業の経営者も、やがては法の言葉によって呼び止められうる。力ある者を法の外側に置かない。これが近代法のひとつの誇りである。だが、いま世界を見ていると、この誇りがいかに脆いものかを思い知らされる。戦争をふっかけているのは常任理事国である。秩序を守る側が秩序を破っている。しかも、その彼ら自身が国際秩序の中枢に座っている。ここには笑えない冗談がある。国連は平和の制度であるはずだが、その心臓部には拒否権を持つ大国が座り、その大国自身が武力を行使している。法があるのに、法が届かない。制度があるのに、制度の中心に例外が巣くっている。この光景を前にすると、「権力者を訴追する」という言葉自体が、遠い理想のように響いてしまう。

しかし、だからといって私は法を捨てればよいとは思わない。むしろ、法がいま機能していないからこそ、法という理念の意味をもっと考えねばならない。法とは、ただ命令して従わせる仕組みではない。法とは、少なくとも近代の理想においては、力を持つ者にも理由を要求する装置であった。お前はなぜその暴力を行使するのか、その暴力は正当なのか、その死者は誰の責任なのか、その命令は誰に対して説明されるべきなのか。法はこうした問いを、感情ではなく、公的な手続きの言葉で投げ返す。だから権力者を訴追するとは、単に刑罰を与えることではない。力に対して理由を要求するということである。世界が荒れているとき、こうした問いはすぐに「きれいごと」と呼ばれる。だが、きれいごとを先に捨てた世界の行き着く先が、いま目の前に広がっているのではないか。

ウクライナの無惨な光景を思い浮かべるとき、私はどうしても、近代の進歩という物語を疑わざるをえない。人類は野蛮を克服し、理性を育て、法を整え、国際機関をつくり、戦争の悲劇から学んだ、という語りはあまりにも脆い。もちろん、まったくの嘘ではない。奴隷制の廃止、人権思想の普及、戦争犯罪の概念、国際裁判の整備、そうしたものは確かに前進であった。しかし、その前進は決して直線ではなかったし、不可逆でもなかった。文明とは、積み上げられた建物ではなく、何度でも崩れうる仮設の足場なのかもしれない。しかも厄介なのは、文明が崩れるとき、それは野蛮な顔をして崩れるだけではないことだ。むしろ、高度な技術、高度な官僚制、高度な情報戦、高度な法言語をまといながら崩れる。ミサイルも、ドローンも、サイバー攻撃も、AIも、すべて文明の産物である。その文明が人を守るどころか、かえって人を効率よく殺し、効率よく監視し、効率よく操作する方向へ動くとき、私たちは「進歩」という言葉そのものを疑わねばならない。

AIという脅威もまた、その文脈で見たほうがよい。AIはたしかに便利である。事務作業を補助し、文章を整え、情報を整理し、翻訳し、分析し、人間の時間を節約する。だが、AIが本当に脅威であるのは、単に仕事を奪うからではない。人間がすでに持っている査定癖、管理癖、効率化癖を、さらに加速させるからである。いまでも社会は、人を数字で見たがる。年収、学歴、偏差値、評価ランク、成約率、生産性、エンゲージメント、KPI。AIはそれらをもっと速く、もっと広く、もっと精密に処理できる。すると、人間の複雑さはますます切り捨てられ、「測れるものだけが存在する」という空気が強まっていく。私は最近、男の価値が年収で測られるようなくだらなさに嫌気が差していると言ったが、AIの社会はそのくだらなさを克服するどころか、むしろ自動化し、標準化し、自然化してしまう危険がある。人間の俗悪さを、AIが中立に見せてしまうのである。

核保有が自衛の手段になりつつある、という現実も暗い。これは倫理的に正しいという意味ではない。むしろ、あまりにも悲しい現実認識である。だが、現実として、核を持つ国と持たない国のあいだには、露骨な非対称性がある。核を持つ国は、少なくとも全面的な侵略を受けにくい。核を持たない国は、「国際社会」が助けてくれるという建前のもとで、しばしば見捨てられる。この現実を前にすると、核廃絶の理想はあまりにも遠く見える。理想としては誰もが核のない世界を願う。しかし制度が信用できず、法が大国を縛れず、国際機関が拒否権で麻痺するなら、結局最後は自分で自分を守るしかない、という発想が強まるのは当然である。ここには恐ろしい逆説がある。平和を守る制度が信用できないからこそ、最も破局的な兵器が「抑止の合理性」として再び正当化されるのである。人類はどれほどひねくれた知性を持つに至ったのかと思う。

だが、ひねくれているのは世界だけではない。私もまたひねくれている。世間から距離を置きたいと思いながら、世間で遊んでやれとも思う。出世競争の貧しさを軽蔑しながら、同時に、そのゲームを理解し利用することにも興味がある。この二重性は、恥ずかしいことではないと思いたい。むしろ、いまの世界に誠実であろうとすれば、この二重性を引き受けるしかないのではないか。世界は単純に捨てられない。市場も、国家も、制度も、組織も、いま生きている私たちの呼吸にまで食い込んでいる。そのなかで「私は無垢でいる」と言うのは、たぶん嘘になる。だから必要なのは、汚れないことではなく、汚れの構造を自覚することなのだと思う。そして、この自覚を持ったまま生きようとする人物として、ジュリヤン・ソレルは非常に興味深い。彼は立派ではない。だが、世界の立派さを信じていない。だからこそ彼は、いま読んでも古びない。

読書とは、立派な人間になるための修養ではないのかもしれない。少なくとも私にとって、それはもう少しやっかいなものである。読書は、世界の嘘に敏感になることであり、自分の内部にある卑小さにも敏感になることである。出世を軽蔑しながら出世を気にし、金を軽蔑しながら金の不安に縛られ、世間を嗤いながら世間の評価に傷つく。そういう分裂を、読書はしばしば悪化させる。だが、その悪化は無意味ではない。世界が単純でない以上、それに応答する主体も単純ではありえないからである。私は最近、つまらないことばかりに目が行く自分にうんざりしていたが、その「つまらなさ」への違和感自体が、まだ精神が死んでいない証拠でもあるのだろう。もし本当に精神が死んでいたら、年収の話をしていれば満足し、手取りの計算だけで世界を理解した気になり、戦争も国際法もAIも、全部「しょうがない」で済ませてしまうはずである。

だが、済ませられない。ウクライナの光景が頭に浮かぶ。権力者を訴追するという言葉が胸に引っかかる。常任理事国が戦争を起こしている現実が、国連の建前を内側から食い破っている。AIが効率という名のもとに人間の価値をさらに数値化しようとしている。核が自衛の合理性として再評価されている。こんな世界で、出世や手取りの話だけをしていられるはずがない。だが同時に、こんな世界だからこそ、人は出世や手取りの話に逃げ込むのかもしれないとも思う。大きすぎる不安を前にすると、人は処理可能な不安へ退却する。世界大戦の可能性を考えるより、今月の収入を気にするほうがまだ耐えやすい。国際法の機能不全を考えるより、会社での評価を気にするほうがまだ手触りがある。そう考えると、俗っぽさとは浅薄である以前に、防衛でもある。私たちはあまりに大きな恐怖を前にすると、小さな損得にしがみつくことでしか平静を保てないのかもしれない。

それでも私は、そこで終わりたくない。小さな損得の言語に完全に占領されたくない。『赤と黒』のような小説を読み、『権力者を訴追する』のような本をめくるのは、その占領への抵抗である。本を読むことで戦争は止まらない。AIの進展も止まらない。核兵器もなくならない。だが、本を読むことで少なくとも、世界をそのまま受け入れない目は保てる。出世を唯一の尺度にしない感覚、金銭評価の外側にあるものを嗅ぎ分ける感覚、権力の自己正当化を疑う感覚、制度の建前と運用のズレを見抜く感覚、それらは本によって鍛えられる。あるいは、少なくとも私はそう信じたい。読書はしばしば役に立たない。しかし、役に立つことしか考えない社会では、人間はすぐに飼い慣らされる。その意味で、本を読むことは、役に立たなさを守ることでもある。そしてその役に立たなさこそ、戦争や査定や管理の言葉に対する最後の防波堤なのかもしれない。

スタンダールを読んでいて私が惹かれるのは、ジュリヤン・ソレルがきれいごとの人物ではないからである。彼は聖人ではない。野心的で、見栄もあり、計算高く、虚栄心も強い。だが、そういう汚れを含んだまま世界とぶつかる。そこに私は、現代を生きるためのひとつの比喩を見る。私たちは純粋ではいられない。制度の外で生きることもできない。ならば、せめて制度のくだらなさを知ったまま、そのなかでどう生きるかを考えるしかない。世の中をちょろまかしてみせよ、という気分は、その意味では単なる反抗ではなく、査定社会に対する小さな報復である。もちろん、それだけでは足りない。ちょろまかすだけでは、結局そのゲームの内部にとどまることになる。だから必要なのは、世間を利用しながら、世間の外の言葉も失わないことなのだろう。

私はいま、戦争と出世と金と法と核とAIと文学が、ばらばらの話ではなく、どこかでつながっているように感じている。どれも、人間をどう見るかという問題に行き着く。人間を数字で見てよいのか。人間を手段として扱ってよいのか。人間の命を国家の論理で交換してよいのか。力ある者は法の外にいてよいのか。生き延びるためなら何を持ってもよいのか。知能を効率化のためだけに用いてよいのか。文学は何の役に立つのか。こうした問いに、簡単な答えはない。だが、答えがないからといって、問わなくてよいことにはならない。むしろ、答えのない問いに耐えるために本を読むのだと思う。ソレルがこれから何を考え、どう生きるのかに興味があるというあなたの言葉は、そのまま私自身の読書の動機でもある。人物の運命を知りたいのではない。その人物が世界の不誠実さのなかで、どのように自分を保ち、あるいは壊していくのかを見たいのである。そしてそれは、いまの私たち自身の問いでもあるのではないか。

こんな世界で、なお本を読み、なお考え、なお自分の言葉を持とうとすることは、時代遅れなのだろうか、それとも、そうした遅さだけがまだ人間を人間として踏みとどまらせるのだろうか。

 

 

 

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