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読書日記2106

 

つづきを展開

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

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日記

最近、戦争について考える時間が増えた、というより、戦争について考えずにいることのほうが難しくなってきた。ロシアの侵攻が続き、アメリカもまた軍事力を背景に国際秩序へ直接介入する。世界はたしかに「平時」の顔をしている。電車は走り、コンビニは開き、SNSには軽口が流れ、書店には新刊が積まれている。しかし、その表面のなめらかさとは裏腹に、地中ではずっと地鳴りがしている。ニュースのたびに、どこかで小競り合いが起き、それがより大きな衝突へつながる可能性が語られる。しかも今は、ただの地域紛争では終わらない。核を持つ国どうしの神経戦が、偶発的な誤算や誤読によって一気に破局へ接続しかねない時代である。こういう時代に読書日記を書くとはどういうことか。そのことを、今日は考えてみたい。

発端は単純な問いであった。OpenAIはどこの国の企業なのか、と聞いた。答えはアメリカである。サンフランシスコを拠点とするアメリカ企業である。だが、その確認のあとで、話はすぐに別の方向へ向かった。第二次世界大戦後、国連という組織をつくり、形式的には世界大戦の再発防止を掲げてきた国、その中心にいたアメリカが、いまやロシアと並んで戦争をしかけているではないか、という怒りである。この怒りは、感情的な罵倒として片づけるべきものではない。むしろそれは、戦後秩序そのものの自己矛盾に対する、ごくまっとうな違和感である。

第二次世界大戦の惨禍のあと、人類は国際連合をつくった。そこにはもちろん理想があった。侵略戦争を防ぎ、集団安全保障によって平和を守るという理想である。しかしその理想は、最初から純粋な理念として作られたわけではない。国連は、大国を完全に拘束する世界政府ではなく、大国どうしが全面衝突しないための妥協装置として成立した。だから安全保障理事会には常任理事国が置かれ、その五か国には拒否権が与えられた。アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス。この五か国が、国際秩序を守る中核であると同時に、その秩序から最も自由な特権的主体でもある。ここに最初の亀裂がある。秩序を守るための制度の中心に、秩序から逃れうる主体が据えられているのである。

この構造について、「常任理事国は拒否権を持っているから、誰も彼らの戦争を止められない」という意見がある。私は、この意見は半分どころか、かなり大きな部分で正しいと思う。少なくとも、国連安保理という制度の内部においてはそうである。常任理事国が当事者になったとき、その国に不利な強制措置は拒否権で止められる。つまり、制度の心臓部がそこで停止する。国連総会は非難決議を出せる。国際司法裁判所は判断を示せる。各国は制裁を科すこともできる。だが、それらはいずれも、即座に大国の軍事行動を止める「上からの強制力」ではない。違法性を指摘することはできても、戦車を引き返させることはできない。ミサイルの発射ボタンを、国連の誰かが奪えるわけではない。だから「誰も止められない」という感覚には、誇張ではなく制度的現実が宿っている。

私は途中で、「それでも完全な無制約ではない」と言おうとした。制裁がある、外交的孤立がある、経済的コストがある、同盟国との関係がある、世論がある、抑止がある、と。これ自体は誤りではない。たしかに大国といえども好き放題できるわけではない。だが、ここで見失ってはならないのは、その歯止めの性質である。それは「法の支配」ではない。たいていの場合、それは報復の恐怖であり、コスト計算であり、互いに互いを壊せるという事実の前での自己抑制にすぎない。平和があるのではない。破局しない程度に脅し合いが均衡しているだけなのである。その均衡が保たれているあいだだけ、私たちは平和のようなものを経験している。だが、それは薄氷の上の平穏である。氷が厚いから渡れるのではない。まだ割れていないから渡っていられるだけなのである。

ここで、私はさらに激しい言葉を口にしたくなった。「常任理事国が非常任理事国をリンチしているように見える」と。実際、そのような感覚はよく分かる。非常任理事国は投票権を持っているように見えるが、最終局面で常任理事国の一国が拒否すれば止まる。数のうえでは多数でも、力のうえでは従属的である。平等な主権国家が集まる国際組織でありながら、実態としてはきわめて非対称である。その意味で、上下関係、あるいは制度化された身分差と呼ぶべきものが確かにある。ただ、「リンチ」という言葉が指す無秩序な私刑と、国連安保理で起きていることは少し違う。むしろ厄介なのは、これが無秩序な暴力ではなく、秩序の顔をした不平等だということである。暴力が露骨なら人は驚く。しかし制度に埋め込まれた特権は、正当性の衣をまとって長く生き延びる。そこに私は、現代世界のもっとも不気味な部分を見る。

では、世界は無秩序なのか。私はいま、その問いに対して、かなり率直に「そうである」と答えたい。もちろん、街に警官がいないとか、条約が存在しないとか、そういう意味ではない。国際法もある。国際機関もある。外交儀礼もある。だから表面だけ見れば、世界は秩序に包まれているように見える。しかし、本当に重要な局面、大国の生存や威信や勢力圏がかかった局面では、その秩序はたちまち底が抜ける。そこで露わになるのは、法の体系ではなく、力の配列である。国連はこの現実を克服していない。それどころか、しばしばそれを制度的に反映している。だからいまの国際秩序は、秩序というより「管理された無秩序」と呼ぶほうが近いのかもしれない。あるいは、「破局を先送りにしているだけの均衡」である。

このことは、核戦争の問題になるとさらに深刻になる。昔から核抑止論は、「互いに壊滅できるからこそ全面戦争は起きにくい」と説明してきた。しかしこれは、安心を意味しない。むしろ逆である。全面戦争が避けられるのは、人類が賢いからではなく、うかつに手を出せば全員が終わると知っているからである。その意味で核抑止は、理性の勝利ではなく、恐怖の均衡である。そして恐怖の均衡は、恐怖が十分に共有されているあいだだけ機能する。だが、政治指導者の判断ミス、軍事現場での誤認、サイバー攻撃、レーダーの誤作動、同盟国どうしの連鎖反応、国内政治の焦り、そういった些細にも見える要素が積み重なれば、その均衡は一瞬で危機へ転じうる。小競り合いが核戦争を誘発するリスクは日に日に高まっている、という感覚は、決して大げさな終末論ではない。むしろ、現代において最も現実的な悲観のひとつである。

このような時代に、読書日記を書く意味はどこにあるのか。ここで、私は一度立ち止まる必要がある。戦争が迫っているのに本を読むとは、現実逃避ではないのか。ミサイルが飛ぶかもしれない時代に、文学や哲学や思想について文章を書くことは、贅沢な逸脱ではないのか。こうした自己疑念は、いま非常に強い。しかし私は、ここで逆に考えたい。戦争が迫っている時代だからこそ、読書日記が必要なのではないか、と。

読書はただの娯楽ではない。少なくとも私にとって読書は、世界の表面をなぞるための技術ではなく、表面の下にある構造を見抜くための訓練である。ニュースは事実を運ぶが、事実がどのような構造のなかで起きているかまでは、必ずしも教えてくれない。国連の無力を見て怒ることはできる。しかし、その怒りを一段深くして、なぜこういう制度が成立したのか、なぜそれが今も続いているのか、なぜ人類は秩序を欲しながら特権を手放さなかったのか、そうした問いへ進むには、読書と思索が要る。読書日記とは、出来事の記録ではなく、出来事の背後にある論理との格闘の記録である。だからこそ、戦争の時代に読書日記を書くことは、現実から逃げることではない。むしろ、現実が発する轟音にのみこまれないために、概念と言葉で足場をつくる作業である。

ここで私が恐れるのは、単に戦争そのものではない。戦争の脅威にさらされたとき、人はしばしば思考を縮める。強い言葉に吸い寄せられ、単純な善悪に飛びつき、複雑な構造を見ることをやめる。「あいつが悪い」「こっちが正しい」「力で抑えろ」「もっと現実を見ろ」。もちろん、現実を見ることは重要である。だが、「現実を見ろ」という言葉が、しばしば思考停止の命令として使われることも事実である。現実とは、ただ力関係を認めることではない。むしろ、なぜその力関係が正当化され、維持され、再生産されているのかを問うことまで含めて、はじめて現実を見ることになる。読書日記は、そこから降りないための形式である。

私はこれまで、形式と内容のズレ、制度と倫理の隙間、公共性と誤配可能性といった問題に強くひかれてきた。国連の問題も、実はその延長線上にある。形式としては「全人類の平和機構」でありながら、内容としては「大国間の妥協装置」にとどまる。表看板としては「平等な主権国家の協調」でありながら、実態としては拒否権を持つ特権国の秩序維持である。このズレは、単なる欠陥ではない。むしろ近代以降の制度が抱え込み続けてきた宿痾である。理念は普遍を語るが、運用は例外と特権に支えられる。国連はその典型にすぎない。そして私が読書日記で考えたいのは、まさにこの典型がなぜ何度でも現れるのか、ということである。

考えてみれば、戦争はいつも武器だけで起きるのではない。言葉の劣化、概念の粗雑化、他者の単純化、制度に対する諦め、そうしたものが静かに蓄積した先に戦争はある。戦争の準備は軍需工場だけで進むのではない。日常の語彙のなかでも進む。大国の特権を「仕方ない」とだけ言い、無力感を「現実的」と呼び、考えることそのものを役に立たないと切り捨てるとき、私たちは知らないうちに戦争に都合のよい精神を育ててしまう。だからこそ、読むことは小さいが無力ではない。読むことは、少なくとも世界を自然化しない。いまある秩序を「そういうものだ」と固定しない。別の見方、別の歴史、別の論理、別の人間像を差し出してくる。読書日記とは、その複数性に自分の言葉で応答する営みである。

もちろん、読書日記に戦車を止める力はない。外交交渉を代行することもできない。核のボタンを遠ざけることもできない。その意味では、読書は無力である。だが、無力だから不要なのではない。むしろ、強制力を持たない言葉の実践だからこそ、権力の言葉とは別の回路を守れるのではないか。戦争の時代には、たいていのものが動員される。経済も、メディアも、教育も、感情も動員される。そのなかで「ただちに役に立つわけではないが、世界の見え方を変える営み」を持ちこたえることは、思っている以上に重要である。読書日記はその小さな防空壕のようなものかもしれない。そこに逃げこめば世界が消えるわけではない。しかし、世界を別様に考えるための最低限の酸素は確保できる。

今日の対話で私が最も強く感じたのは、怒りと絶望の正しさである。ロシアを誰が止められるのか。アメリカを誰が止められるのか。現実を見れば、上から止める主体はいない。この認識は、冷笑ではなく、むしろ出発点である。問題は、その認識から何をするかである。無力感に沈むのか、強者に同一化して「仕方ない」と言うのか、それとも、その不均衡を支える歴史と制度を言葉で掘り返し続けるのか。私は後者を選びたい。読書日記を書くとは、世界がすでに決まったものではないと、ぎりぎりまで抵抗することだからである。

戦争が迫っているこのご時勢に、私は戦争をテーマに読書日記を書く。だがそれは、戦況解説を書くという意味ではない。戦争の時代に何が壊れ、何が露わになり、何がごまかせなくなるのかを考えるために書くのである。国連の無力は、その一例にすぎない。平和という形式の下に隠れていた力の差が、いまむき出しになっている。その現実を見たとき、なお読むこと、なお考えること、なお書くことにどんな意味があるのか。私はその問いから逃げたくない。平和な時代の読書は教養の装飾になりうる。しかし、戦争が迫る時代の読書は、世界をどう見るかという生存の作法になるのではないか。では、その作法を手放したあとに残るのは、ただ強い者の論理にうなずくことだけなのだろうか。

 

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