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読書日記2105

 

つづきを展開

 

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日記

スタンダール『赤と黒』を電車で二十ページほど読み直した。たった二十ページ、と言ってしまえばそれまでであるが、その二十ページが妙に長く、濃く、そして現代の生活感覚からすると重たく感じられた。面白くないわけではない。むしろ逆である。細部は鋭く、人間観察は冷酷で、文章の呼吸には独特の推進力がある。それでもなお、「忙しい現代ではとても読めたものではない」という感想が先に立った。ここで私は少し立ち止まったのである。本当に現代社会が忙しいのか。それとも、自分が忙しさという形式のなかに、自分を押し込めているだけなのか。

この問いは、単なる読書の感想ではない。『赤と黒』を読みながら感じた読みづらさは、文学そのものの問題というより、読む側の時間の質の問題である。文学は、基本的にゆっくりしている。もちろん事件は起こる。恋愛も陰謀も野心も嫉妬も起こる。しかし、その起こり方が現代の情報の流れ方とはまったく違う。文学においては、感情がじわじわと沈殿し、視線が一つのしぐさに留まり、人物の内面が逡巡し、同じ場面の意味が何度も反芻される。すぐに結論へ行かない。効率よく要点を提示しない。先に「で、何が言いたいのか」を渡してもくれない。読者は、その遅さに付き合わなければならないのである。

しかし、現代の私たちは、その「付き合う」ということが苦手になっている。いや、苦手というより、許されなくなっているのかもしれない。電車のなかで本を開いていても、頭の片隅では次の仕事、返信していない連絡、明日の段取り、今日中にやるべき雑務、そうしたものが次々に顔を出す。読んでいるつもりでも、意識はしばしば別の場所へ引っ張られていく。ページは進まない。進まないことに焦る。焦るから、ますます読めない。すると今度は、「こんな本を読んでいる場合ではない」という気分が湧いてくる。ここで文学は敗北する。いや、文学が敗北しているのではない。文学に触れる自分の時間が、すでに敗北を前提に組み立てられているのである。

ここで私は、「現代社会が忙しい」という言い方に少し留保をつけたくなる。たしかに現代社会は忙しい。仕事は多い。連絡は速い。締切は短い。評価は可視化され、反応は即時に返ってくる。しかし、問題は単なる物理的な忙しさではない。もっと厄介なのは、忙しさが一つの倫理になっていることである。忙しい者は真面目であり、素早く処理する者は有能であり、立ち止まらない者は前向きである、という空気がある。逆に、時間をかける者、考え込む者、寄り道する者、すぐに答えを出さない者は、どこか遅れているように見なされる。この価値観のなかで文学を読むとは、単に本を開くことではない。忙しさの倫理に対して、別の時間を持ち込むことである。だからこそ苦しいのである。

『赤と黒』を読むという行為は、そのまま「速さへの服従」をいったん停止することである。ジュリヤン・ソレルの野心や虚栄や計算を読むことは、彼の人物像を追うだけではない。彼の身振りに貼りついた社会的欲望の粘つきを、一歩ずつ見ていくことである。そこには現代のようなタスク処理の明快さはない。もっと曖昧で、もっと迂回的で、もっと嫌らしい。だが、人間は本来この嫌らしさのなかに生きているのである。社会的上昇欲、承認への飢え、見栄、恐れ、自己演出。そうしたものが複雑に絡まり合って一人の人間ができている。文学は、それを切り分けて説明するのではなく、その絡まりのまま読ませる。だから遅い。しかし、その遅さは人間の速度なのである。

それに比べて、日々のビジネスはまさに「忙しい」の語源通りであるように思える。心を亡くす、と書くあの忙しさは、単に作業量が多いことではない。心をどこかへ預けたまま、手続きだけが前進していく感覚である。目の前に降ってくるのは、ただただ単純なタスク、定期的な固定タスクである。今日も処理し、明日も処理し、来週も似たものが降ってくる。これは非常に重要な仕事である場合もあるし、誰かの役に立っている実感を伴う場合もある。だが、その多くは「流れていく」のである。ここで思い浮かぶのは、雨の比喩である。タスクは雨のように降ってくる。降ってくるあいだは確かにこちらを濡らし、視界を悪くし、動きを鈍らせる。しかし一日経つと、地面は乾く。あれほど降っていたのに、何もなかったかのような顔をして翌日が始まる。昨日のあの対応、あの確認、あの修正、あの連絡、あの調整は、たしかに存在したはずなのに、その痕跡はほとんど残らない。まるで蒸発してしまったかのようである。

この感じは、肉体的疲労よりもむしろ存在論的な疲労に近い。つまり、私は何をしているのか、という問いに、仕事の一つ一つが答えてくれないのである。役には立っている。必要でもある。収入にもつながる。信頼関係も築かれる。ここは大事である。ビジネスを単純に侮蔑したいわけではない。仕事には仕事の現実性がある。金銭に還元されるというのは、単なる俗っぽさではなく、生活を支える具体性である。信頼関係が築かれるというのも、抽象論ではなく、社会のなかで人が生きるための土台である。だから、仕事は空虚だと言い切ることはできない。むしろ多くの場合、文学より先に仕事が生活を支えている。読書は収入を保証しないが、仕事は少なくとも月末に数字として返ってくる。ここに仕事の強さがある。

だが、それでもなお、その果てには何があるのか、という気分は残る。この問いは贅沢ではないと思う。仕事が必要であることと、その必要性だけで人が満足できることとは別だからである。人は、必要なことだけをして生きていると、どこかで自分が道具に変わっていく感覚を持つ。処理能力、対応力、調整力、再現性、正確性。もちろんそれらは大切である。しかし、それらばかりが日々の自分を定義し始めると、自分の内部にある、まだ言葉にならないもの、役に立つかどうか分からないもの、ただ引っかかっているだけの疑問、そうしたものが徐々に押し潰されていく。文学は、たいていそういう「役に立たないが、消してはならないもの」の側にある。だから忙しい日々のなかでは、文学はしばしば邪魔に見える。だが実際には、邪魔なのは文学ではなく、こちらが自分の内部の余白を失っているという事実である。

『赤と黒』を「忙しい現代では読めたものではない」と感じた瞬間、私は少しだけ、自分がどの時間に忠誠を誓っているのかを見せられた気がした。速く終わるもの、短くまとまるもの、成果が見えるもの、次に接続しやすいもの。そうしたものにばかり馴染んでいると、小説の一文一文の粘りが耐え難くなる。だが、その耐え難さこそが、こちらの感覚がだいぶ均質化されている証拠でもある。文学は、読む者の能力を試すというより、読む者の時間の癖を暴く。こちらは自由に本を選んでいるつもりで、実は自分の時間の体制にかなり深く支配されているのである。

ここで「自分がせかされているだけなのか」という問いは、かなり本質的である。誰かが露骨に急かしているわけではない場合も多い。明確な命令がなくても、常に早く、常に多く、常に途切れず、という空気が内面化されている。これが厄介なのである。現代の忙しさは、外部からの強制だけではなく、自己管理のかたちで自分の内側に住み着く。もっと効率よく読め、もっと有意義に休め、もっと計画的に学べ、もっと成果につなげよ。読書にまでこの声が入り込んでくると、本はもはや本でなくなる。自己投資の素材か、知識の補給か、発信のネタか、そのようなものとして扱われ始める。もちろん読書にはそうした側面もある。だがそれだけでは、文学を読むとは言えない。文学を読むとは、しばしば「何の得にもならない時間」に身を置くことである。あるいは、すぐには得にならないが、あとから自分のものの見方そのものを変えていたと気づくような時間に耐えることである。

仕事の時間と文学の時間は、ここで正面からぶつかる。仕事の時間は、基本的に外に向かっている。相手、期限、成果、確認、合意、報告。つねに外部との接続がある。これに対して文学の時間は、いったん内へ沈む時間である。だがそれは内向きな趣味という意味ではない。むしろ、外の世界を別の角度から見直すために、いったん直接的な有用性の回路を外す時間なのである。だから文学は、現代の労働感覚から見ると回り道に見える。しかし、その回り道なしに人が人でいられるのか、という問いも同時に浮かぶ。何かを考える、何かに引っかかる、意味のないような一文に妙に足を止める。そうしたことがまったくなくなったとき、私たちはたしかに生き延びてはいても、何か別の仕方で乾いてしまうのではないか。

雨のように降ってきて、翌日には乾いているタスク。それはたしかに現代の仕事の一つの真実である。しかし、文学の一文は逆である。読んだその日は何も起こらないかもしれない。むしろ意味不明なまま過ぎることすらある。だが数日後、数年後、ふとしたときにその一文だけが残っていることがある。仕事は昨日の成果が見えにくく、文学は今日の成果が見えにくい。けれども、見えにくさの質が違うのである。仕事は流通のなかで消えやすく、文学は沈殿として残りやすい。この違いを思うとき、私はやはり、忙しいから文学が読めないのではなく、消えていくものばかりに時間を使う生活のなかで、残るものに向き合う筋力が落ちているのだと感じる。

それでも、明日も戦わねばならない。ここに厄介な現実がある。読書の価値をいくら語っても、明日の仕事が消えるわけではない。GASの勉強もしなければならない。学ばなければ置いていかれる。業務を改善し、汎用化し、少しでも雨の降り方を変える努力も必要である。これは逃げではなく、むしろ誠実な対応である。現代を生きる以上、仕事の言語をまったく拒否することはできない。自動化も、効率化も、技術習得も、疲弊を減らすためには必要である。問題は、それらに人生の意味の全権を委ねないことである。GASを学ぶことはよい。しかし、GASの勉強だけで一日が閉じてしまうと、自分が何のために業務を軽くしたいのかが分からなくなる。タスクを減らした先に、さらに別のタスクを詰め込むだけでは、乾く速度が上がるだけである。

だから今夜、『赤と黒』の二十ページは少なかったのではない。むしろ十分にこちらを刺してきたのである。読めない、進まない、長い、遅い、そう感じたこと自体が、今日の生活の輪郭をはっきりさせた。文学は時間の流れがゆったりしている。だがそのゆったりは、古臭さではなく、人間の厚みに対応した速度なのだと思う。ビジネスは忙しい。だがその忙しさは、単に生産的な活力ではなく、しばしば存在の表面だけを絶えず濡らしていく雨でもある。その雨に打たれ続けていると、自分が濡れていることすら忘れる。文学は、その濡れを自覚させる。乾いた地面のふりをして生きている自分に、まだ水気が残っていることを知らせる。だからこそ、疲れている夜に読む文学はしんどいのである。そして同時に、しんどい夜にしか触れられない真実もあるのである。

お金になって還元されること、信頼関係が築けること、それらは軽んじてはならない。しかしその先に何があるのか、と問うこともまた軽んじてはならない。その問いを持てなくなったとき、仕事はただの降雨管理になり、人生はただの排水設備になる。私は排水の技術を身につけねばならない。明日のためにGASも勉強しなければならない。だが同時に、排水しきれずにどこかに溜まっているもの、流しきってはいけないものを見ていたい。それが読書なのではないか。『赤と黒』の遅さに苛立ちながら、その苛立ちごと抱えてページをめくることは、役に立たない贅沢ではなく、忙しさの形式に自分を完全には明け渡さないための、小さな抵抗なのではないか。

 

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