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読書日記2104

 

つづきを展開

 

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日記

今日は仕事のための本ばかり読んでいた。制度、運用、実務、改善、効率化。そうした本を手に取っていると、自分がいま明らかに「仕事用の勉強モード」に入っていることがよくわかる。読むことそれ自体が、世界を広げるためというより、目の前の職務に耐えるため、いや、耐えるだけでなく少しでも先回りするための準備になっている。そういう読書の日はあるし、むしろ社会人の読書のかなりの部分は本来そういうものなのだろうと思う。だが今日は、そうした実務の本を閉じてから本屋をうろうろしているあいだに、別のことを強く考えていた。仕事の中身そのものよりも、これから仕事というものを取り巻く地盤がどう変わっていくのか、その輪郭のほうである。要するに、AIのことである。

AIの動向が気になって仕方ない。これは好奇心の問題でもあるが、もはやそれだけではない。どこかで「どうせ情報システム部のほうが仕切る話なのだから、自分がそこまで勉強しなくてもよい」と思ってしまいたい気持ちがある。現場の人間が無理に技術トレンドを追わなくても、専門部署が決めてくれるだろう、ベンダーが導入してくれるだろう、自分は利用者として従えばよいだろう、と。しかし、その考えはどこかで通用しなくなっている。AIや自動化は、もはや「システムの人の話」ではなく、各部署の実務の組み立て方そのものに食い込んでくるからである。何を定型化し、何を例外として扱い、何を人間の判断として残し、何を支援対象にするのか。そこには業務理解と倫理判断と現場感覚が要る。つまり、実装の最終責任は情報システム部にあるとしても、実装の意味を決める責任までは丸投げできないのである。

私は本屋の棚を見ながら、そのことを妙に切実に考えていた。AI本の棚には、未来を煽るもの、仕事が消えると警告するもの、プロンプトのコツを説くもの、企業導入の成功事例を並べるものがぎっしり並んでいる。少し前までDXという語が過熱していた棚に、いまはAIが雪崩れ込んでいる。流行語が変わっただけだと笑うこともできる。しかし、今回は単なる流行とも言い切れない。チャットボットが一過性のブームではなく、LLMという言語モデルの飛躍の上に立っている以上、これはたしかに仕事の風景を変える現実的な力である。人間がこれまで「言語を扱う」という理由で自分の専売特許だと思っていた領域に、機械が本格的に侵入してきた。その事実はやはり重い。文章を書く、要約する、説明する、たたき台を作る、問い合わせに答える、文書を整える。言語が絡む以上、それはもうAIの射程に入っている。だから怖いのである。怖いというより、落ち着かないのである。自分の仕事のどの部分が残り、どの部分が補助され、どの部分が置き換えられ、どの部分がむしろ濃く人間に返ってくるのか、その境界線がまだ揺れているからである。

だが、そこで全部を技術の話に回収してしまうと、私はどこかで窒息する気がした。AIを学ぶことは必要である。しかし、AIだけを見ていると、仕事の核心が「何をどれだけ速く処理できるか」という一点に縮んでしまう。もちろん生産性は大事である。日本の生産性を考えるうえで、自動化やAI実装が重要なウェイトを占めることも疑いない。人手不足、属人化、非効率な事務、無数の確認作業、形式だけ残っている手続き。こうしたものを改善するには、テクノロジーの力を避けて通れない。だが、それでもなお、仕事を成り立たせる最後の部分まで「効率」で説明できるわけではない。その説明しきれない残りの部分こそ、むしろこれから重要になるのではないか。本屋を歩きながら私はそんなことを考え、そこであえてAIの棚から少し身を引いて、タレブの『身銭を切れ』を読んだのである。

この選択は、自分でも少しおもしろかった。世界がAIだ自動化だと騒いでいるときに、私は「身銭を切れ」を読んでいる。いかにも遠回りである。しかし、この遠回りは私にとってたんなる脱線ではなかった。むしろ、AIをどう受け止めるかという問題を、別の根っこのほうから考え直すために必要な寄り道だった。タレブが繰り返し言うのは、リスクを他人に押し付けるな、言うだけの者になるな、結果に巻き込まれる位置に自分を置け、ということである。責任を負わずに理念だけを語る者、痛みを引き受けずに制度だけをいじる者、失敗のコストを外部化しながら成功だけを自分の手柄にする者。そうした人間に対する根本的な不信が、あの本には通底している。そしてこの不信は、現代の組織にそのまま刺さる。

というのも、組織ではしばしば「うまく見せる力」が「本当に支える力」より高く評価されるからである。会議で流暢に話せること、資料がきれいであること、前向きな雰囲気を演出できること、リーダーシップらしきものをまとって見せること。これらはもちろん無意味ではない。しかし、それだけでは脆い。なぜ脆いかといえば、現実の反撃を受ける場所に立っていないからである。うまく話せる人が必ずしも現場の痛みを知っているわけではなく、プレゼン能力の高い人が必ずしも制度の穴を見ているわけではなく、自信に満ちた態度の人が必ずしも失敗の後始末を引き受けるわけでもない。むしろそうした「見えのよさ」は、しばしば責任からの距離によって支えられている。ここでタレブの「身銭を切れ」が効いてくる。自分の言うことの帰結を自分で引き受ける位置にいるか。そこにいない者の言葉は、どれほど洗練されていても、どこか空疎である。

私はこのことを、AI導入の議論にもそのまま当てはめて考えていた。AIを入れれば業務が効率化する。自動化すれば人的コストが下がる。チャットボットで問い合わせ対応が軽くなる。議事録が自動作成される。書類の下書きがすぐに出る。たしかにその通りである。しかし、そのとき誰が誤答の責任を負うのか。誰が例外ケースの不利益を引き受けるのか。誰が「効率化された結果として見えなくなる人」を見つけるのか。ここを曖昧にしたままAIだけを前進させると、それは技術導入ではなく、責任の分散と不可視化になる。つまり、見かけの生産性と引き換えに、組織の倫理的筋力を弱らせる危険がある。だからこそ、AIの時代にはかえって倫理が重要になる。しかも、ポスターに書かれる綺麗事としての倫理ではなく、現実に痛みの配分を変える倫理である。

「倫理は法律よりも反脆い」という感触は、このあたりから来ているのだと思う。法律は、形式として定められ、適用され、整備される。もちろんそれは必要である。だが法律は、たいてい事後的である。何かが起き、問題が顕在化し、社会的な合意や圧力が生まれ、その後にようやく整えられる。法律は遅い。正確には、遅くならざるをえない。形式化とはそういうことである。いっぽう倫理は、まだ形式になっていない違和感の段階で先に働くことがある。このままではまずい、これはたとえ合法でも卑怯ではないか、手続き上問題なくても人間的には破綻していないか。そうした感覚は、しばしば法律より早く到来する。だから倫理のほうが反脆い、という言い方は案外正しいのではないかと思う。現実の傷に先に触れるのは、しばしば法条文ではなく良心だからである。そして法律は、最終的にその倫理的違和感に追いつくかたちで改正され、運用され、整えられていく。

ここで大事なのは、倫理を感情論にしないことである。倫理というと、すぐに「いい人であれ」という話に矮小化される。しかし私がここで感じているのは、もっと構造的な意味での倫理である。つまり、誰がリスクを背負い、誰が利益を得て、誰が沈黙させられ、誰が例外として切り捨てられるかを見抜く力である。これは仕事において非常に実務的な能力でもある。なぜなら、制度も運用も最終的にはそうした配分の仕方に現れるからである。単なる善人ぶりではなく、利害と責任の配置を見抜く眼差し。それがなければ、どれほど新しい技術を導入しても、どれほど美しい資料を作っても、仕事はどこかで腐る。逆に言えば、大局的に物事を見られるというのは、単に視野が広いということではなく、見えにくいコストの行方を追えるということである。

本屋をうろうろしながら、私はそういう意味での「仕事のできる人」を考えていた。世の中ではしばしば、話がうまい人、決断が速い人、自信に満ちた人、押しの強い人が有能に見える。しかし、本当に根本的なところで組織を支える人は、もっと別の力を持っているのではないか。たとえば、制度の穴がどこで現場にしわ寄せを生むかを予感できる人。いまは小さく見える違和感が、後で大きな事故になると察知できる人。効率化の名のもとに零れ落ちるものを想像できる人。短期的な成果に酔わず、長い目で見て何が組織を壊し何が支えるかを見極める人。こうした人は、しばしば派手ではない。むしろ目立たないことすらある。しかし、タレブ的な意味で言えば、そういう人こそが反脆さを持っている。揺らぎの中で浮かれず、危機の中でパニックにならず、現実の痛みに接続したまま考えることができるからである。

もちろん、ここで私は自分を理想化したいわけではない。実際には、私もまた小手先のテクニックに惹かれるし、表面的な自信に救われたくなるし、プレゼン能力が欲しいと思う。AIの新しい情報を追うときも、どこかで「置いていかれたくない」という焦りが先に立っている。だが、今日本屋で感じたのは、その焦りに全面的に従ってはいけないということでもあった。AIの速度にただ適応しようとするだけでは、自分の仕事観まで速度に支配されてしまう。大事なのは、速さに追いつくことではなく、速さの中で何を変えずに持つかである。技術が変わるたびに、人間の側の判断軸まで全部入れ替えてしまってはならない。むしろ、技術が激しく変わる時代ほど、何を基準に是非を判断するかという倫理的な芯が要る。その芯がないと、AIは便利な道具ではなく、判断停止の口実になってしまう。

だから私は、仕事において根本的に求められているものは、小手先のテクニックや表面的な自信や虚勢だけではないと思った。プレゼン能力だけでもない。もちろんそれらは道具としては要る。だがそれだけでは足りない。もっと大きく、もっと遅く、もっと深いところで、物事の帰結を考えられること。目先の成果ではなく、制度と現場のあいだに何が堆積していくかを見ること。自分が語ることのリスクを自分の側にも戻すこと。他人に押し付けられたコストを見抜くこと。つまり、タレブ的な倫理観を持った反脆さである。これがない仕事の上手さは、たいてい長持ちしない。逆に、これがある人は不器用に見えても、長く信用されるのではないか。

本屋という場所は不思議である。実務書の棚を見れば、すぐ役立つ知識があふれている。AI本の棚を見れば、未来への圧が迫ってくる。思想書の棚に行けば、急に時間の流れが変わる。そして、その全部のあいだをうろうろしていると、自分が何に急かされ、何に救われ、何をまだ言語化できていないかが少しずつ見えてくる。今日の私は、仕事の勉強をしながら、仕事を支えるもっと深い地盤について考えていたのだと思う。AIを知らねばならない。しかし、AIだけを知っても足りない。法律を知ることも必要である。しかし、法律だけでも足りない。最後にものをいうのは、現実に巻き込まれながらも判断を手放さない人間の側の倫理ではないか。そしてその倫理は、たんに清潔な理念ではなく、リスクと責任の配分に自覚的であるという意味で、たしかに反脆いのではないか。技術が更新され、制度が改正され、仕事の形式が変わり続ける時代において、私たちはいったい何を自分の「身銭」として差し出しながら働くべきなのだろうか。

 



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