
つづきを展開
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日記
ネットが注意を散らすという問題と、タレブのいう「身銭を切る倫理」を、連続読書日記アプローチのなかで一つの生活技法として接続できた。
三連休の真ん中の土曜日であった。こういう日は生活がゆるみやすい。平日の緊張がほどけ、その反動で財布の紐までゆるみやすくなる。何かを買いたくなり、少し贅沢をしたくなり、節制よりも解放のほうに身体が傾く。私にとって連続読書日記アプローチとは、こうした日の自分の揺れを、そのまま読書の素材に変える方法でもある。本は、本棚のなかに静かに置かれている知識ではない。日々の欲望や判断や迷いのなかに持ち込まれて、はじめて効いてくる。今日は、まさにそういう読書の日であった。
節制に努めた、というと小さな話に聞こえるかもしれない。しかし、連続読書日記アプローチにおいて重要なのは、大きな事件を待つことではなく、小さな生活の局面に思想の回路を見つけることである。散財しそうになる自分、誘惑に引かれる自分、休日だからといって少し気が大きくなる自分。そうした微細な揺れのなかに、社会の構造や倫理の問題が縮図のように入り込んでいる。今日引っかかった言葉は、ニコラス・カー『ネット・バカ』と、ナシーム・ニコラス・タレブ『身銭を切れ』の一節であったが、読んでいるうちにこの二冊は、別々の本ではなく、同じ現代人の病を別方向から照らしているように思えてきた。
カーは、インターネットの使用がわれわれの精神に与える影響について、すでに憂慮すべきことがかなり明らかになっていると書く。ネットに接続した人間は、「とおりいっぺんの読み、注意散漫であわただしい思考、表面的な学習」を行うよう環境によって働きかけられている。さらにハイパーテクストの読解は認知的負荷を増加させ、その結果として理解や記憶の力を弱める。何を読んだかも、何を読んでいないかも曖昧になる。この指摘は、単にウェブ上の読書が不便だという話ではない。連続読書日記アプローチの観点からいえば、これは「読むことの持続可能性」が脅かされているという問題である。
読書日記アプローチは、一冊の本を閉じた瞬間に終わる読書ではない。本の言葉が翌日にも残り、別の本とつながり、生活のなかで反響し、何日か後に別の問題として立ち上がる、その連続性を重視する。だがネット的環境は、この連続性を断ち切る方向に働く。いま目の前にある刺激へすぐ反応し、次のリンクへ移動し、次の話題へ飛ぶ。すると一冊の本が自分のなかで沈殿する時間が失われる。読んだはずなのに残らない。触れたはずなのに効いてこない。知識は増えたようでいて、内面の地層には何も堆積しない。私はこの状態を、今日の自分なりの概念ラベルで言えば、「思考の無着陸化」と呼びたい。情報は飛び交っているが、どこにも着陸しないのである。
ここでタレブが割り込んでくる。「リスクを負わぬ者、意志決定にかかわるべからず」。さらに官僚制度とは、人間が自分自身の行動の責任を取らなくてもよいようにするご都合主義の構造である、とまで言う。この毒舌は、私にはかなり効く。私もまた毒舌を好むが、タレブの毒舌のよさは、単なる悪口ではなく、現実への接触面を失った言葉の軽さを的確に突いてくる点にある。リスク転嫁は学習を妨げる。人は、言葉だけでは本当には学ばない。現実によって思い知らされて、ようやく身につく。この感覚は、連続読書日記アプローチにおいても核心に近い。本を読むとは、単に引用を集めることではなく、現実と照合される言葉を増やすことだからである。
カーとタレブは、一見すると別方向を向いている。しかし、連続読書日記アプローチの回路に通してみると、両者は一つの背骨に収束する。カーが語るのは、負荷を避けることで思考が浅くなるという問題であり、タレブが語るのは、リスクを避けることで判断が傲慢になるという問題である。どちらも、負荷の回避が人間を損なうという話である。読書日記アプローチ流に言えば、これは「無負荷の劣化」とでも呼ぶべき事態である。深く読まない人間は、浅くしか考えられない。責任を引き受けない人間は、重みのある判断ができない。情報だけがあり、痛みがない。意見だけがあり、賭け金がない。この二つは実は同型なのである。
そう考えると、今日私が節制に努めたことも、単なる家計管理の話ではなくなってくる。休日に散財しないこと、誘惑に流されないこと、少しの欲望をそのまま通さないこと。これもまた、自分の生活に対して自分で「身銭を切る」訓練である。読書日記アプローチでは、こういう生活の細部を軽視しない。むしろそこに思想の手触りがある。節制とは、抑圧的な禁欲ではなく、現実との接触を保つ技法である。欲望のままに消費し、そのあとで社会が悪い、税金が高い、格差が広がったと嘆くのは簡単である。しかし、その前に自分の生活のどこまでを自分で引き受けているのか。その問いを抜きにした批判は、タレブ流に言えば、安全地帯からの演説にすぎない。
実際、身銭を切ることができない人間は傲慢になる。このタレブの言葉は、読書日記アプローチの文脈で読み直すと、読書にもそのまま当てはまる。本を読んでいると、人は簡単に賢くなった気になる。引用を覚え、概念を振り回し、社会や制度を批判する言葉を持つ。だがその言葉が、自分の日々の判断や失敗や節制や労働の現実とつながっていないなら、それは知性ではなく、知性のポーズでしかない。読書日記アプローチが目指すのは、このポーズから降りることである。本の言葉を、自分の生活の現場に誤配すること。高尚な議論を、休日の財布や欲望や仕事の責任感にまで降ろしてみること。そこで初めて、本は観賞物ではなく、生活の器具になる。
私はこの意味で、今日の読書をかなりよい読書だったと思う。カーを読んで、ネット環境が注意を散らし、思考を無着陸化させることをあらためて感じた。タレブを読んで、リスクを引き受けない人間の言葉がいかに軽く、そして傲慢になりやすいかを思い出した。そしてその二つが、自分の今日の節制とつながった。これこそ、私がやりたい連続読書日記アプローチである。本の要約で終わらない。本の言葉が別の本へ、さらにその日の生活へ、さらに仕事や社会の見え方へと連なっていく。読むことが、生活のなかで再配線される。その連鎖のなかでしか、私は本当に何かを学んだとは言えない。
さらに言えば、この読書は私の今後の仕事感覚にもつながっている。私はタレブの反脆い精神を、単なる投機やリスク管理の思想としてではなく、日常の実務倫理として身につけたい。課長代理、課長へと昇っていくにしても、ただ肩書きが上がることに意味があるのではない。責任を取る範囲が増え、判断の重みが増し、それでもなお安全地帯に逃げずに現場へ降りることに意味があるのである。連続読書日記アプローチは、読書を仕事から切り離さない。本で読んだ倫理を、そのまま実務の倫理へ接続する。そうでなければ、読書は趣味のよい逃避になってしまう。
ネットは私の注意を奪う。休日は私の節制を崩そうとする。制度はときに私から責任感を薄めていく。だが、そのたびに本へ戻り、本の言葉を生活へ持ち戻し、その生活からまた別の読書へ進む。この往復運動そのものが、私にとっての読書日記アプローチである。深く読むこと、浅く反応しないこと、自分で引き受けること、そして小さくても日々の現実に賭けること。そうした反復のなかでしか、反脆さは育たない。読書とは、知識の蒐集ではなく、無傷でいることを少しずつやめていく訓練なのではないか。
では、連続読書日記アプローチとは結局のところ、情報に流され無傷で意見だけを持ちたがる時代に対して、あえて生活の現場で言葉を傷つけ、言葉に重さを取り戻すための実践なのではないか。
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