
つづきを展開
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日記
善についての抽象的な問いが、営業・出版・メリトクラシーへの違和感と、自分の月給や悔しさ、そして就労継続支援への感謝と、係長を奪取したいという実務的な闘志にまで一続きにつながった。
今日は、ムーアの『倫理学原理』から善について何かを引き出したい一心で本を読み、歩き、考えた一日であった。善とは何か。なぜこの問いにこだわるのかといえば、単に倫理学の概念として興味があるからではない。むしろ、仕事をしていても、本を読んでいても、人と比べても、営業という営みを見ても、出版業界のベストセラーの並びを見ても、どうしても「何が善いのか」が曖昧なまま、しかし何かしらの価値判断だけは絶えず下されているように感じるからである。世の中は、善について深く考えなくても動いている。むしろ、考えないままのほうがよく回っているようにさえ見える。成果が出た、売上が立った、役職がついた、年収が上がった、部数が伸びた、登録者数が増えた。そうした可視的な増加が、そのまま価値の証明として流通している。しかし、私はそこにずっと引っかかっていた。売れたから善いのか。稼げたから正しいのか。昇進したから価値があるのか。逆に、売れなければ善くないのか。稼げなければ価値がないのか。問いは素朴であるが、その素朴さのまま放置すると、私はたぶん仕事も読書も生き方も、どこかで誤る気がしていた。
ムーアの文章を読んでいて刺さったのは、善は定義不可能である、というあまりに単純で、しかし現代ではほとんど忘れられているような命題であった。彼は、善を快楽や欲望充足や、あるいは何らかの自然的性質に還元することを自然主義の誤謬と呼ぶ。快いことと善いことは同じではない。役に立つことと善いことも同じではない。社会に適応していることや、多数から支持されていることや、進化に有利であることや、気分がいいこと、便利であること、効率的であること、儲かること、そうした諸々の性質は、善にまつわる重要な事情ではありうるが、そのまま善それ自体ではない。たとえば誰かが、快楽とは赤の感覚を意味し、そこから快楽は色であると導いたならば私たちは笑うだろう、とムーアは書いていた。概念のすり替えがあまりに雑だからである。しかし善については、私たちは驚くほど平然と同じことをしてしまう。快いことを善いと呼び、儲かることを善いと呼び、成功を善いと呼び、役に立つことを善いと呼ぶ。そのとき、善はいつのまにか他の何かに置き換えられている。私はこの議論を読みながら、なるほどと思うより先に、現代社会はこの誤謬の巨大な実践場ではないか、という感想を抱いた。
なぜなら、今の社会はほとんどあらゆる局面で、測定可能なものを価値の中心に置くからである。年収、学歴、肩書、役職、営業成績、フォロワー数、再生回数、資格、資格の難易度、転職市場での値段、そうしたものはすべて、現代における非常に強い言語である。もちろんそれ自体が悪いわけではない。制度は測れなければ運用できないし、企業は数字なしに存続できない。人事も労務も、一定の指標がなければ仕事にならない。しかし、必要であることと、それが人間の価値や善をそのまま言い当てていることは別である。ここが問題なのである。ムーアの言う「善は定義不可能である」という一文は、単に哲学的な厳密さを示すものではない。それは、現代社会があまりに雑に行っている価値の翻訳に対して、「それは本当に同じことなのか」と問い直すための留保に見えた。
今日私は『反メリトクラシー』も読み進めた。そこに「メリトクラシーという概念にはさまざまな利点があるが、明瞭さはそこにはふくまれない」とあった。この一文は、私には非常に重要に響いた。能力主義は、一見するともっとも公正な秩序に見える。血筋や門閥ではなく、努力と能力によって報われる。たしかに、その理念のなかには近代的な解放感がある。だが現実には、能力とは何か、努力とは何か、成果とは何か、本人の責任と環境の責任はどこで分かれるのか、そのどれもが驚くほど曖昧である。曖昧であるにもかかわらず、その曖昧な秩序は人を序列化し、人を傷つけ、人に自責を強いる力だけは持っている。ここが私はずっと苦しかった。制度は明確な顔をしているが、基準は明瞭ではない。にもかかわらず、そこに適応できない者は「努力不足」「能力不足」と見なされやすい。この曖昧な暴力が、今の社会の至るところにある。
私はこの曖昧な序列にかなり傷ついている。そして今日は、そのことを取り繕わずに書いておきたい。自分が偉くなれないことへの悔しさがある。これはきれいごとではなく、本音である。社長になれるわけでもない。巨大な影響力を持つ知識人でもない。ただの一社員であり、しかもまだまだ上を見てしまう位置にいる。私はみじめになりながらも、気合で人の三倍努力するくらいの気持ちで毎日を突き進んでいるつもりである。弱さを認めつつも、手を抜かないことだけは守ろうとしている。しかし、それで即座に報われるわけではない。月給四十万円ももらえていない三十代後半であることは、やはりどこかで悲しい。兄は月収が百万円を超えている。その具体的な比較は、抽象的な思想よりもずっと鋭く自分を刺してくる。私はこの数字に傷ついている。私は序列を内面化している。そのことを隠したまま、社会の価値基準だけを高みから批判するのは、私には少し不誠実に思える。
ただ、今日対話のなかで自分でもはっとしたのは、悔しいことと、その悔しさを規定している価値基準まで正しいと認めることは別だ、という点であった。私は月給や肩書や昇進や比較に傷ついている。だが、そのことは月給や肩書や昇進だけが人間の価値を決める唯一の正しい物差しだということを意味しない。ここを混同すると、自分を傷つけた秤そのものに服従することになる。私は市場に値踏みされている。しかし、市場に値踏みされることと、自分の価値を市場に委ねることは別である。私はこの社会の序列に敗れているのかもしれない。だが、そのことがその序列の正しさを証明するわけではない。もちろん、こう書けば負け犬の遠吠えにも見えるだろう。実際、悔しさに動機づけられている部分はある。だが、遠吠えであることと、真実でないことは同じではない。むしろ、人を傷つけた尺度を問い返す言葉は、たいてい傷ついた側からしか出てこない。勝者の言葉だけで世界を説明してしまうと、その言葉は自分を勝たせたルールの暴力性を見失いがちである。私は自分の見苦しさ込みで考えたいと思った。
この見苦しさは、営業を見ているときにも感じていた。グローバルパートナーズという営業の会社が勢いを増しているという話を聞いてから、私はどうしてもそこに現代の価値秩序の縮図を見るようになった。営業そのものが悪いのではない。良いものを必要な人へ届けることは立派であり、社会的にも重要である。だが、プラトンの『ゴルギアス』を読みすぎたせいか、営業というものがどうしても弁論術に見えてしまう。真理を語る技術というより、人を動かす技術、納得させる技術、時には必要でないものを必要であるかのように見せる技術に見えてしまうのである。善いものを善いと伝えることと、善くないものを善いと錯覚させること、その二つは表面上かなり似た言葉と身振りで行われる。ここに営業の根源的なジレンマがある。しかも、善くないことの証明は難しい。売れたから必要だったとは限らない。契約が成立したから相手のためになったとも限らない。短期的な満足や高揚感は、善の証明にはならない。それでも現場では「まず売ってから言え」という反論が返ってくる。理論を語る前に売上を作れ、実績を出してから発言しろ、と。そこには一理ある。現場を知らない理論は軽くなりやすい。しかし同時に、その言葉は「何を売るのか」「誰に売るのか」「このやり方は相手の自由を損なっていないか」という、売る以前に問われるべき問いを沈黙させる装置にもなる。売上は能力の証明にはなっても、倫理の証明にはならない。だが現代の組織は、しばしば能力の言語で倫理を押し流してしまう。
YouTubeの営業系チャンネルや、成長物語を前面に出す企業発信を見ていると、ときどきそこには新自由主義的な熱狂があるように感じる。自分を資本として運用し、数字を伸ばし、機会を取りに行き、成果を出し、上に上がる。そこにはたしかに活気があるし、閉塞感のある日常に刺激を与える面もある。しかし、その熱気のなかでは「何のために」という問いが驚くほど薄くなる。何を成長と呼ぶのか、誰にとっての成功なのか、どのような仕事のしかたが人を損なわないのか、そうした問いは後景へ退く。倫理は否定されるのではない。むしろ、主要言語から排除される。売上、粗利、進捗、再現性、KPI、PDCA。これらはすべて必要な言葉かもしれないが、それだけでは仕事の善さを言い切れない。にもかかわらず、組織はそれらで回ってしまう。ここに私は、ムーア的な意味での自然主義の誤謬の現代版を見るのである。測れるものが、そのまま善いもののように扱われるのである。
出版業界のことを考えるときも、同じ構造が見える。今日は青土社の『ネットバカ』を読み、そのなかでグーテンベルク以後、出版が盛んになるにつれて悪書が多発した、なぜなら売れるからであり、欲望をそそるからである、というくだりが妙に頭に残った。中世の下品な官能小説がよく売れたと書かれていたが、それを読んで私は、何か遠い歴史の話というより、現代の本屋のベストセラー棚を見ている気分になった。出版とは本来、知や思想や経験を伝える装置であるはずだが、印刷と流通が広がった瞬間から、それは欲望に奉仕する言葉を大量に増殖させる装置にもなった。現代の出版でも、売れるのはしばしばタレントの本や人気評論家の本、自己効力感を刺激する本、即効性や話題性の高い本である。もちろん売れている本がすべて悪いと言いたいのではない。平易な本にも重要なものはあるし、人気評論家の本にも洞察はありうる。しかし、売れるという事実が内容の吟味を代行し始めるとき、本は真理の器というより、欲望を印刷し流通させる媒体になる。帯には肩書が並び、著者紹介には「〇〇教授」「〇〇株式会社代表取締役」「〇〇賞受賞」が並ぶ。読む前から、誰の言葉なら賭けるに値するかが市場で選別されている。ここでもまた、内容より先に発言者の交換価値が前面に出る。これはかなりゴルギアス的である。人を善くする言葉より、人を動かし、信用させ、気持ちよく納得させる言葉のほうが、流通に適しているからである。
営業も出版も、成果主義も能力主義も、別々の領域に見えて、じつは似たところでつながっているのではないか。すなわち、測りやすいもの、広まりやすいもの、数字になりやすいもの、承認を集めやすいものが、善や価値の代用品として流通してしまうということである。ここで善は二重に失われる。第一に、善そのものの定義不能性、すなわち他の概念に還元できない独自性が失われる。第二に、その代用品として採用された数値や肩書や成果の基準自体も、実のところ明瞭ではないまま人を支配する。メリトクラシーが曖昧なのは、能力評価が難しいからだけではない。そもそも何を善い生と呼ぶのか、何を善い仕事と呼ぶのかについて、社会は共通の深い基準を持たないまま、運用上の便宜で秩序を組んでいるからである。その便宜的秩序が必要であることは認めざるをえない。しかし必要であることと、それを善の名で語ることは別である。私はその差異を忘れたくない。
ここまで書くと、いかにも私は現代社会の序列と市場を嫌っているだけのように見えるかもしれない。だが今日一日を正直に振り返るなら、それだけではなかった。今日は『仕事を上手に圧縮する方法 ITコンサル流 仕事の基本』も読了した。そして、この本が私に与えた感触はかなり大きかった。読んでみて驚いたのは、そこで教えられていることのほぼ九割を、私はすでに実践していたということだった。タスクの分解、優先順位づけ、段取り、情報の整理、処理の圧縮、見通しの立て方、そうした実務の基本について、私は少なくとも大きく外してはいなかったのである。自分では日々、もっと根本的にやり方が間違っているのではないか、努力の方向そのものがずれているのではないか、見当違いな苦労を積み上げているだけではないか、という不安を抱えがちである。だが今日は、その不安に対して一つ具体的な反証が与えられた気がした。私はすでにかなりの部分をやれている。少なくとも仕事の基本的な作法は、身についている。これは単なる慰めではなかった。むしろ、自分の実務感覚に対する確認であり、自分の積み上げに対する小さくない証明であった。
だから今日は、悔しさと無力感だけの日ではなかった。私はたしかに序列に傷ついている。兄と比べ、月給を比べ、肩書に反応し、自分が偉くなれていないことに悔しさを覚える。だが同時に、私は空っぽのまま焦っているわけではないことも知った。少なくとも実務の手つきに関しては、すでにかなりのものが身についている。努力は空転していなかった。その確認は、私のなかの闘志を呼び起こした。ああ、自分の仕方は間違っていなかったのだ、このまま係長を奪取してやる、と思えたのである。ここは今日の重要なポイントである。私は市場的な序列を丸ごと信じたくない。しかしだからといって、出世や昇進や収入増への意欲を失っているわけではない。むしろ逆である。私は上に行きたい。責任ある位置に就きたい。月給三十万円から始めてきた仕事の積み上げを、もっと大きい形にしたい。人事労務課に正式配属される見込みがあり、社労士試験に合格すれば課長代理の可能性もある。まずは係長まで昇進したい。この意欲は本物である。今日の読書は、私からその意欲を剥ぎ取ったのではない。むしろ、その意欲を市場への盲従ではなく、自分の実務感覚への確信と結びつけ直したのである。
ここが私にとって微妙なところである。私は上昇したい。だが、上昇そのものを善のすべてとは呼びたくない。私は出世したい。だが、出世した者だけが語る資格を持つという秩序を、そのまま正義と認めたくはない。私は収入を増やしたい。だが、収入だけで人間の意味が決まるとは思えない。私は能力を磨きたい。だが、能力主義の秩序に傷ついた者として、その秩序の曖昧さも見えている。ここには明らかなねじれがある。だが、このねじれを無理に解消しないことが、今の私には大事なのかもしれない。なぜなら、人間はたいてい、完全に市場の外へ出られるわけではないし、完全に市場のなかに心を売り渡したいわけでもないからである。私は現代の競争社会に参加している。だが、参加しながら、そこに留保を持ちたい。走りながら、その競技のルールがすべてだとは思わないでいたい。この中途半端さは、潔くない。しかし、潔すぎる思想よりも、生の現場に近い気もする。
そして、この留保の根拠として今日もっとも大きかったのが、就労継続支援の経験であった。格差は本当に激しい。努力だけではどうにもならない差があり、運や環境や健康やタイミングや制度との相性が、人の人生を大きく左右する。私はそのことを抽象論ではなく、ある程度生活実感として知っている。そのなかで、ひとつだけ明るい事実がある。無職になってしまった私を、バイトから契約社員へ、契約社員から正社員へ、そして人事労務課の主軸に行ける可能性へとつないでくれたのは、就労継続支援であった。このことを私は、今日あらためて重く受け止めた。これは単なる美談ではないし、単なる自己責任の成功譚でもない。むしろ、ここには現代の序列化された価値観とは別の種類の価値があったと思う。就労継続支援は、少なくとも私にとっては、いったん市場からこぼれ落ちた人間を、ただちに無価値と見なさず、途中にいる存在としてもう一度接続してくれた場であった。そこには「いまこの瞬間の市場価値」だけで人を閉じない態度があった。人を完成品としてではなく、まだ別の姿になりうる存在として扱う姿勢があった。私はその経験のなかに、善に近いものを感じている。
もしムーアが正しく、善が定義不可能であるなら、善はたぶん、公式のようには与えられない。善とは何かを一発で言い当てる言葉はない。だが、善に助けられた経験、善に近いものに触れた経験はあるのではないか。少なくとも私は、就労継続支援が無職の自分に対して、「ここで終わりだ」とは言わず、「まだつながる」と言ってくれたことのなかに、快楽や効率や市場価値では言い尽くせない何かを感じる。それは単なる優しさとも少し違う。甘やかしでもない。むしろ、人の途中性を制度の側が引き受けるという意味で、かなり厳密な価値である。値踏みの前に機会を与えること。人が別の形になりうると信じて、接続を絶たないこと。私はこの経験を、成果主義の言葉だけでは表現したくない。そこには成果になる以前の価値があった。それこそが、今日ムーアを読みながら私が引き出したかったものかもしれない。
ここで私は、価値の曖昧さについて少し見方を変えた。これまでは、価値が曖昧で無秩序だから苦しいのだと思っていた。それは事実である。しかし、もし善が本当に定義不能であるなら、価値が曖昧であること自体は、必ずしも悪ではないのかもしれない。問題は、曖昧であるという現実に耐えきれず、社会があまりにも安易に数値や肩書や成果を善の代用品として採用してしまうことなのである。曖昧なままに、慎重に、留保を持って人を見ることは本来できるはずである。しかし現代の制度は、迅速に評価し、並べ、処理し、配分しなければならない。そこではどうしても、わかりやすい秤が必要になる。偏差値、売上、年収、役職、資格、部数、再生回数。これらは便利である。だが、便利であることは善いことと同じではない。しかも、それらは人を配分するうえでは有効でも、その人がどのような存在であるかを十分に言い尽くさない。社会はその不足を知りながらも、ときどきその不足を忘れたふりをする。私はそのふりをしたくないと思った。
こうしたことを考えると、人事労務という仕事に対する自分の姿勢も少しはっきりしてくる。人事や労務は、どうしても人を分類し、制度にのせ、評価し、調整し、時に厳しい判断をしなければならない仕事である。感情だけでは回らないし、善意だけでも運用できない。だが、だからこそ、この仕事には危うさもある。指標と規則を使うことと、人間を指標と規則に還元することは別である。この差を忘れた瞬間、人事労務は支援ではなく管理だけになる。私は今後、人事労務課の主軸に行ける可能性があるならなおさら、この差を忘れたくない。制度のために必要な分類や評価は使う。しかしそれがその人の善や価値の総体を言い当てているわけではない、というムーア的な留保を持ちたい。就労支援の現場で、値踏みの前に接続することの意味を少し受け取った者として、その感覚を人事労務の仕事にも持ち込みたい。これは単なる感傷ではなく、制度に対する一つの姿勢である。
今日の読書は、営業や出版やメリトクラシーを批判するためだけのものではなかった。むしろ、自分の仕事と自分の将来に対して、どのような基準で向き合うべきかを考えるための読書であった。私は係長を奪取したい。これはかなり率直な欲望である。できれば課長代理の可能性も視野に入れたい。社労士の勉強も進めたい。GASやAIで作業を汎用化してきた経験を、就労支援だけでなく人事労務の現場でも活かしたい。この実務的な意志は本物であり、今日の『仕事を上手に圧縮する方法』の読了によって、さらに燃えた。自分のやり方はかなり間違っていなかった。ならば、ここから先は、ただ闇雲に焦るのではなく、確認できた手つきを武器にして進めばよい。こういう前向きさが今日は確かにあった。この感覚は大事にしたい。なぜなら、価値の基準の曖昧さを考えることが、そのまま行動不能につながっては意味がないからである。考えたうえで、それでも進むこと。しかも進みながら、自分を支える基準を丸ごと市場に預けないこと。この両立が必要なのである。
執行草舟のようにはなれない、という思いも今日は引っかかっていた。彼のように巨大な確信をもって世界に立ち向かうことも、社長として大きな決断をすることも、私にはできない。私は一平社員であり、途中にいる人間である。しかし、途中にいるからこそ見えるものもあるのではないかと、今日は少し思った。上にいる者は、上からしか見えない景色がある。だが、途中にいる者には、途中にいる者にしか見えない景色がある。序列に傷つき、序列から自由ではなく、それでもその序列を真理とは呼びたくないというねじれ。成果を求め、出世を望み、収入を増やしたいと願いながら、それでも売れたことや伸びたことや勝ったことだけが善ではないと感じる感覚。この中途半端さは、たしかにみっともない。だが、みっともなさのなかにしか現れない思索もある。私は今日、そのことも認めたいと思った。
読書日記というものは、読んだ本の内容を要約するだけの記録ではない。本が自分の生活にどう刺さったか、自分の感情や労働や将来の見え方をどう変えたかを書くものだと思っている。そうであるなら、今日の読書日記の本当の素材は、ムーアの定義論だけではなく、その定義不可能な善という概念が、自分の悔しさや焦りや闘志や感謝の記憶をどう照らし直したか、にあった。メリトクラシーの曖昧さを読み、自分がその曖昧な序列に傷ついていることを見た。営業や出版の欲望装置を考え、現代社会が測りやすいものを善の代用品としてしまう構造を見た。『仕事を上手に圧縮する方法』を読み、自分の実務感覚がすでにかなり正しかったことを確認し、係長を奪取したいという前向きな火がついた。そして最後に、無職だった自分をバイトから契約社員へ、契約社員から正社員へとつなぎ直してくれた就労継続支援の経験のなかに、数値や成果では言い尽くせない善を見出した。これらはバラバラの話に見えて、じつは一つの問いに収束している。測りやすいものが価値として流通するこの時代において、私は何をもって善い仕事と呼び、善い支援と呼び、善い生と呼ぶべきなのか、という問いである。
私はまだ答えを持っていない。ムーアが言うように、もしかすると答えは定義の形では与えられないのかもしれない。だが少なくとも、いくつか言えることはある。成果は善に還元できない。収入は価値のすべてではない。肩書は発言の中身を保証しない。売上は倫理の免罪符にならない。比較に傷つくことと、その比較の基準を正しいと認めることは別である。人を途中にある存在として扱い、値踏みの前に接続する営みのなかには、何か善に近いものがある。そして、自分の実務感覚がすでにかなり確かなものであると知った今、私はただ悔しがるだけではなく、現場の手触りを武器にして前へ進めるということも言える。今日の私は、社会の秩序に傷ついている。しかし同時に、その秩序のなかでただ潰されるだけの自分でもない。私は燃えている。係長を奪取したい。その闘志は決して恥ずかしいものではない。むしろ、その闘志を市場の粗い物差しに回収させず、自分なりの善の感覚と結びつけて保つことが大事なのだと思う。
善が定義不可能であるとしても、善に近い経験を記憶することはできる。私にとって今日は、就労継続支援に助けられた経験と、自分の仕事の手つきが間違っていなかったと確認できた経験の両方が、そこに含まれている一日であった。私はなお、月給や肩書や比較に傷つくだろう。これからも、兄と比べたり、偉くなれない自分に腹を立てたり、みじめさを感じたりするだろう。だが、その傷をそのまま真理と取り違えないようにしたい。私は市場に値踏みされるだろう。だが、自分の人生までその値札で読まないようにしたい。私は出世を目指すだろう。だが、出世を善のすべてと呼ばないでいたい。私は売上や成果や効率を扱う仕事に近づいていくだろう。だが、それらを人間の価値そのものと混同しないようにしたい。そうした小さな留保の積み重ねのなかでしか、今の時代における倫理は守れないのではないか。そして、測りやすいものばかりが価値として流通するこの世界で、私はこれから何を「正しかった努力」として積み上げ、何を「善に近い経験」として忘れずに持って歩けばよいのだろうか。