
つづきを展開
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日記
今日は、古典を読むことと、ふつうの暮らしをめぐる美的判断を考えることとが、思った以上に深いところでつながっていると感じた一日であった。読んだのは幻冬舎新書『だから古典は面白い』と、『批判的日常美学について──来たるべき「ふつうの暮らし」を求めて』である。前者は、古典がただ昔の立派な本としてあるのではなく、不確実な現実を前にしたときに人間がどのように振る舞ってきたか、その厚みを教えてくれるものとして読まれていた。後者は、私たちが「よい暮らし」「ちゃんとした生活」「感じのよい振る舞い」などと呼ぶものの背後に、しばしば道徳と美的判断の癒着があることを暴いていて、これがひどく面白かった。今日の読書日記は、この二冊の内容紹介をするだけのものではない。むしろ、今日一日じゅう私の中でくすぶっていた違和感、すなわち「人はどう生きるべきか」という問いが、いつのまにか「どう見苦しくなく生きるか」という問いにすり替わっているのではないか、という不穏な感覚を記録するものである。
私はしばしば、品位というものを重く考える。人間は何を失っても、最後に品位だけは失ってはならないのではないかと思う。金も地位も縁も失うことはある。しかし、それでもなお自分の立ち居振る舞いのうちに、これ以上は崩したくない最低線のようなものがある。その最低線を私は品位と呼びたいのである。ところが今日、『批判的日常美学について』を読んでいて、この品位という言葉そのものが、どこか危ういものであるようにも思えてきた。なぜなら、私たちはしばしば美的に整っているもの、端正に見えるもの、落ち着いていて節度あるものに、ほとんど反射的に道徳的な価値を読み込んでしまうからである。逆に、騒がしいもの、みっともないもの、雑然としたもの、欲望にまみれたものに対しては、美的嫌悪がそのまま倫理的軽蔑に転化しやすい。だが本当にそうなのか。整った暮らしは善い暮らしなのか。見苦しくないことは、そのまま正しいことなのか。あるいは私が品位と呼んでいたものの中にも、かなりの割合で、ただ「みじめに見えたくない」という欲望が混じっているのではないか。この疑いは、なかなか苦い。
『批判的日常美学について』の面白さは、日常をめぐる美的判断がいかに政治的で道徳的で階級的な力を帯びているかを、暮らしの細部から照らし出すところにある。「ふつうの暮らし」という言葉は、一見すると穏当で、誰にとっても無害に見える。しかし「ふつう」はいつも、ある生活様式を自然で望ましいものとして承認し、それにそぐわないものをひそかに排除する装置でもある。部屋のきれいさ、服装の感じよさ、会話の温度、趣味の上品さ、食卓の整え方、休日の過ごし方、そうしたものが「いい感じ」にまとまっているとき、私たちはつい、そこに人格の善さまで見てしまう。しかし、整っていることと善いことは本来別のはずである。反対に、雑然としていること、過剰であること、傷を隠しきれないことが、即座に倫理的欠陥を意味するわけでもない。にもかかわらず、私たちは日常の審美化を通じて、人を静かに序列化している。この本は、そのことを告発している。
この告発は、単に社会批判として面白いだけではない。私自身の内面にぐさりと入ってくる。私は「上品でありたい」「取り乱したくない」「自分を安売りしたくない」と思うことがある。その感覚自体はまったく偽善ではないし、むしろ大切なものだとも思う。だが同時に、その感覚の一部は、善くありたいというより、みじめに見えたくないという欲望に支えられているのではないか。もっと言えば、自分の欲望や弱さが露出したときに、それを「下品」と呼んで切り捨てることで、私は自分を守っているのではないか。この自己疑念は、『批判的日常美学について』を読まなければ、ここまで言葉にならなかっただろう。道徳と美的判断の癒着とは、社会の話であると同時に、私の自意識の話でもある。
ここで『だから古典は面白い』のほうが、別方向から効いてくる。古典が面白いのは、そこに立派な教訓が書いてあるからだけではない。むしろ、現代人がうまく隠しているものを、古典は驚くほど露骨に抱え込んでいるからである。不確実性のもとで人はどう行動するか。先が見えず、自分の価値も定まらず、状況の偶然に左右され、欲望と見栄と恐れのあいだで揺れ動くとき、人はどういう理屈をつくり、どういう失敗をし、どのように自分を正当化するか。そういうことは、制度論やハウツー本ではなかなか学べない。古典文学や古典思想は、人間の深部がいかに一貫しておらず、矛盾に満ち、しばしばみじめで、それでもなお可笑しく哀しい存在であるかを見せてくれる。たぶん古典から学べるのは、正しい答えより先に、人間の形そのものなのである。
ここでいう「人間の形」とは、清潔な理念のことではない。むしろ、理想と衝動が同居し、誇りと卑小さが絡み合い、まっすぐに生きたいと思いながら少しずつ横滑りしていく、その不格好なあり方のことである。古典が面白いのは、そこに英雄だけでなく、ためらう者、言い訳する者、見栄を張る者、滑稽な者、欲望を持て余す者が山ほど出てくるからでもある。私はそこで妙に安心する。人間の深い部分は文学からでしか学べない、というニュアンスが前者から伝わってきたのは、おそらくそのためである。深い部分とは、高潔な核のことではない。高潔さと愚かしさが分かちがたく結びついた、その混線のことなのだと思う。
今日の私にとって重要だったのは、この二冊が、別々の方向から同じ一点に触れてきたことである。『だから古典は面白い』は、人間の矛盾を時間の厚みのなかで見せてくれる。『批判的日常美学について』は、現代の私たちが、その矛盾をどのような審美的秩序のもとで隠したり裁いたりしているかを暴く。前者は、人間は昔から不確実性のなかで揺れてきたと教える。後者は、その揺れを「感じのよさ」や「ふつうらしさ」によって抑圧する現代の空気を可視化する。つまり一方は人間の古さを、他方は人間の現在を照らしている。そして私はその交点で、自分の欲望や不安や自尊心を、道徳的な語彙だけでは扱えないことに気づいた。
この気づきは、かなり大きい。人はよく、自分の欲望を倫理の問題として処理しようとする。欲望があるのはよくないのではないか、いや自然なことではないか、節度を守るべきではないか、などと考える。しかし今日の私には、欲望そのものよりも、欲望が露出したときの見え方のほうが問題になっていた。私は本当に悪いことを恐れていたのだろうか。それとも、みじめに見えること、品位を失って見えることを恐れていたのだろうか。ここに、道徳と美学の癒着がある。私は善くありたいと思っている。けれどその善さの一部は、美しくありたい、少なくとも醜くはありたくないという願いに支えられている。そのことを認めるのは苦いが、認めないままでいるほうがもっと危うい。
では、品位とはただの見栄なのか。そう言い切ってしまうのも違うと思う。品位にはやはり倫理的な核がある。人を雑に扱わないこと、自分の惨めさを埋め合わせるために他人を踏みつけないこと、欲望を持ちながらもその欲望に全面支配されないこと、そういうものを私は品位と呼びたい。だがその品位は、無垢であることとは違う。欲望がないことでもない。揺れないことでもない。むしろ、揺れや卑小さや見栄を抱えたまま、それでもなおどこで踏みとどまるかという問題である。古典が教えるのも、おそらくこのタイプの品位である。高潔な人物が最初から完成された姿で現れるのではなく、崩れかけながら、迷いながら、自分の中の卑しさに触れながら、なお最後の一線を探る。そこに文学の人間理解がある。
『批判的日常美学について』の議論に戻れば、問題は「整ったものを好むな」ということではないだろう。むしろ、整っていることに過剰な道徳的意味を与えるな、ということである。感じのよい暮らし、きちんとした身なり、穏当な振る舞い、そのどれも悪くない。だが、そこからすぐに人格の優劣を読み取ってしまうとき、私たちはすでに危うい。逆に、乱れや滑稽さや未整理な欲望を見て、即座に下品と判断してしまうときにも、そこには権力がある。私はこの本を読みながら、自分がどれだけ「感じのよさ」に道徳を乗せてきたかを思い知らされた。たとえば本を読む暮らしを、どこかで上等なものとして思っていなかったか。落ち着いた対話を、ただそれだけで倫理的に優れているとみなしていなかったか。俗っぽい振る舞いを、内容に先立って審美的に退けていなかったか。こうした問いは、自分の読書のあり方そのものにも返ってくる。
それでも私は、読書という営みをなお擁護したい。なぜなら読書は、単に感じのよい趣味ではなく、自分の中の混線を言葉にする練習でもあるからだ。欲望を浄化するために読むのではない。むしろ、浄化されきらないものを見失わないために読むのである。古典は、私たちに模範的な清潔さを与えるためではなく、混ざりものとしての人間を、もう少し正確に見せるためにあるのではないか。もしそうなら、読書とは自分を立派に見せる装飾ではなく、自分の醜さや卑小さや迷いを、安手な自己嫌悪にも安手な自己肯定にも逃がさずに保持するための装置である。『だから古典は面白い』を読みながら感じたのは、まさにこのことだった。古典は、人間の深い部分を簡単に赦しもしないし、簡単に断罪もしない。そこにいるのは、いつでもどこかみじめで、どこか崇高な、あの厄介な人間そのものなのである。
「来たるべきふつうの暮らし」という副題も、今日の私には重く響いた。ふつうの暮らしとは何だろうか。静かな部屋で本を読み、節度を守り、過剰な欲望に振り回されず、足るを知って暮らすことだろうか。その像にはたしかに魅力がある。しかし、その「ふつう」があまりに美しく整いすぎると、そこからこぼれ落ちるものが出てくる。説明のつかない焦り、みじめさへの恐れ、場違いな欲望、見栄、退屈、偶然への期待、そうしたものは、きれいな「ふつう」の外側に追いやられがちである。だが本当に来たるべきふつうの暮らしとは、そうしたこぼれを持たない暮らしなのだろうか。むしろ逆に、こぼれるものがあることを前提にした暮らし、整いきらないことを含んだふつう、みっともなさを抱えたままでも崩壊せずに続いていく生活こそが、必要なのではないか。
この問いに古典がどう関わるかを考えると、私は少し元気が出る。古典の人物たちは、たいてい整っていない。立派に生きたいのにそうできず、節度を守りたいのに逸脱し、理性を誇りながら欲望に振り回される。それでもなお彼らは生き、語り、恥を抱えたまま時間の中を進んでいく。つまり古典は、「ふつうの暮らし」を、最初から美的に完成されたものとしては描かない。むしろ、傷や矛盾を抱えたまま継続するものとして描く。その意味で、古典は日常美学を批判するための資源にもなる。暮らしの審美化が「ちゃんとしていること」を過剰に称揚するとき、古典はもっと頑固に「人間はそんなにきれいにできていない」と言い続ける。だから面白いのである。
今日、自分の中でいちばん大きく動いたのは、「みじめになりたくない」という感情の位置づけが少し変わったことかもしれない。これまでは、そういう感情をどこか恥ずかしいものとして扱ってきた。もっと高い言葉で、自尊心とか品位とか誠実さとかに言い換えたくなっていた。しかし、みじめになりたくないというのは、かなり基礎的で、人間的で、どうしようもない感情でもある。問題は、それがあることではなく、その恐れのために他人を値踏みしたり、見下したり、自分を偽ったりし始めることだろう。つまり、みじめさへの恐れは出発点であって、終着点ではない。その恐れをどう扱うかのところで、品位と見栄、倫理と美学が分かれてくる。
ここでようやく、「読書に勤しめばいいのか」という問いに、自分なりの答えが見えてくる。答えは単純な肯定ではない。ただ本を読んでいれば救われる、という話ではもちろんない。読書が欲望を消してくれるわけでも、みじめさへの恐れをなくしてくれるわけでもない。けれど、読書はその恐れや欲望を、少しだけ正確に見る力を与えてくれる。私は何を恐れているのか。何を守りたいのか。どこで道徳の語彙が美学の語彙にすり替わっているのか。どこで見栄が品位の顔をしているのか。そうしたことを考える言葉を、読書は与えてくれる。だから本を読むことは逃避ではない。ただしそれは、欲望から離れるためではなく、欲望を持ったまま自分を見失わないための訓練としてである。
この意味で、今日読んだ二冊は、私にとってどちらも「人間の深い部分」に触れる本であった。『だから古典は面白い』は、深さを時間の厚みとして見せる。昔から人間はこうだった、という連続性がそこにはある。『批判的日常美学について』は、深さを現在の生活形式のなかに見せる。私たちはいま、どのような美的規範を善のふりをして内面化しているのか。それを剥がしてみせる。前者は、人間理解の持久力を与えてくれる。後者は、自分の暮らしに混入している権力や規範を点検する視力を与えてくれる。この二つが同じ日に重なったのは偶然だが、かなり幸運な偶然であった。
私はたぶん、これからも「品位」という言葉を捨てないだろう。しかしその中身は、今日少し変わった気がする。品位とは、整った趣味や穏当な生活様式のことではない。まして、みじめさから無縁なことでもない。むしろ、自分の中にあるみじめさへの恐れ、欲望、見栄、焦りを見ないふりせず、それでもなお他人と自分を雑に扱わないこと、そのぎりぎりの作法のことである。見た目の感じよさに道徳を乗せてしまうとき、品位はただの審美主義に堕する。逆に、欲望があるからといってすべてを正当化し始めるとき、品位は崩れる。そのあいだの不安定な場所に立ち続けること、それが私にとっての品位である。
そして、ふつうの暮らしとは何かという問いも、今日少し変わった。私は以前、ふつうの暮らしを、静かで節度があり、余計なざわめきの少ないものとして想像していた。しかし、来たるべきふつうの暮らしとは、むしろもう少し混ざったものではないか。理性と欲望、秩序と偶然、美しさとみっともなさ、誇りとみじめさ、そのどれもが消えずにあるまま、それでも崩壊せずに続いていく生活。その生活のなかで、本を読み、考え、少しずつ言葉を磨き、安っぽい正しさにも安っぽい快楽にも全面的には回収されないようにすること。それが私の望む「ふつう」に近い。きれいに片付いた人生ではなく、多少の雑音を含みながらも、自分の言葉を失わずにいられる暮らしである。
古典が教えるのは、おそらくこういうことである。人間は完成しない。だからこそ面白い。日常美学が暴くのは、こういうことでもある。完成しているように見えるものは、しばしば排除の上に成り立っている。だとすれば、私が読書日記でやるべきことも見えてくる。立派な結論を書くことではない。今日の混線を、混線のままに少しでも精密に書くこと。自分の中の道徳と美学の癒着を、きれいに処理せず記録すること。古典から学んだ人間理解を、現代の暮らしの規範批判に接続すること。みじめになりたくないという感情を、単なる弱さとして切り捨てるのでも、美しい言葉で飾り立てるのでもなく、その感情がどこで見栄に変わり、どこで品位の問いに変わるのかを見つめること。その作業こそが、今日の読書日記の本体である。
本を読むとき、私はしばしば答えを求めてしまう。しかし今日の二冊は、答えというより、問いの角度を変えてくれた。人間はどう生きるべきか、という問いはそのままでは大きすぎる。けれど、私は何を「見苦しい」と感じているのか、なぜ整ったものに善を読み込みたくなるのか、どこで自分の見栄を品位と呼び替えているのか、そう問うてみると、急に具体的になる。古典は、その具体性を人間の長い歴史の中で支えてくれる。日常美学の批判は、その具体性を現代の生活の細部に引き戻してくれる。その往復のなかでしか、私は自分の欲望や恐れを、ただの気分ではなく思索の対象として扱えないのだと思う。
読書は人生を救うか、という問いには、私はまだうまく答えられない。救うこともあれば、救わないこともあるだろう。ただ一つ言えるのは、読書は人生を単純化しない、ということである。むしろ、すぐに片づけたくなる矛盾を長引かせる。欲望をすぐに否定も肯定もさせず、そのあわいに留める。感じのよい人生像に飛びつきたくなる衝動を、ほんの少し遅らせる。その遅さのなかで、人間の深い部分が見えてくる。『だから古典は面白い』が教える「不確実性のもとでの人間の行動」とは、結局のところ、確実な答えのないまま、どうにか動いてしまう人間の姿のことである。『批判的日常美学について』が告発する「道徳と美的判断の癒着」とは、確実な答えのなさに耐えられず、感じのよい秩序に善を仮託してしまう私たちの癖のことである。二冊は別のことを言っているようで、どちらも不確実性に耐える訓練として読める。
だから今日の私は、結論として、ただ勤勉に本を読むべきだ、とは書かない。そうではなく、勤勉に読むとは、欲望や見栄を抑圧して清潔になることではなく、自分の中の不確実なもの、みじめさへの恐れ、整って見えたい欲望、古典に救いを求める気持ち、その全部を含んだまま、なお雑に結論づけないことだと書いておきたい。読書とは、立派になる手段ではなく、混ざりものとしての自分を急いで裁かないための時間である。そう考えると、今日の二冊はどちらも、「ふつうに生きる」とは何かを考えるための本であった。ふつうとは、感じよさの完成形ではない。不確実性を抱えながら、みっともなさをゼロにはできず、それでもなお他人と自分を少しでも丁寧に扱おうとする、その持続のことではないか。だとすれば、来たるべき「ふつうの暮らし」とは、整った生活様式の到来ではなく、整いきらない人間を引き受ける感性の到来ではないのか。
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