
つづきを展開
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日記
序章 私は能力主義を全面否定したいわけではない
私は能力主義を全面的に否定したいわけではない。責任の重い仕事には能力が必要であり、統治や経営が誰にでもできるとは思っていない。医師が誰でもよいわけではなく、裁判官が誰でもよいわけでもなく、会社の舵取りがくじ引きで決められるべきだとも思わない。社会のなかには、どうしても判断力、持久力、知性、経験、そして一定の人格的成熟を要する役割がある。そうした役割に対して、何らかの選抜や評価が行われること自体は避けがたい。少なくとも私は、そこを幼稚な平等主義で押し流したいとは思っていない。
むしろ、社会主義的な想像力の一部に漂う、差異や適性や責任の重みを平板化してしまう傾向のほうに、私は強い違和感を覚えることがある。人間には能力差があり、向き不向きがあり、引き受けられる重さにも違いがある。そこを一切見ないで、ただ平等を唱えるだけでは、かえって人間の現実を見誤るのではないか。その意味で私は、能力主義に対して最初から敵対的であるわけではない。いや、もっと正確に言えば、能力や適性の存在を認めることを、すぐさま冷酷さや差別と同一視する議論に対しては、むしろ反発を覚える側である。
にもかかわらず、現代のメリトクラシーには深い違和感がある。いや、違和感という言葉でもまだ足りない。ある種の醒めた感覚、と言ったほうが近い。なぜなら、能力主義をめぐる現在の言葉には、どこか無垢なふりをしているところがあるからである。実力、努力、自己責任、挑戦、燃焼。そうした言葉が、あまりにも素朴に肯定されすぎている。まるで、そこに何の濁りも介在していないかのように。だが私には、その語彙がどうしても信用できないのである。
私が気にしているのは、能力差の存在そのものではない。能力を語る言葉が、その背後にある配牌の厚みを見えなくしてしまうことである。人はどの家庭に生まれるかを選べない。どれだけの教育資源に触れられるか、どのような空気のなかで育つか、失敗してもやり直せる余裕があるか、勉強が当たり前だと思える環境にいたか、言葉の使い方や身のこなしをどこで身につけたか、その多くは本人の意思決定以前に始まっている。にもかかわらず、社会はしばしば、その結果として現れたものだけを切り取って「実力」と呼ぶ。ここに私は、単なる不平等以上のものを感じる。能力主義は、しばしば配牌の偏りを、努力の物語に翻訳してしまうのである。
そうなると、問題は分配だけではない。尊厳の問題が出てくる。勝った者は「自分はそれだけの価値がある」と思いやすくなり、負けた者は「自分は足りない人間なのだ」と思いやすくなる。しかしもし、その勝敗の前提にすでに資本や環境や文化資本の偏りが厚く沈殿しているのだとしたら、この誇りも屈辱も、少し過剰なのではないか。私はその過剰さに耐えられないのである。だから私は能力主義を廃絶したいのではない。ただ、能力主義がしばしば人格の序列へと滑っていく、その危うい変質を問題にしたいだけである。
ここで一度、はっきり書いておきたい。私は、上に立つ者の存在そのものを否定したいのではない。現実には、上に立つ者はいるし、立たざるをえない。誰かが判断し、誰かが責任を負い、誰かが全体を見る必要がある。それを幼稚な平等感情で消し去ることはできない。しかし、その必要性を認めることと、上にいる者がそのまま人格的に優れていると見なすことは別である。能力主義が本当に危険なのは、配分の技術としてではなく、その結果を道徳化するときである。
私がここで感じている退屈は、まさにその道徳化への退屈である。努力した者が報われるべきだ、優秀な者が上に行くのは当然だ、責任を取れる者が重い役割を担うのは自然だ。こうした言い方そのものを私は全否定しない。だが、そこに漂う無垢さ、つまり「その優秀さはどこから来たのか」「その努力はどのような土台の上で可能になったのか」という問いを最初から忘れているような口ぶりに、私はどうしても白けてしまう。能力を語る言葉が、あまりに無邪気すぎるのである。
この無邪気さは、ただの認識不足ではない。しばしばそれは、すでに上にいる者にとって都合のよい物語として機能する。だから私は、能力主義を論じるとき、その理論そのものだけではなく、それを誰がどの位置から語っているのかを見たいと思うようになった。この関心は、のちに執行草舟の語りを考えるとき、いっそうはっきりした形を取ることになる。社会の上層にいる者が、自らの地位を「能力の結果」として語るとき、そこにどれだけの事実があり、どれだけの自己神話が混じっているのか。その混ざり方を見ずに、メリトクラシーを論じることはできないのではないか。そう思うのである。
第一章 保守が能力主義を愛する理由
保守的な思想家が能力主義を支持しやすいのには、かなり明確な理由がある。第一に、保守は秩序を重んじる。秩序とは、単に静かな状態ではない。誰が判断し、誰が従い、誰が責任を持つかという配置の安定である。家族制度にせよ、官僚制にせよ、企業組織にせよ、保守はそこに一種の形式美を見る。すべてが平板に並ぶ世界よりも、役割が分かれ、上下があり、重みの差がある世界に、現実性と持続性を見ている。したがって、能力主義は保守にとって、ただの選抜原理ではない。それは秩序を維持するための合理的な装置として映るのである。
第二に、保守は「誰でも統治できる」という発想に不信を抱く。これは乱暴に聞こえるが、内在的にはそれなりの論理がある。社会を治めること、組織を束ねること、長期的な責任を引き受けることは、単純な善意では足りない。知力、胆力、経験、感情の統御、他者を扱う技術、複雑な状況のなかで判断を下す能力、そうしたものが必要になる。選挙で選ばれたからといって誰でも統治者になれるわけではなく、人気があるからといって重責を担えるわけでもない。保守はその残酷な現実を知っている。だからこそ、「できる者がやるべきだ」という能力主義に一定の説得力を認めやすい。
第三に、保守思想にはしばしば、卓越への美意識がある。ここが重要である。保守は単に平等を嫌っているのではない。むしろ、格式、品位、節度、熟達、責任感、そうしたもののなかに美を見ている。すべての人間が同じである世界よりも、それぞれの人間にふさわしい位置と様式がある世界を好む。したがって、能力主義は保守にとって、近代的な効率原理であると同時に、ある種の貴族主義の現代的翻訳にもなりうる。優れた者が上に立つべきである、というだけでなく、上に立つ者には上に立つにふさわしい気品や様式が求められる、という感覚がそこには混じる。
この点で、保守が能力主義を語るとき、その言葉はしばしば単なる実務論を超えてしまう。経営は誰にでもできるものではない、統治には器量がいる、官僚制には訓練された知性が必要である。こうした主張そのものは、現実認識として一理ある。だが保守の語りにおいては、それが次第に価値判断へと変わっていく。上に立つ者は単に機能的に必要な存在であるだけでなく、ある種の「ふさわしさ」を体現しているかのように語られる。ここで能力主義は、配分の技術であることをやめ、卓越の倫理へと姿を変える。
この変化は見逃しにくい。なぜなら、そこでは能力差の認識と人格的優劣の承認が、いつのまにか滑らかにつながってしまうからである。本来、難しい仕事を任せるべき相手を選ぶことと、その人間が存在として優れているとみなすことは別である。だが保守的な能力主義はしばしば、その二つを切り分けない。責任を担える者が上に立つべきである、という議論が、責任を担っている者は優れた人間である、という物語に変わっていく。この滑りが起こるとき、能力主義はぐっと魅惑的になると同時に、危うくなる。
しかも現代社会では、露骨に「身分」を語ることが難しい。血筋や家柄そのものを正面から持ち出して、人の上下を論じることは、少なくとも建前の上ではしづらくなっている。そこで便利なのが「能力」という語彙である。能力であれば、近代社会の平等原理と矛盾しないように見える。誰にでもチャンスは開かれており、そのなかで努力し、成果を出した者が上に行く。そう言えば、身分秩序の露骨さを避けながら序列を正当化できる。ここに、保守とメリトクラシーの強い親和性がある。
つまり、保守が能力主義を支持するのは、それが秩序を守るからだけではない。すでに上にいる者の位置を、身分ではなく能力として言い換えることができるからである。この言い換えは、現代社会ではとても強い。身分と言えば古い支配の言葉になるが、能力と言えば公正な評価の言葉になる。だが、その二つは本当に切れているのか。そこに私は疑いを持つ。むしろ現代のメリトクラシーは、身分の否定を掲げながら、身分の効果を別の語彙で保存しているのではないか。
もちろん、ここで私は保守思想を粗雑に笑いたいわけではない。統治や経営が誰にでもできるわけではないという認識は、たしかに現実的である。問題は、その現実認識がどこから自己神話へ変わるかという点にある。優れた者に重い仕事を任せるという常識が、いつのまにか「上にいる者は上にいるだけの価値がある」という物語に変わっていく。その瞬間を見抜かなければ、能力主義は容易に道徳へと変質する。そしてその道徳は、敗者への冷酷さと勝者の陶酔を同時に育てるのである。
第二章 執行草舟の語りに漂う自己正当化の気配
執行草舟のような思想家がメリトクラシーを称揚するとき、私は単純な反感よりも先に、一種の位置の問題を感じる。彼の語りには魅力がある。運命、覚悟、燃焼、選ばれた者の責務、統治や経営の重さ。こうした言葉は、平板な平等主義にはない迫力を持っている。社長は誰でもできるものではない、選ばれた者にしかできない、という命題も、事実として見れば確かにその通りであろう。だが私が引っかかるのは、その命題の正否そのものではない。それを語っている主体の出発条件が、語りのなかでどれだけ見えているか、という点である。
執行草舟の自伝的背景を知ると、そこにはかなり厚い資本と文化資本の層がある。富裕層の家庭に生まれ、早い段階から整った教育に触れ、幼少期から一定の教養空間のなかで育つ。そうした条件は、本人の人格や努力を無効化するものではない。しかし、それらは確実に、その後の自己形成に強く作用する。言葉の選び方、気後れしない身のこなし、自分が世界の中心から排除されていないという感覚、失敗しても世界が完全には崩れないという無意識の余裕。それらはすべて、「能力」の形成にとって重要な土台である。
ところが、上に立つ者の資質を語る場面では、しばしばこの土台が消える。表に出てくるのは、決断力、胆力、責任感、気迫、そして運命を引き受ける器量である。たしかにそれらは重要だ。だが、そうした資質を支える前提条件があまりにきれいに沈黙しているとき、私はそこに自己正当化の気配を感じる。もちろん、これは「恵まれている者は黙れ」という意味ではない。問題は、恵まれていることそれ自体ではなく、その恵まれが語りのなかで透明化されることである。
ここで起きているのは、身分の新しい翻訳である。現代では、家柄そのものをあからさまに誇ることはしにくい。その代わりに、教育歴、教養、知性、経営能力、人格的成熟、節度、品位といった語彙が前面に出る。これらはたしかに個人の努力や鍛錬に関わる。しかし同時に、それらは家庭環境や教育機会や周囲の文化水準に強く依存している。つまり、かつて家柄が直接保証していたものを、現代では「能力」と「品格」が代行しているのである。
だから、執行草舟のような語りが私にとって引っかかるのは、彼の思想が単に能力主義だからではない。それが、卓越と格式への美学を伴いながら語られるからである。上に立つ者は単に有能であるだけでなく、何かしら高貴なものを帯びているかのように見える。この美学そのものを私は全面否定しない。むしろ人は、ある種の卓越に惹かれる。だがその卓越が、実際には厚い環境的優位の上に組み立てられている可能性が高いにもかかわらず、あたかも純粋な人格的勝利であるかのように語られるとき、私はそこに強い違和感を覚えるのである。
この違和感を、ルサンチマンとして片づけることは簡単である。負けた者が勝者を妬んでいるだけだ、と。しかし私が問題にしたいのは妬みではない。語りの構造である。誰でも社長になれるわけではない、という命題を私は否定しない。だが、その「誰でも」という言葉の内側には、最初から社長に近い位置にいる者と、そうでない者との大きな差が潜んでいる。世界のなかで自然にふるまえる者と、最初から気後れしてしまう者。失敗しても再挑戦できる者と、一度の失敗が致命傷になる者。周囲に経営や教養のモデルがある者と、そうでない者。こうした差は、いわゆる努力以前の地点にすでに存在している。
その意味で、メリトクラシーは平等社会の原理として語られながら、しばしば実態としては階級社会の翻訳語になる。身分は消えたのではない。能力の語彙へと転写されただけなのではないか。私はこの疑いを捨てることができない。もちろん、能力が完全な虚構であるわけではない。本当に有能な人間はいるし、上に立つべき人間もいる。だが、その有能さがどこから来たのかを問わずに、その人間の地位だけを見て「やはり選ばれた者なのだ」と言ってしまうとき、社会はたちまち自己神話に満ちたものになる。
私は、上に立つ者が自分の地位を誇ること自体を問題にしているのではない。問題は、その誇りがしばしば道徳の語彙を帯びることである。自分はここまで来た、だから正しい、自分は重い責任を担っている、だから価値がある、自分は選ばれた側にいる、だから発言に重みがある。こうした語りは、現代のメリトクラシーにとって非常に自然なものだが、同時にとても危うい。なぜならそこでは、結果として得た位置が、そのまま人格的な正しさの証明へと変換されてしまうからである。
ここに、保守的能力主義の最大の誘惑がある。上に立つことを機能的必要性としてではなく、存在論的な高さとして語れてしまうこと。私はその誘惑に抗いたい。能力差を認めることと、存在の序列を認めることは別である。その別を守れなくなったとき、メリトクラシーは公平な選抜原理ではなく、勝者の自己正当化の装置へと変わっていく。私が執行草舟の語りに感じる違和感は、まさにその変質の匂いに由来しているのである。
第三章 サンデルを読んで見えてくる「実力」の汚染
マイケル・サンデルの『実力も運のうち』が突いているのは、まさにこの点である。問題は、能力差があるかないかではない。能力差が存在することは、現実を見れば分かる。理解の速さ、持続力、知的好奇心、身体的な強さ、人を束ねる力、冷静さ、表現力。そうした差はある。だが、サンデルが問うのは、その差を本人の純粋な手柄としてどこまで語ってよいのか、という点である。そして私は、この問いの鋭さをどうしても無視できない。
たとえば、努力できること自体がすでに一つの資源である。長時間集中できる身体と心を持っていること、勉強することに意味を感じられること、結果が出るまで耐えられること、失敗しても立て直せること、そうしたものは裸の自由意志から生まれるわけではない。そこには家庭環境があり、教育があり、生活の安定があり、周囲の期待があり、文化資本がある。努力は美しい。だが、努力できる土台が配られているという事実を見ないで、努力だけを称揚することはできない。
能力も同じである。試験に強いこと、言葉を整えて話せること、面接で落ち着いて自分を表現できること、抽象的な議論を楽しめること、そうした力はすべて、家庭や教育の影響を強く受ける。しかも厄介なのは、こうした資質ほど、現代社会では「本人の実力」として表示されやすいことである。すると、資本や環境の効果は舞台裏に退き、舞台の上には「本人の才能と努力」だけが残る。私はこの仕組みを、実力概念の汚染と呼びたい。実力はある。しかし、それは最初から不純なのである。
ここで言う汚染とは、実力が偽物だという意味ではない。そうではなく、実力がそれ単独で成立しているわけではない、という意味である。成績が良い、資格を取る、仕事ができる、判断が早い、そうした能力はたしかに本人の内部にある。しかしその内部そのものが、長い時間をかけて外部によって形成されている。家庭、学校、地域、経済的余裕、失敗の許容量、周囲の読書文化、会話の水準、そうしたものが積み重なって、その人の「内面」や「能力」ができあがっている。だとすれば、その能力を丸ごと本人の道徳的手柄として語ることはできない。
サンデルの議論が恐ろしいのは、これが分配の問題にとどまらないことである。メリトクラシーは、勝者に傲慢を、敗者に屈辱をもたらす。自分が勝ったのは自分の実力だからだと思えば、人は自分を過剰に誇りやすくなる。逆に、自分が負けたのは自分に足りないものがあるからだと思えば、人は必要以上に自分を恥じやすくなる。しかしもし、勝ち負けの土台にすでに運や資本や環境が深く食い込んでいるとしたら、この傲慢も屈辱も、その多くは社会が作り出した過剰反応ではないか。私はそこに、メリトクラシーのもっとも残酷な側面を見る。
だから私が批判したいのは、能力そのものではない。能力を語るとき、その背後にある配牌が忘れられることである。現代の能力主義は、家柄の露骨な肯定を避けながら、家柄や資本や環境の効果を別の語彙で保存している。そしてその保存を、本人の努力と人格の物語で包み込む。ここに私は、現代社会のもっとも洗練された欺瞞の一つを見るのである。
能力はある。しかし、その能力は誰のものか。実力はある。しかし、その実力はどこから来たのか。この問いは、メリトクラシーの正義感に冷水を浴びせる。だがその冷水なしに、私はこの社会の能力主義を信用することができない。努力や実力を語る言葉のなかに、少しでも運と配牌の影を差し戻さなければ、そこには勝者の自己神話しか残らないからである。
私は能力差を否定したいのではない。社会主義のように差異を見ない世界に憧れているわけでもない。ただ、能力を語る言葉が、その背後にある資本の沈黙を隠してしまうことに耐えられないのである。そして、その沈黙の上にさらに「燃焼せよ」「運命を引き受けよ」といった言葉が積み上がっていくとき、私はますます白けてしまう。社会がかなりの部分で配分によって動いていると知ったあとで、なお実力の神話を信じよと言われても、私はもう素直に頷くことができないのである。
第四章 燃焼せよ、という言葉への退屈
能力主義への違和感をもう少し押し進めていくと、私はやがて別のところで立ち止まることになる。それは、「努力せよ」「挑戦せよ」という新自由主義的な語彙だけではなく、「運命を受け入れよ」「生命を燃焼させよ」といった、もっと高い調子の言葉に対する退屈である。こうした言葉には、たしかに魅力がある。実利や効率や損得を超えて、自らの生を賭けること、安定よりも気迫を選ぶこと、与えられた運命のなかでそれでもなお立ち上がること。そうした響きに、人は惹かれる。私も、それをまったく理解できないわけではない。
だが、どこかで私は白けてしまう。なぜなら、そうした言葉が前提している主体が、私にはあまりに無傷に見えるからである。運命を受け入れろ、と言う。しかしその運命のかなりの部分は、すでに資本、家庭環境、教育、文化資本、時代、出会い、身体の条件、偶然によって書かれているのではないか。生命を燃焼させろ、と言う。しかし、その燃焼は誰にでも同じように許されているのだろうか。燃焼してもなお戻れる者と、一度の燃焼で生活ごと崩れる者とでは、同じ「賭け」の言葉を使っていても、その重さはまるで違う。
私がうんざりしているのは、努力の倫理そのものではない。決定論的な社会の上に、なお魂の燃焼だけを説く言葉の空虚さである。社会はかなりの部分で配牌によって動いているように見える。誰がどの学校に行けるか、どれだけの失敗が許されるか、どの程度まで回り道ができるか、どのような自己像を自然に持てるか、そのかなりの部分は本人が選んでいない。にもかかわらず、最後の最後だけが「覚悟」の問題として語られる。ここに私は、ある種の演出過剰を感じる。
しかも厄介なのは、この種の言葉がしばしば、恵まれた側から発せられることである。もちろん、恵まれている者が苦悩しないわけではない。富裕層にも不安はあるし、上層にも孤独はある。しかし、構造的に優位な位置にいる者が自らの生を語るとき、その語りはしばしば、自分の優位を「運命との格闘」として美しく翻訳する。ここに、私の白けの源泉がある。私はその美しさをまったく否定したいわけではない。だが、その美しさのなかに、最初から与えられていた足場の厚みが消えてしまうとき、言葉は急に信用を失うのである。
この感覚は、執行草舟のような思想家の語りに対して強く働く。彼らの言葉はたしかに強い。運命、気迫、選ばれた者、上に立つ責任、燃焼。だが私には、その強さのなかに、社会の決定性への鈍感さが混じって見える。いや、鈍感さと言うよりも、もっと複雑なものかもしれない。構造が見えていないのではなく、見えていてなお、それを実存のドラマのなかへ回収してしまうのである。配牌の差、資本の差、文化資本の差、失敗許容度の差、そうしたものが実際には重く作用しているにもかかわらず、最終的には「それでも燃えよ」という言葉に集約される。この集約の仕方に、私はどうしても納得できない。
要するに、語りだけが自由意志を前提にしているのである。社会はかなり決定論的に動いているように見えるのに、言葉だけがあたかも人間をまっさらな主体として扱っている。この落差が、私にはひどく空疎に感じられるのである。ここで言う退屈とは、単に飽きたという意味ではない。言葉が現実の複雑さを十分に引き受けていない、という感覚である。もっと端的に言えば、もうその言葉に素直には乗れない、ということである。
もちろん、こうした言葉がまったく無効だと言いたいのではない。人は構造だけでは生きられない。どれほど社会が配分によって動いているとしても、毎日を引き受けるには、何らかの物語や意味づけや覚悟の言葉が必要になる。人間は、統計的事実だけを食べては生きられないからである。その意味では、「燃焼せよ」という言葉にも役割はある。問題は、その言葉が構造認識を通過したあとでなお有効でありうるかどうかである。
私の白けは、そこから来ている。配牌の偏りを見たあとで、なお素朴な情熱を称えることはできるのか。資本が能力形成に深く入り込んでいると知ったあとで、なお「運命を引き受けよ」と言えるのか。あるいはその言葉は、すでに足場を持っている者にとってだけ、有効な美学にすぎないのではないか。私には、その問いがどうしても残るのである。
ここで重要なのは、私が単純な虚無に落ちたいわけではないということである。どうせ全部決まっている、だから何をしても無駄だ、と言いたいのではない。そうではなく、決定論的な社会を知ったあとでなお使える言葉は何か、という問いにこだわっているのである。つまり私が問題にしているのは、情熱の否定ではなく、情熱の言葉の信憑性である。信じられない言葉で自分を励ましたくない。ただそれだけのことである。
そう考えると、私が退屈しているのは、実のところ実存主義のレトリックそのものなのかもしれない。能力主義は社会的な条件を個人の能力へと回収する。燃焼の倫理は同じ条件を個人の覚悟へと回収する。この二つは対立しているように見えて、じつはよく似ている。どちらも最終的には、社会の決定性を個人の内面に吸収してしまうからである。だから私は、そのどちらにも完全には乗れない。配牌を見たあとでは、もはや素朴な努力信仰にも、素朴な実存の美学にも戻れないのである。
第五章 決定論はニヒリズムか
こうした醒めた感覚を考えていくと、やがてニヒリズムという言葉にぶつかる。制度への不信が、そのまま自分の内面の問題へ折り返してくるからである。私は最近、この世界がかなり決定論的に動いているのではないか、と感じることが多い。そして、その感覚が自分の虚無感と結びついているようにも思う。では、決定論的な世界観そのものがニヒリズムなのだろうか。私は最初、そのように考えた。だが少し整理してみると、話はそう単純ではない。
ニヒリズムの核心は、単に「すべてが決まっている」という認識ではない。むしろ、それは価値を支える言葉が信用できなくなることにあるのではないか。努力、尊厳、自己形成、覚悟、誠実、そうした言葉が、現実の構造の前でどこか嘘っぽく見えてしまうとき、人は虚無に近づく。つまりニヒリズムとは、意味がまったく存在しないという形而上学的断言ではなく、意味を語る言葉が現実に対して空疎に感じられる状態なのではないか。
この区別は重要である。世界が必然で成り立っていると考えても、そこから直ちに虚無が生まれるわけではない。たとえばスピノザは、世界を徹底して必然の体系として捉えながら、それをそのまま絶望には結びつけなかった。必然を理解し、そのなかで自分の位置と働きを見極めることは、必ずしもニヒリズムではない。むしろ、必然の理解を通して感情の乱れを整えようとする態度もある。だから、決定論そのものとニヒリズムを同一視することはできない。
それでも私が決定論にニヒリズムの匂いを感じるのは、現代社会においてこの決定論が宇宙論としてではなく、配牌の問題として現れるからである。私たちは、星の運行の必然に絶望しているわけではない。そうではなく、自分の人生のかなりの部分が、生まれた家庭、資本、教育、文化資本、身体、時代によって左右されているように見えることに、冷たさを感じているのである。しかもその冷たさの上で、なお努力や情熱の言葉が無傷のまま流通している。ここに、現代的なニヒリズムの特殊なかたちがある。
私は、ニヒリズムとは意味の喪失ではなく、意味を支える言葉への信用の喪失なのではないかと思う。努力という言葉そのものが嫌いなのではない。だが、その努力が実際にはどれほど資本に支えられているかを見たあとでは、努力を道徳的な純粋物として扱う言い方に、もう素直にうなずけない。覚悟という言葉そのものが嫌いなのでもない。だが、その覚悟がどれほど配牌の差を前提しているかを思うと、すべてを実存のドラマに回収する言い方に、もうそのまま乗れない。こうして私は、価値の言葉に対して一歩退いた位置に立ってしまう。この退き方こそが、私の感じている虚無感の実体なのかもしれない。
そしてこの虚無感は、単に思索の副作用ではない。社会の側がそれを生み出している。勝者は「自分はそれに値する」と感じ、敗者は「自分には足りないものがある」と感じる。しかしその勝敗の背後には、すでに大きな配牌の差がある。そうすると、勝者の誇りも敗者の屈辱も、どこか過剰に見えてくる。にもかかわらず社会は、その過剰さを訂正するどころか、さらに「自己責任」や「自己実現」といった語彙で増幅する。この増幅された道徳空間のなかで、私は価値の言葉そのものを疑いたくなる。つまり、ニヒリズムは個人の気分ではなく、社会的な装置によっても生み出されているのである。
もっとも、ここで「どうせ全部が嘘なのだ」と言ってしまえば、それはそれで安易である。私が探しているのは、価値を全面的に解体することではない。むしろ、嘘っぽくない言葉を探すことである。構造の決定性を知ったあとでなお、どの程度まで価値の言葉は生き延びられるのか。その問いを抜きにして、単純にニヒリズムへ滑り落ちるのも、私にはどこか知的に怠惰に感じられる。
ここで分かれ道がある。決定論を見て、「どうせ全部決まっている。だから何も意味がない」と言う道と、「大きな配牌はある。だがそのなかで、なおどの程度まで反応の仕方を整えられるかを考える」という道である。私はまだ、そのどちらにも完全には立てていない。虚無の誘惑を感じつつも、そこに全面降伏したいわけでもない。だからこそ、ニヒリズムという言葉を、自分の思考停止のためではなく、価値の言葉への不信を記述するために使いたいのである。
私が感じているのは、世界が無意味だという断定ではない。世界を意味づける言葉が、現実の構造の前で信用しにくくなっている、という事態である。この事態をどう引き受けるかが、今の私にとっての問題である。ニヒリズムを乗り越える、などと大きなことは言えない。ただ、意味の言葉に対するこの不信を、単なる自暴自棄にも、安易な熱狂にも変えずに持ちこたえられるかどうか。それがいま私にとっての小さな課題なのである。
第六章 資本の偏りは熱力学第二法則に似ているのか
私はこの感覚を考えているうちに、ある奇妙な比喩にたどり着いた。資本が人生を決定づける確率や要素が大きいという現実は、どこか熱力学第二法則に似ているのではないか、という感覚である。もちろん、これは社会を物理法則にそのまま置き換えるという意味ではない。社会は制度によって変わりうるし、人間の行為は分子運動ではない。それでもなお、マクロで見たときに現れる冷たい傾向のようなものを考えるとき、私はどうしてもエントロピーという言葉を思い出してしまう。
熱力学第二法則において、閉じた系ではエントロピーは増大する。秩序だった状態は保つのが難しく、放っておくと拡散し、偏りは別の形で固定され、不可逆性が増していく。もちろん、社会は単純な閉鎖系ではない。しかし、不確実な個人の競争が集まったはずの世界が、全体として見ると驚くほど規則正しく資本に有利な方向へ傾いていくのを見るとき、私はそこに物理法則めいた退屈を感じるのである。人生は一つひとつ見れば偶然に満ちている。誰が成功するかは読めず、誰がどこで転ぶかも分からない。にもかかわらず、社会全体をマクロで眺めると、資本は教育、文化資本、ネットワーク、再挑戦の機会を通じて、きわめて規則的に自分の優位を再生産しているように見える。
この感覚は、たんに格差があるという以上のものである。個人レベルでは不確実であるにもかかわらず、集合的には偏りが再帰的に増幅される。その冷たさに私は白ける。努力せよと言われても、その努力が成功に結びつく確率は配牌によって大きく違う。燃焼せよと言われても、その燃焼が生活の破綻に直結するかどうかは、やはり資本によって違う。つまり個々の人生は偶然と不確実性に支配されているように見えながら、全体としてはかなり規則正しく、資本に有利なかたちへと収束していく。この「局所的不確実性と全体的規則性」の組み合わせが、私にエントロピー的な感覚を与えるのである。
ただし、ここで比喩を暴走させてはならない。社会における資本の偏りは自然法則ではない。税制、教育政策、相続制度、福祉、雇用慣行、文化規範、公共投資、そうしたものによってかなり変えうる。物理法則のように絶対ではない。だから私は、「社会にはエントロピーがある」とは言いたくない。そうではなく、資本主義社会には、放置すると有利が有利を呼び、不利が不利を呼ぶ累積傾向がある、と言いたいのである。その傾向の冷たさが、熱力学第二法則を連想させるのである。
この比喩が私にとって重要なのは、それがニヒリズムの感覚ともつながるからである。もし世界が完全な無秩序なら、人はまだ偶然に賭けることができる。だが、表面上は不確実に見えながら、マクロではかなり冷たい規則性が働いているとしたらどうか。そこでは、人は「可能性が開かれている」と言われながら、実際にはかなり偏った地形の上を歩かされることになる。このとき、「自由」「挑戦」「実力」といった言葉は、単なる理想ではなく、地形の偏りを覆い隠す霧のように感じられてくる。私はこの霧のような語りに耐えられないのである。
しかも、この冷たい規則性は、人間の内面にも作用する。上に行った者は、自分の成功を純粋な能力の結果として物語りやすくなる。下にとどまった者は、自分の停滞を純粋な失敗として引き受けやすくなる。こうして、資本の偏りは経済的な格差だけでなく、誇りと恥の配分までゆがめていく。私はこの二重の作用に、メリトクラシーのもっとも深い残酷さを見る。金銭だけでなく、尊厳の感覚までが配牌によって左右され、それがなお「実力」の名のもとに正当化されるのである。
人生は不確実に見える。だが社会をマクロで見れば、資本は驚くほど規則正しく有利に働いている。この冷たい規則性に、私は熱力学第二法則のような退屈を感じる。ここで言う退屈とは、世界が単純だという意味ではない。むしろ逆である。個々の人生は複雑で、予測不能で、偶然に満ちている。だがその偶然の集積が、全体として見るとあまりにも同じ方向へ偏っていく。その偏り方があまりにきれいすぎるために、私はそこに冷たさを感じるのである。
それでもなお、社会は物理系ではない。この留保を忘れてはならない。だからこそ、人は制度を変えようとし、教育を拡充し、配牌の偏りを少しでも緩和しようとする。その可能性がゼロではないという点で、社会はまだ完全な決定論ではない。だが、可能性がゼロでないことと、現実に傾向が強いことは別である。私が感じている虚無感は、完全な絶望から来ているのではない。少しは動くのに、大きくは変わらないという、この中途半端な決定性から来ているのかもしれない。完全に閉ざされていれば諦めもつく。だが、少しは開かれているように見えるからこそ、人はその開放性に責任を感じ、そして傷つく。現代の疲労は、この微妙な開き方のなかにあるのではないか。
そう考えると、私のなかでメリトクラシー批判、決定論、ニヒリズム、そしてエントロピーの比喩は、一つの感覚へと収束していく。それは、人生が不確実であるにもかかわらず、社会がマクロではかなり冷たい規則性を持っていることへの違和感である。そして、その違和感の上でなお「燃焼せよ」「努力せよ」「挑戦せよ」と言われることへの白けである。私はたぶん、可能性の否定に絶望しているのではない。可能性の語りが現実の地形を十分に引き受けていないことに、退屈しているのである。
第七章 本能への白け——性的情熱が萎えるとき
ここまで私は、メリトクラシー、配牌、決定論、ニヒリズム、そしてエントロピーの比喩について書いてきた。だが、この問題は社会思想や制度論の内部だけにとどまっているわけではない。制度への違和感は、そのまま身体感覚の側にも折り返してくる。むしろ最近の私にとって切実なのは、こうした構造への視線が、自分自身の情熱のあり方にまで及んでいることである。社会を眺めるときのメタ視点が、いまや欲望の場面にも侵入している。話は少し逸れるようでいて、実は同じところにつながっている。私が最近感じつつある虚無感の一つは、性的な情熱への萎えである。
性的な欲望を感じるとき、そこにはたしかに熱がある。動物的な衝動、身体のざわめき、相手に向かっていく力、そうしたものは偽りなく存在する。ところが、そのただなかで私はふと冷めることがある。どこか内なる声が、「動物だな」と呟くのである。しかもその声は、単なる道徳的嫌悪ではない。もっと冷たい観察に近い。いま自分は遺伝子に乗せられているのではないか、本能に作動させられているのではないか、この情熱はほんとうに私のものなのか、という感覚である。
ここで重要なのは、私が性欲そのものを否定したいわけではないということである。欲望はあるし、それは生物として自然なことである。むしろ問題なのは、その自然さが露骨に見えた瞬間に、情熱が少し白けてしまうということである。自分が何か高貴なものに動かされているのではなく、きわめて古い生物学的プログラムに沿って作動しているだけなのではないか、と感じた途端に、熱が冷える。もちろん、そんなことを言い出せば食欲も睡眠欲も承認欲求も同じではないか、という反論は成り立つ。だが、それでもなお、性的情熱に対してはとりわけ「これは動物だ」という感覚が差し込みやすい。
この白けは、単なる禁欲の美学でもなければ、道徳的潔癖でもない。むしろ、私のなかで進んでいる構造認識の延長線上にある。社会に対しては、資本、家庭環境、文化資本、配牌、制度といった要因が人生をかなり決めているように見える。そして身体に対しては、今度は本能や遺伝子や生物学的衝動が、私の感情や欲望をかなり先回りしているように見える。つまり私は、自然に回収される情熱にも、社会に回収される努力にも、少し白けてしまっているのである。
ここに、私の最近の虚無感の特殊さがある。仕事に向かおうとすれば、今度は決定論的なメリトクラシーが待っている。努力しよう、成長しよう、責任を担おう、と気持ちを立て直そうとすると、その背後にある配牌の偏りや資本の厚みが見えてしまう。どうせこのゲームは最初からかなり偏っているのではないか、という感覚が差し込む。すると、仕事への意欲もまた冷える。かといって、欲望の側へ身を任せようとすると、今度は「動物だな」という冷たい自己観察が入る。つまり私は、自然に引き寄せられても冷め、社会に参加しようとしても冷める、という二重の白けのなかにいる。
これは厄介である。なぜなら、人間が生きるエネルギーの大部分は、ざっくり言えば、この二つ——欲望と社会的動機——から来ているからである。愛情、性欲、承認欲求、競争心、成長意欲、達成感、責任感、そうしたものが絡み合って、人は毎日を動いている。ところが私のなかでは、そのどちらにもメタ視点が差し込み、熱を冷却してしまう。結果として私は、何かに没入する前に、その何かの背後にあるメカニズムを見てしまう。そして、その見え方に萎える。
この萎えを、単純に知性の勝利と呼ぶことはできない。むしろそれは、知性が情熱をうまく導けず、ただ冷却ばかりしている状態に近い。見抜くことはできる。だが、見抜いたあとでどう生きるかがうまく分からない。そこに、私の最近の疲労がある。性的情熱を感じれば、それを動物的衝動と見て白ける。仕事に気持ちを向ければ、それを配牌ゲームと見て白ける。結局、熱が立ち上がるたびに、その熱の外側から説明が差し込んできて、自分を冷やしてしまうのである。
だが、ここで少し留保を置いておきたい。生物学的であることは、それだけで価値を失うことではない。性的欲望が遺伝子に支えられているからといって、それが即座に下劣になるわけではない。同じように、仕事への意欲が承認欲求や競争原理や制度的誘導に支えられているからといって、それが直ちに虚偽になるわけでもない。本来なら、私たちはもっと混ざった存在である。生物学的衝動と文化的形成、社会構造と個人の癖、その混ざりものとして生きている。にもかかわらず、私は最近、その混ざりものを混ざりものとして許容する前に、「結局これは何によって動かされているのか」という問いを入れすぎているのかもしれない。
そうだとすれば、私の白けの本質は、性欲そのものや仕事そのものへの嫌悪ではなく、それらを純粋なものとして受け取れなくなっていることにある。私はもはや、欲望をただ欲望として、努力をただ努力として味わうことができない。どちらにも、構造か本能かの影が差している。その影を見てしまうこと自体は、ある種の認識の進展なのかもしれない。だが、進展した認識がそのまま生の力になるとは限らない。むしろそれは、ときに行為の熱を奪う。私はいま、そのことを自分の身体の側で思い知らされているのである。
第八章 私は他責的なのか——説明の過剰と行為の冷却
こうした状態にいると、私はしばしば自分に対して一つの疑問を向けるようになる。私はただの他責的な人間なのではないか、という疑問である。遺伝子のせい、資本のせい、家庭環境のせい、文化資本のせい、制度のせい。そうやって何でも外部要因で説明し、自分が引き受けるべきものから逃げているだけなのではないか、と。たしかに、そう見える瞬間はある。構造や本能を語ることは、ときに便利な免罪符に見えうるからである。
だが、少なくとも私の内側で起きていることを丁寧に見てみると、もう少し違う気がする。私は単純に責任を外へ押しつけたいわけではない。むしろ逆で、かなり誠実に見すぎているのである。見なくてもよいところまで見てしまう。欲望が生じれば、その背後にある生物学的プログラムを見てしまう。努力しようとすれば、その背後にある配牌の偏りを見てしまう。何かに乗ろうとするたびに、その何かを支えている説明が割り込んでくる。だから熱が立ち上がらない。いま起きているのは、責任感の欠如というより、説明の過剰ではないかと思う。
私は他責的なのではない。世界の説明が先に見えすぎて、行為の熱が立ち上がりにくくなっているのである。これは、かなり厄介な状態である。なぜなら、説明それ自体はかなり当たっているからだ。資本が人生に大きな影響を与えるのは事実である。遺伝子や本能が欲望に深く関わっているのも事実である。家庭環境や文化資本が能力形成に作用するのも事実である。私は空想に取り憑かれているのではなく、ある程度もっともらしい説明を見ている。問題は、その説明の正しさが、そのまま行為の力を奪ってしまうことである。
ここで生じているのは、認識と行為のねじれである。認識としてはかなり筋が通っている。だが、その筋の通り方が、いざ動こうとするときには足枷になる。世界は決定論的な要因に大きく規定されている、と考える。すると、その考えはたしかに多くの現実を説明してくれる。だが、説明できることと、生きることは別である。説明が正しいからといって、それがそのまま前に進む力になるわけではない。むしろ説明が過剰になると、人は行為のたびにメタ化してしまう。いま自分は何に動かされているのか、これはほんとうに自分の意思なのか、その意思はどこまで配牌に規定されているのか。そうやって一歩引くたびに、エネルギーが削られていく。
この意味で、私は「自由がないから苦しい」のではないのかもしれない。むしろ、「自由がどこまであるのかを考えすぎて、動けなくなる」ことが苦しいのである。自由意志の全面否定に納得しているわけでもない。だが自由意志の全面肯定にも乗れない。その中間で、私は自分の行為をつねに検閲してしまう。欲望に対しても、努力に対しても、「それは本当にお前のものか」という声が差し込む。この内なる検閲が、私を消耗させる。
他責かどうかを考えるとき、本来なら焦点にすべきは、責任の分配であるはずだ。どこまでが自分の課題で、どこから先は環境や制度の課題なのか。その切り分けができれば、もう少し楽になるのかもしれない。だが実際には、その切り分け自体が難しい。なぜなら、人間の行為は、ほとんどいつも混ざりものだからである。個人の努力と環境要因、欲望と倫理、偶然と選択、制度と性格、そのどれもが純粋には分離できない。にもかかわらず私は、ときどきその混ざりものをきれいに仕分けようとしてしまう。ここまでは自分、ここからは構造、と。しかしそんな境界線は、たいていの場合、後から引かれるものでしかない。
すると、他責か自責かという二択自体が、少し雑なのかもしれない。私はすべてを外部のせいにしているわけではない。かといって、すべてを自分で引き受けられるとも思っていない。むしろ私は、構造や本能を見抜いたあとで、なお何を自分の態度として引き受けられるか、その問いの前で立ちすくんでいるだけなのだと思う。だが、この問いは深すぎる。正しすぎて、動きを止めてしまう。だから最近の私は、そこまで大きく問うこと自体に疲れている。
いま必要なのは、正しい自己評価よりも、もう少し小さな理解かもしれない。私は責任感がないのではない。むしろ、説明が先に見えすぎて、行為の純度を求めすぎているのである。本能に動かされるなら、それは偽物ではないか。構造に規定されているなら、努力は欺瞞ではないか。そうやって純粋さを求めるほど、人は動けなくなる。しかし人間は、そもそもそんなに純粋には生きていない。少し本能に押され、少し文化に整えられ、少し見栄で動き、少し誠実さで踏みとどまる。その混ざり方のなかでしか、生は進まない。私はたぶん、その当たり前の混ざり方を、最近うまく許せなくなっているのである。
だから、私の課題は他責かどうかを裁くことではない。説明の正しさを認めつつ、その説明が行為を全部冷やしてしまわないようにすることのほうである。言い換えれば、構造認識と行為可能性のあいだに、細い通路を作ることである。どれだけ配牌が偏っていても、どれだけ本能に駆動されていても、そのなかでなお自分がどう反応するかは、わずかには残っている。そのわずかさを過大評価せず、しかしゼロにもせずに扱うこと。それができなければ、私は説明の正しさに押し潰され、やがて虚無のほうへ滑っていってしまうだろう。
第九章 それでも、どういうふるまいはしたくないか
とはいえ、「構造や本能を見抜いたあとで、なお何を自分の態度として引き受けられるか」と問うことは、やはり重すぎる。深い問いではある。だが、深い問いはしばしば人を止める。少なくとも最近の私には、その問いを真正面から掲げるだけの力がない。考え始めるとすぐに総論へ行き、総論へ行くとすぐに疲れる。そこで最近、私は問いの立て方を少し変えたほうがよいのではないかと思うようになった。
私は何を信じるかはまだ分からない。だが、どういうふるまいはしたくないかは少し分かる。この言い方のほうが、今の私にはしっくり来る。信じるものを決めるのは難しい。努力をどこまで信じてよいのか、欲望をどこまで肯定してよいのか、自由意志をどの程度まで認めてよいのか、そのどれにも私はまだ確信がない。だが、嫌なふるまいについては、わりと輪郭がある。欲望に乗るとしても、下品にはなりたくない。仕事をするにしても、勝者ヅラはしたくない。構造を語るにしても、冷笑だけにはなりたくない。負けるにしても、全部を他人のせいにはしたくない。こうした否定形の倫理なら、まだ少し考えられる。
この否定形には、利点がある。大きな理想を掲げなくてよいことである。いまの私には、何をめざすべきかより、何にだけは乗りたくないかのほうがはっきりしている。これは消極的に見えるかもしれない。だが、構造を見抜きすぎて総論に疲れた人間にとっては、この消極性はむしろ救いである。少なくとも、「どう生きるべきか」という最終問題の前で凍りつくよりは、「こういうふるまいだけはしたくない」と絞ったほうが、まだ動ける。
ただし、ここにも罠がある。否定の倫理だけで生きようとすると、やがて消耗するのである。私はすでに、そのことをかなり思い知っている。見抜く。抗う。イライラする。疲れる。虚無になる。この循環がある。構造の不正義に腹を立て、言葉の欺瞞に白け、下品さや傲慢さや凡庸な残酷さに反発する。その反発そのものは、まだ価値判断が生きている証拠である。だが、毎回すべてに反応していては、身がもたない。全面的に信じられない世界に対して、毎回全面的に抗おうとすると、人は簡単に摩耗する。
だから本当に重要なのは、「何に抗うか」だけではなく、「どこで抗うのをやめるか」なのかもしれない。これは敗北宣言ではない。むしろ生き延びるための作法である。全部に腹を立てれば、全部に負ける。すべてを問題にすれば、すべてに消耗する。私は最近、その当たり前のことをようやく受け入れつつある。世界を肯定しないことと、世界への反発で自分をすり減らしすぎないことは、両立しうるはずである。
この感覚は、仕事にも欲望にも同じように当てはまる。メリトクラシーを信じ切らない。しかし、そのたびに怒りで全身を焼かない。欲望を神聖視しない。しかし、そのたびに自己嫌悪で切り刻まない。構造を見抜く。しかし、毎回それを世界の終わりのように扱わない。つまり、全面的には信じないが、全面的にも争わない、という態度である。これは中途半端に見えるかもしれない。だが、私のように説明の過剰に苦しみがちな人間にとっては、この中途半端さこそが必要なのかもしれない。
私は何を信じるかはまだ分からない。だが、どういうふるまいはしたくないかは少し分かる。そして、その否定の倫理さえ、放っておけば私を消耗させることも知っている。となれば、次に必要なのは、正しい態度を完成させることではなく、虚無に落ちにくい態度を探すことだろう。正しく抗うことよりも、消耗しきらないこと。純粋であることよりも、混ざったまま崩れないこと。そのくらいの目標のほうが、いまの私には合っている。
世界はかなり決まっている。欲望もかなり本能に支えられている。努力もかなり配牌に左右されている。そうした認識を捨てるつもりはない。だが、その認識の正しさだけで生きていくことはできない。だから私は、少なくとも一つだけ言えることを残したい。私は、凡庸な残酷さには加担したくない。勝ったことをそのまま人格の証明にはしたくない。負けたことをそのまま存在の失敗にはしたくない。欲望を感じるとしても、それを雑に扱いたくない。構造を語るとしても、冷笑だけにはしたくない。その程度の小さな否定からしか、いまの私は始められないのである。
大きな答えはない。むしろ大きな答えを急ぐほど、私はまた思考停止するだろう。だからいま必要なのは、解決ではなく仮置きである。世界の決定性も、本能の冷たさも、完全には消えない。その上でなお、どの反応の仕方だけは自分で嫌だと思うのか。その輪郭を少しずつ確かめていくしかないのではないか。そして、そのような小さな否定の積み重ねだけでも、人はなお自分の生を自分のものとして引き受けうるのであろうか。
終章 構造を見たあとで、なお引き受けうるもの
ここまで書いてきて、私はようやく一つのことだけははっきりしてきた。私は能力主義を全面的に否定したいわけではなかったし、社会主義的な平板さに救いを見ているわけでもなかった。責任の重い仕事には能力が必要であり、役割には差があり、向き不向きがあり、人はまったく同じではない。その現実を私は否定したいのではない。否定したかったのは、そうした差異を語る言葉が、あまりにも無垢であることだった。実力、努力、覚悟、燃焼。そうした言葉の背後に、配牌の偏り、資本の厚み、文化資本の沈殿、失敗許容度の差、本能の作動、そうしたものがあまりにも静かに隠されていることに、私は耐えられなかったのである。
執行草舟のような語りに私が引っかかったのも、結局はそこだった。上に立つ者が上に立つにふさわしい器を持っている、ということ自体は否定しきれない。だが、その器がどこから来たのか、その器を支える環境がどれほど厚かったのか、その問いを抜いたまま卓越だけを語るとき、言葉はたちまち自己神話の匂いを帯びる。私は、その匂いを敏感に嗅ぎ取ってしまう。そしてサンデルを読みながら再確認したのも、能力を語ることそのものではなく、能力を本人の裸の手柄として語ることの欺瞞であった。実力はある。しかし、その実力はどこから来たのか。この問いを抜きにした能力主義を、私はどうしても信用できない。
そこからさらに考えていくと、問題は制度論だけではなくなった。社会が決定論的に動いているように見えることへの退屈が生じ、その退屈はやがて「燃焼せよ」という実存の語彙への白けへとつながっていった。配牌がかなり偏っているように見える世界で、なお最後だけが覚悟の問題として語られる。その落差に、私はもう素直には感動できない。しかもその白けは、仕事や競争だけではなく、自分自身の欲望にも及び始めた。性的な情熱のただなかでさえ、「動物だな」という内なる声が入り込み、遺伝子に乗せられている感覚が熱を冷やす。自然に回収される情熱にも、社会に回収される努力にも、私は少しずつ白けていった。
こうして私は、自分がニヒリズムに近づいているのではないかと感じた。だがいま振り返ると、私がほんとうに感じていたのは、意味そのものの消滅ではなかった。むしろ、意味を支える言葉への信用の喪失であったのだと思う。努力という言葉が嫌いなのではない。覚悟という言葉が嫌いなのでもない。ただ、それらの言葉が現実の地形を十分に引き受けていないと感じるとき、私はその言葉を自分の支えとして使うことができなくなるのである。だから私の虚無感は、「すべてが無意味だ」という断定よりも、「意味を語る言葉がもう少し誠実であってほしい」という願いに近かったのかもしれない。
この願いは、ある意味では傲慢なのかもしれない。世界はそこまで誠実にできていない。人はもっと雑な言葉で生き延び、もっと大ざっぱな物語で自分を支えている。それでも私は、信じられない言葉で自分を励ましたくないと思ってしまう。その結果、見抜くことばかりが先に進み、熱が立ち上がるたびに冷たい説明が差し込み、欲望にも努力にも素直に乗れなくなっていった。私は他責的なのではなく、説明が先に見えすぎているのだ、とここまで書いてきたが、それは言い換えれば、説明の正しさに自分の生が追いつけなくなっているということでもあるだろう。
では、その先に何が残るのか。壮大な答えはない。ここまで考えてきてもなお、私は自由意志を全面的に信じることはできないし、能力主義を素直に称賛することもできない。欲望を純粋な生命力として肯定することも、構造を見たあとで「それでも燃えよ」と簡単に言うこともできない。だからといって、すべてを無意味だとして投げ捨てたいわけでもない。おそらく私に残されているのは、もっと小さな態度の単位である。
私は何を信じるかはまだ分からない。だが、どういうふるまいはしたくないかは少し分かる。この言葉は、ここまで書いてきた私にとって、現時点でのもっとも正直な仮置きである。勝ったことをそのまま人格の価値にしたくない。負けたことをそのまま存在の失敗にしたくない。構造を語るとき、冷笑だけにはなりたくない。欲望に動かされるとしても、それを雑に扱いたくない。配牌の偏りを知っているからこそ、凡庸な残酷さには加担したくない。せいぜいそれくらいのことしか、いまの私には言えない。
だが、もしかすると、生きるということは本来その程度のことなのかもしれない。人は完全に自由ではなく、完全に決定されてもいない。努力はたしかに配牌に左右されるが、それでも反応の仕方にはわずかな余地が残る。欲望はたしかに本能に支えられているが、それでもその欲望をどう扱うかには差がある。世界はかなり決まっている。だが、そのかなりの外側にほんの少しだけ残されている余白のなかで、人は自分の態度を整えるほかない。その余白を過大評価するのは欺瞞であり、ゼロだと言い切るのは怠慢である。私がいま立ちたいのは、そのどちらでもない場所である。
だから、構造を見たあとでなお引き受けうるものがあるとすれば、それは大きな理想や純粋な情熱ではなく、反応の仕方の細部なのだろう。私は世界を肯定しない。だが、世界への反発で自分をすり減らしすぎないことは選びたい。私はメリトクラシーを信じ切らない。だが、そのことを理由に他人の努力を嘲笑する側にも回りたくない。私は欲望を神聖視しない。だが、その欲望を単なる動物性として切り捨てることにも、どこかで抵抗がある。そうした細い中間の道は、格好よくはない。英雄的でもない。だが、いまの私にとっては、そういう中途半端さのなかでしか呼吸ができないのである。
ここまで書いてきて、私はようやく、自分が求めていたのは答えそのものではなく、答えの置き方だったのかもしれないと思う。能力主義をどう裁くか、決定論にどう決着をつけるか、欲望をどう肯定するか、そうした大きな問題に最終解を与えたかったわけではない。むしろ、そうした問題の前で思考停止せずに立ち続けるための、小さな足場がほしかったのである。そしてその足場は、おそらく信念の宣言ではなく、嫌なふるまいを少しずつ退けるという消極的な作法のなかにしかない。
私は能力差を否定したいのではない。ただ、その能力を道徳化したくないのである。私は構造を見抜きたいのではない。ただ、その見抜き方を冷笑だけにしたくないのである。私は欲望を消したいのではない。ただ、その欲望を自分の外部にあるメカニズムとして見抜いたあとで、なおどう扱うかを雑にしたくないのである。結局のところ、私にとっての倫理とは、大きな肯定ではなく、雑さへの抵抗なのかもしれない。
世界は配牌によってかなり決まっている。人生は不確実に見えながら、マクロでは資本が有利に働く冷たい傾向を持っている。欲望は本能に支えられ、努力は環境に支えられ、人格は多くの偶然の積み重ねによって形づくられる。それでもなお、私は自分の反応の仕方のすべてを構造のせいにしたくはない。その「なお」に、どれほどの厚みがあるのかは分からない。きわめて薄いものかもしれない。だが、人が生きるとは、その薄さを過大評価せず、しかし見捨てもしないことなのではないか。
もしそうだとすれば、私がこれから問うべきことは、もはや「私は何を信じるべきか」ではないのかもしれない。むしろ、構造と本能を見抜いたあとでなお、どの程度まで自分の反応の仕方を引き受けうるのか、そしてその引き受けは、信念ではなく作法として成立しうるのか——そのことを、私はこれからも問い続けるほかないのではないか。
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