
つづきを展開
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日記
今日の新規性は、就労支援の現場で擦り減る感覚と、ムーアの「何が善か」という問いとが、同じ一つの困難として見えはじめたことである。
支援の現場で消耗するとき、私たちはしばしば「人に尽くすことは善である」という、ほとんど自明に見える前提の上に立っている。困っている人がいるなら助ける。分からないことがあるなら教える。迷っているなら道筋を示す。福祉や就労支援に関わる者であれば、そのような方向に自分を傾けるのはごく自然なことである。実際、私もそうしてきた。初歩的な質問が繰り返される利用者に対して、質問を集め、Q&Aを整え、マニュアルをつくり、シートを統合し、AIによるサポートまで構築した。やるべきことはやったという感覚がある。むしろ、通常業務の範囲をかなり越えて、支援のための環境整備を進めてきたと言ってよい。それでもなお、少し変化球が来るたびに相手は止まり、マニュアルを読まず、すぐに私に質問が来る。そのとき、私は善を行っているはずなのに、なぜこんなにも消耗するのか、という疑問にぶつかるのである。
この疑問は、単なる愚痴ではない。むしろ倫理の中心に近い問いである。善いことをしているはずなのに、その善が別の悪を生むことがある。手助けが依存を強めることがある。配慮が、自力で考える契機を奪うことがある。親切が、相手の不安回避の回路に組み込まれ、結果として「自分で読まず、まず聞く」という行動を固定してしまうことがある。そのとき支援者は、善を積み上げているつもりで、別の側面では相手の自立を遠ざけているのかもしれない。だが、それを単純に「甘やかしだった」と断ずるのも雑である。その時々において答えることには理由があった。急ぎの業務があり、まずは進める必要があり、関係形成の段階では拒絶より受容が優先される局面もあった。つまり、善と悪は白黒の二分法ではなく、状況のなかで揺れ動く。ここで私は、今日読んだムーアの問題意識に引き寄せられるのである。何が善か。その問いは抽象的な観念論ではなく、現場で疲弊した支援者の机の上にそのまま落ちてくる問いでもある。
猫と虎の境界線がないように、善と悪にも明確な切れ目はないのではないか。今日の私の発想はまずそこから始まった。猫と虎は分類上は分けられる。しかし現実の生き物の連続性を思えば、そこには形質のグラデーションがある。体格、性質、習性、危険性、野生性、そうしたものの複合によって、私たちは便宜的に線を引いている。善と悪も同じではないか。ある行為は完全に善でも完全に悪でもなく、複数の効果をもち、時間差をもち、見る角度によって価値の重みが変わる。それでも私たちは「境界線がない」と言って諦めるわけにはいかない。現場では判断しなければならないからである。答えるのか、待つのか。支えるのか、任せるのか。介入するのか、一歩引くのか。線はもともと自然に引かれているのではない。だが引けないわけでもない。むしろ、人間の倫理とは、この曖昧なグラデーションのなかで、暫定的な境界線を引き続ける作業のことではないか。
私はここで、善を「点」ではなく「立体」として考えてみたくなる。善い行為が一回あった、という単発の評価ではなく、その行為が時間のなかで何をもたらすか、関係のなかでどう作用するか、本人の能力形成にどう影響するか、支援者の持続可能性をどう変えるか、そうした複数の軸をもった立体として善を捉えるのである。目先では親切に見えることが、長期では相手の力を削ぐなら、その善は薄い。逆に、その場では少し不親切に見えることが、後々の自立を促すなら、その善は厚みをもつ。ここでは善は、感情的な「よいことらしさ」ではなく、複数の次元にわたって積み立てられる性質として見えてくる。私が「積分のように善という性質を積み立てていく」と感じたのはそのためである。微小な行為の一つひとつは曖昧で、単独では判定しがたい。しかし、それらを時間と関係の曲線のなかで総和するとき、ある支援が本人の生をひらいたのか、それとも支援者の自己犠牲によって一時的に成立していただけなのかが、少しずつ見えてくる。
この見方に立つと、就労支援の苦悩も別の言葉で捉え直せる。私が苦しいのは、質問の多さそのものよりも、善の分布が不均衡になっているからである。相手の不安はすぐに軽減される。業務はその場では前に進む。だが、そのたびに私の認知資源は削られ、相手の自己探索の筋力は育ちにくい。ここでは善が、一方には即時的に集中し、他方には持続不可能な形で負荷として蓄積する。善の配分が歪んでいるのである。すると、支援者は「善いことをしているのに疲れ果てる」という、奇妙な状況に置かれる。善が、善であり続けるための条件を侵食してしまう。ここで必要なのは、もっと善くあろうとすることではなく、善の配分構造を見直すことなのだと思う。
ファウスト下巻を読んでいると、こうした問題は決して現代の支援現場だけのものではないと感じる。ファウストは何かを獲得すれば満たされるわけではなく、つねに次の運動へ駆り立てられる。欲望、活動、創造、支配、奉仕、それらが絡み合いながら、人は自分が何をなしているのかを見失っていく。善をなそうとする運動もまた、巨大化すればするほど自己目的化しうる。役に立つ仕組みをつくる。効率的な導線を整える。誰でもアクセスできる知識ベースをつくる。それ自体はすばらしい。だが、仕組みづくりが極限まで進んでも、なお相手が動けないとき、支援者は自分の行為をさらに増やそうとする。Q&Aが足りないのではないか。マニュアルが不十分なのではないか。AIの精度が足りないのではないか。説明の仕方を変えるべきではないか。そうして善意はますます加速する。しかし、ある段階を越えると、問題は不足ではなく過剰である。足りないのではない。むしろ供給しすぎている。その供給過多が、本人の探索の余地を奪っている可能性がある。ファウスト的なのは、支援者がここで「まだ足りない、もっとできるはずだ」と自らを追い立ててしまうことである。
ムーアの『倫理学原理』がケインズの若いころに大きな影響を与えたという話は興味深い。ケインズといえば経済政策の人のように理解されがちであるが、若い時期の彼の思索には、何が価値ある生なのか、何を善として生きるべきなのか、という問いが強く流れている。経済もまた、究極的には価値の配分の学である。何を増やせばよいのか、何を守るべきなのか、何を犠牲にしてよいのか。支援現場の悩みも、じつは小さな経済学の問題に似ている。時間、注意、忍耐、即応性、資料、人的関係、そうした有限資源をどう配るかという問題である。利用者に全部を注ぎ込めば、それは一見善である。しかし注ぎ込み方が偏れば、支援者は枯渇し、チームも歪み、結果として支援全体の厚みが薄くなる。ここで必要なのは、冷酷なコスト計算ではなく、善の持続可能性を考える感覚である。ケインズが若いころムーアから受け取ったものの一部は、おそらくこの「何を本当に価値あるものとみなすか」という問いの厳しさであっただろう。私にとっても、就労支援の疲弊は、単なる業務上の負担ではなく、価値判断の再編成を迫る出来事として現れている。
私は今日、「善悪に境界線はない」と言いたいのではない。むしろ逆である。境界線は自然に与えられてはいないが、それでも引かなければならない、と言いたいのである。しかもその線は、一度引けば済むものではない。利用者の特性、関係の深まり、業務の切迫度、本人の不安の強さ、チームの余力、そのつど条件が変わる。したがって境界線は、固定的な柵ではなく、たえず見直される暫定線である。今日の私はここまで答える。しかし、その先は本人にたどってもらう。今週は支える。しかし来週からは質問の仕方を変えてもらう。その線引きは冷たさではなく、善を立体的に守るための技法である。善を点で考える者は、その場のやさしさだけで判断する。善を立体で考える者は、時間と関係と持続可能性を含めて判断する。私は後者のほうへ少しずつ移りたい。
このことは、読書にもそのまま当てはまる。読書とは正解をすぐに受け取る作業ではない。むしろ、分からなさのなかに一定時間とどまり、自分なりの暫定線を引きながら読み進める行為である。ムーアを読むときにも、「善とは何か」にすぐ最終解答を与える必要はない。むしろ「ここまでは善と言えそうだ」「このあたりから怪しくなる」「この条件が加わると評価が変わる」といった暫定的な線引きを何度も更新しながら読むべきなのであろう。私は次の休日にムーアを読み込むつもりでいるが、それは単に古典を勉強するためではない。現場の疲弊に飲み込まれないために、善をめぐる自分の感覚をもう一度鍛え直したいからである。読書は現実逃避ではなく、現実の輪郭を引き直す作業である。とりわけ、支援のように「善意」が制度的に要求される場では、善を感情や習慣のままにしておくと危うい。読書によって概念を研ぎ、現場によって概念の粗さを知る。この往復こそ、私にとっての連続読書日記の核心なのだと思う。
振り返れば、私がこれまでやってきたことは無駄ではなかった。質問集も、Q&Aも、マニュアルも、AIも、労務サマリーも、それぞれに意味があった。だが、それらは万能ではないし、万能であってはならないのかもしれない。資料の整備は、相手が自分でたどるための足場であって、支援者が永遠に即時回答を続けることの免罪符ではない。そこを取り違えると、仕組みは支援者の延命装置ではなく、自己犠牲をさらに精密にする装置へ変わってしまう。私はそこに疲れているのである。疲れているからこそ、この疲労を単なる感情の噴出で終わらせたくない。ここには現場の倫理がある。善の設計がある。境界線の引き方の問題がある。ムーアを読むとは、その問題に古典の光を当てることであり、ファウストを読むとは、善意が肥大化してゆく人間の運動そのものを見つめることでもある。
おそらく支援における成熟とは、たくさん助けることではない。どこで助け、どこで待ち、どこで本人に引き受けてもらうかを見きわめることなのであろう。そして読書における成熟とは、すぐ結論を得ることではなく、曖昧なグラデーションのなかで、なお暫定線を引く勇気を持つことなのであろう。善と悪のあいだに絶対の境界がないとしても、だからこそ人は判断を放棄できない。むしろ境界線が自然には与えられていないからこそ、私たちは自分の仕事、自分の読書、自分の疲労、自分の責任のなかで、その都度、線を引き直さなければならない。支援の現場で擦り減った今日という一日は、ムーアの抽象的な問いを、私自身の手触りのある問いへ変えた。何が善か。その問いは遠い哲学の問題ではない。答えすぎることは善か。待つことは悪か。境界線を引くことは冷淡か。それとも、持続可能な善のために不可欠な技法なのか。私が次の休日にムーアを読み込むのは、知識を増やすためというより、この曖昧な立体に、もう少しだけ自分の言葉で線を引けるようになるためである。では私は、支援者としての疲労を「善の失敗」としてではなく、「善の設計を考え直すための徴候」として読み替えることができるだろうか。
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