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読書日記2098

 

つづきを展開

 

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日記

今日の新規性は一つだけである。分厚い本を読み終えたあとに私が向かったのは、より高い思想ではなく、サイズの合わないシャツと、もう買わないと決めたメルカリの画面であった。

『ジョン・メイナード・ケインズ 上』を読み終えた。読み終えた、という事実そのものに、まず少しだけ疲労が付着している。分厚い本を読み切ったあとには、読了感より先に、しばらくこういう重さの本は読みたくない、という感覚が来ることがある。読むという行為は精神の運動であるが、同時にかなり物理的な作業でもある。目の疲れ、頁をめくる指の単調さ、椅子に座る腰、同じ著者の思考の癖に長く晒されることで生じる、あの独特の圧迫感。読み終わった直後の私は、何か知的に跳躍したというより、ひとまず一冊分の気圧を抜いたという感じに近かった。だから次にまた分厚い本へ行く気にはなれなかった。思索の高さに疲れたというより、同じ密度の文章を受け止め続けることに、身体のほうが少し飽きていたのだと思う。

そこで私は、とりあえず文学を読もうと思った。逃避と言えば逃避である。しかし逃避は必ずしも敗北ではない。同じ場所で粘り続けることだけが誠実さではない。ある種の疲労は、違う種類の文体、違うリズム、違う呼吸によってしかほどけないことがある。だから『ファウスト』の下巻を読み進めた。物語そのものについては、読み終えたときにあらためて書きたい。今日はまだ途中であり、途中のものを無理に総括したくない。途中のものには途中の曖昧さがある。その曖昧さを、まだ結論に回収したくないのである。だから今日は、その報告だけにとどめる。ケインズを読み終え、その反動で、私はゲーテのほうへ歩いていった。それだけの話である。

だが今日は、読書のことだけを書きたいわけではない。むしろ久しぶりに、私生活のことを書いておきたい気分になった。読書日記という名前をつけている以上、つい本のことばかり書かなければならないような気になるが、本当はそんな必要はない。読書日記は、本について書く手帳である前に、読んでいる私がどのように日々を過ごしているかを書く手帳でもある。読んでいる人間の生活が消えた読書日記は、だんだんと無菌室の記録のようになる。私は無菌室の中で本を読んでいるわけではない。仕事があり、疲労があり、ネットで服を探して失敗し、画面を見ながら軽くうんざりし、もう買うのをやめようと思う、そういう生活の中で本を読んでいる。だから今日は、シャツの話を書く。

私は好きなシャツがある。こう書くと、いかにも些細な話に見える。しかし、好きなシャツがある、というのは存外に大きい。好きな服があるということは、自分がどういう感触で日常に触れたいかが、少しだけ分かっているということである。私は服に過剰なこだわりがある人間ではない。流行を追いかける趣味も薄いし、ブランドに執着するわけでもない。だがそれでも、こういう柄がいい、こういう雰囲気が落ち着く、こういう配色なら一日を気持ちよく過ごせそうだ、という感覚はある。その感覚は、他人から見ればどうでもよい細部かもしれない。しかし、私にとっては、かなり切実である。なぜなら服とは、自分の身体と世界のあいだに、ほぼ一日中介在しているものだからである。椅子、机、靴、眼鏡、シャツ。こういう日用品の選択は、思想の壮大な主題ではないが、一日の調子をじわじわと規定する。だから私は、好きなシャツがある、ということを、軽く扱いたくない。

ところが、その好きなシャツが店頭には売っていない柄なのである。これが面倒の出発点である。店頭にあればまだよい。手に取れる。生地の感じも分かる。肩の落ち方も分かる。襟の雰囲気も分かる。試着もできる。だが店頭にない以上、私はネットで買わざるを得ない。ここから、現代的な不便が始まる。ネット通販は便利である。便利であるが、その便利さは、身体をかなり置き去りにする。写真はある。寸法表もある。レビューもある。色味も書いてある。しかし、実際に自分の体にどう乗るかは、最後まで分からない。しかも、私の好きな柄は限られたメーカー、限られた販売者からしか出てこない。選択肢が多いようでいて、実際にはかなり狭い。これは妙な感覚である。ネットの海に出たつもりでいて、実は狭い水路をぐるぐる回っているだけである。

そして、サイズが合わないことが多い。これがいちばん腹立たしい。Lを買ったら小さい。XLは大きすぎる。この、いかにも些末なサイズのねじれが、私にはかなり堪える。服の話なのだから、当たり前ではないかと思われるかもしれない。しかし私は、この数センチのズレに、現代の買い物のいらだちが凝縮しているように感じる。数字はある。L、XL、身幅、肩幅、着丈。規格は存在する。だがその規格が、私の身体にそのまま届かない。Lだから大丈夫だろうと思うと小さい。ではひとつ上げればよいかと思うと、今度は全体の印象がだぶつく。つまり、規格の側には論理があるが、身体の側にはその論理がきれいには接続しない。このズレは、単なる不運ではない。かなり広い意味で、現代の生活の煩わしさを表している気がする。名札はある。分類もある。表もある。だが、その分類が私の現実にぴたりと合うとは限らない。むしろ合わないことのほうが多い。

服のサイズは、経済理論ほど大げさなものではない。だが私は、ケインズを読み終えた直後だからか、この小さなズレを妙に深く感じてしまった。辻褄は合っている。サイズ表もある。理屈はある。販売ページも整っている。だが事実に依拠していない。少なくとも、私の身体という事実には依拠しきっていない。ここで私は、例の言葉を思い出してしまう。辻褄は合っていても、事実に依拠していない。通販サイトのサイズ表までそのように言い出したらさすがに大げさであるが、それでも、私のいらだちの核には、あの感じがある。整っている。もっともらしい。判断材料もある。だが、最後に自分の生活へ降りてきたとき、ずれる。そのずれのコストは、画面の向こうではなく、こちら側が負う。つまり、安物買いの銭失いになりつつあるのである。

ここで「安物買いの銭失い」という言い回しは、実に古典的である。古典的であるが、古びていない。むしろネット通販とフリマアプリの時代になって、あらためて蘇った諺ではないかと思う。昔の安物買いは、店先で手に取って買った末の失敗であった。いまの安物買いは、画面の中の写真と説明文を信じた末の失敗である。写真はよく撮れている。説明文も悪くない。販売者の評価もそこそこある。価格も手頃で、少し得をした気分になれる。しかし届いてみると、生地が思っていたより安っぽい、サイズ感がちぐはぐである、柄は好きだが全体のシルエットが妙である。こうして私は、また一枚、着ないシャツを持つことになる。これは小さな敗北である。金額がそこまで大きくないからこそ、余計にたちが悪い。大損というほどではない。だが、じわじわと蓄積する種類の損である。金銭だけでなく、判断への信頼も少しずつ削られる。

メルカリについても、私は少し前から冷静になりつつあった。いや、冷静というより、ようやく常識に追いついたと言うべきかもしれない。私は好きな柄のシャツを探しているうちに、自然とメルカリにも目が向いた。新品では見つからない。店頭にもない。ならば中古市場か、という発想は、それなりに自然である。実際、メルカリという場所には、掘り出し物があるのではないかという期待を抱かせる魔力がある。すでに売られていないものがあるかもしれない。しかも、少し安く手に入るかもしれない。ここに期待が生まれる。期待が生まれると、検索が始まる。検索が始まると、延々と画面を見続ける。だが、その期待の構造自体が、もう少し早く疑われるべきであった。

そもそも、いい服はメルカリには流れないよな、と私はようやく思ったのである。もちろん例外はあるだろう。人は引っ越しもするし、趣味も変わるし、サイズも変わる。だから良い服が中古市場へ流れること自体はある。しかし、私が欲しがっているような、柄がよく、サイズも合い、状態もよく、しかも価格が手頃である、という都合のいい品がそう簡単に流れてくるはずがない。良いものは、だいたい手元に残る。少なくとも、その人にとって本当に気に入っていた服は、そんなにあっさり市場に出てこない。ここを見落として、私はしばらく「あるかもしれない」と思って画面を眺めていた。つまり、私は可能性に課金していたのである。商品そのものではなく、見つかるかもしれないという期待に時間と注意を払っていた。この構造に気づいたとき、少し馬鹿らしくなった。

メルカリからはもう買わない、と私は決意した。決意と言うほど大げさなものでもないのだが、日常はこういう小さな決意でできている。しかも、この決意はなかなか重要である。買わないと決めることは、選ばないことを選ぶことである。現代の消費生活では、つい「どう選ぶか」が問題になる。何を比較するか、どのショップがよいか、どの価格帯が適正か、どのレビューが信用できるか。しかし本当は、「その市場から一歩引く」という選択もある。私はそれをようやくした。もうメルカリからは買わない。これは、単にアプリを使わないという話ではない。自分の欲望を、期待で延命させる装置から少し離れるということでもある。欲しいものがある。だが、その欲しいものが現実的な条件で手に入るとは限らない。この限界を認めることは、少し寂しいが、同時にかなり健全でもある。

ここで私は、ケインズを読み終えたあとにこんなシャツの話を書いている自分を、少し面白く思う。通貨、賠償、自由放任、不況、価値尺度の不安定性。そういう大きな話を読んだ直後に、私は結局、自分のサイズに合う柄シャツが見つからないというごく私的な問題へ戻ってきている。しかし、だからといってこの二つが完全に無関係とも思わない。大きな制度の話を読んだあとだからこそ、私は小さな消費の失敗にも、規格と現実のズレ、期待と実物の乖離、もっともらしい説明と身体の不一致を見るようになっているのかもしれない。もちろん大げさに理論化するつもりはない。シャツはシャツである。サイズが合わないことは世界史的事件ではない。だが、人はこういう小さな不一致の堆積の中で生活している。だから、読書日記にシャツの話が出てきてもよいのである。

むしろ私は、こういう話を書いておかないと、自分の生活感覚が抜け落ちてしまう気がする。本についてだけ書いていると、自分があたかも純粋な読書機械であるかのような錯覚が生まれる。だが私は、読書機械ではない。分厚い本を読むと疲れるし、そのあとで文学へ逃げたくなるし、好きな柄のシャツを探してネットをさまよい、サイズが合わずに小さく失敗し、メルカリに冷静な批判を下して、もうやめようと思う、そういう人間である。今日それを書いておくことは、些細だが必要なことのように思える。日記とは、偉大な思想を書き留める場所というより、むしろ、自分の感覚がどこで何に引っかかっているかを、後から見返せるようにしておく場所だからである。

『ファウスト』の下巻については、読み終えたらあらためて書く。たぶんそのときには、ケインズを読んだあとの私の頭で、ゲーテをどう読んだか、という話にもなるだろう。だが今日はまだそこまで行かない。今日は、ケインズを読み終えたあとに少し文学へ退避したこと、そして、その退避のさなかに、私はシャツのサイズに悩み、メルカリから撤退するという、ごく小さな生活上の結論に到達したことを書いておけば十分である。思想のあとには生活があり、生活のあとにまた読書がある。その循環を無理に高尚化しないほうが、たぶん長く続く。私は結局、本を読むためにも、まず自分の生活を少しずつ整えなければならないのだと思う。

好きな柄のシャツが店頭に並ばず、ネットではLとXLのあいだで身体が宙吊りになり、期待ばかりを売る中古市場からようやく一歩引き、分厚い本のあとに文学へ避難した今日の私は、この小さな不一致と撤退の感覚を、いずれどのような読書の言葉へつなぎ直していけるのだろうか。

 
 

 

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