
つづきを展開
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日記
世界は勝手に立ち直らない――ケインズの断片から、責任と運用を考える
今日の新規性は一つだけである。世界は壊れるとき、しばしば自然災害の顔をして現れるが、そのかなりの部分は、自然ではなく運用の帰結である。
ケインズの伝記を上巻まで読み終えた。正確に言えば、私はケインズの理論体系を理解しきったとは到底言えない。むしろ、今回私が受け取ったのは、完成された教義ではなく、断片である。通貨の価値、賠償金、自由放任、価値尺度の不安定性、不当利益、投機、大学教育、平等主義、卓越、期待、不況。ひとつひとつはばらばらであり、しかもまだ私の中で十分に整理されていない。にもかかわらず、それらの断片は、いま私が見ている世界――就労支援の現場、職場での責任の押し付け合い、自由放任の空気、AIや制度の自動化、世界金融の不安定さ――を少しだけ違う角度から照らしてくる。
今回の読書で私がまず驚いたのは、ケインズが最初から「市場は自己調節しない」と断言していたわけではないことである。ある時期の彼は、まだ市場システムには自己調節メカニズムが備わっていると考えていた。遅かれ早かれ物価は上昇に転じるだろう、先送りされた需要は無限には先送りできない、供給が減れば価格も動く、といった見方である。しかし後に彼は、その見方を捨てる。経済に自己調節メカニズムなどない、と考えるにいたる。私はここに妙な重みを感じた。
なぜなら、この変化は単なる理論上の洗練ではなく、「放っておいても戻る」という期待の放棄だからである。世界は勝手に立ち直る。市場は放っておけば均衡へ戻る。時間がたてば何とかなる。こうした言い方は、一見すると落ち着いた現実主義に見える。しかし実際には、それはしばしば放置のイデオロギーとして働く。いま苦しんでいる人間に対して、「長期的には均衡する」と言うことは、しばしば「いまは放っておくしかない」と言うこととほとんど同じである。就労支援でも、職場でも、経済政策でも、この種の静かな放置は繰り返し現れる。だから私は、ケインズが「自己調節」を捨てたことを、経済理論の一コマとしてではなく、放置の神話からの離脱として読みたいのである。
この離脱は、通貨の価値についての発言にも現れている。通貨の量が調節可能であれば、遅かれ早かれ通貨の価値は安定化できる。この単純な真実はいまも有効であり、政府が財政困難に陥っていない限り、通貨供給量は調節可能である。よって安定化の秘訣は紙幣の印刷を停止することだ、とケインズは述べた。この一節の魅力は、その素朴さにある。もちろん実際の金融運営はもっと複雑であり、私はその複雑さをまだ知らない。しかしそれでも、この発言の核は明快である。混乱は天災ではない。少なくとも一定部分は運用の問題である。政策の主体が存在し、その主体がレバーを持っている以上、混乱をただ自然現象のように語ることはできない。
ここで私は、自分が最近ずっと考えている就労支援の問題を思い出す。欠勤が固定化する。支援は続いていることになっている。だがその「続いている」は、本当に支援なのか。それとも、運用を変えないまま時間だけが過ぎていく静かな放置なのか。経済に自己調節メカニズムがないなら、支援にもまた自己調節メカニズムはない。本人がそのうち立ち直るだろう、時間がたてば環境に慣れるだろう、同じ枠の中で何とかなるだろう、そうした期待は、しばしば運用責任の放棄でしかない。ケインズを読んでいて、私は市場の神話だけではなく、現場の神話にも少し腹が立ってきた。
もう一つ、私に強く刺さったのは、賠償金と債務の問題である。連合国が賠償金を回収するという結論を貫き通せないのと同じく、アメリカもまた連合国の債務回収を貫き通すことはできないだろう、というケインズの予想は正しかったという。ここで重要なのは、経済予測の的中そのものではない。私が面白いと思ったのは、請求することと、実際に回収し切ることのあいだに、巨大な断層があるという認識である。
責任を問うことはできる。払えと言うこともできる。しかし、その要求を最後まで貫徹できるかどうかは別問題である。しかも、貫徹できない要求は、しばしば政治的・道徳的な歪みだけを残す。正義を掲げながら、それを実行し切る力も条件設計もない。そのとき何が起こるのか。請求だけが残る。恨みだけが残る。責任だけが宙吊りになる。私はこの構図を、国家間の賠償問題だけでなく、ずっと小さな現場の責任論にも見る。働けと言う。自立しろと言う。確認しろと言う。しかし、働ける条件、自立のための運転資本、確認のための時間や余裕は残されていない。こういう「回収不能な正義」が、職場にも制度にも満ちている。
ケインズが賠償問題において見ていたのは、責任を免除することではなかったはずである。むしろ逆で、責任を取らせるのなら、再起の条件を奪ってはならないということだったのではないか。ここで私は、最近ずっと頭の中にある一つの感覚を言い直せる気がした。責任を取らせることと、再起条件を残すことは、両立しなければならない。責任だけを押し付けて運転資本を奪えば、相手は壊れる。逆に、条件だけを与えて責任を問わなければ、運用は崩れる。この両立の設計こそが政治であり、支援であり、制度運営なのだと思う。
ケインズの自由放任批判も、こうした問題意識の延長で読むことができる。個人主義的な社会というものは、放っておいてうまくいくわけではない。困難な時期ほど、自由放任はうまくいかない。彼は現代社会の三悪として、不当利益行為、気まぐれな期待、失業を挙げ、それらは主に価値基準の不安定性に起因すると述べた。ここで私が引っかかったのは、「価値基準の不安定性」という言い方である。経済の混乱が単に数字の揺れではなく、人が何を信じて生活を組み立てているか、その基準自体が揺らぐことだと捉えられているからである。
失業、労働者の生活不安定、見込み外れの落胆、貯蓄の突然の喪失、相場師の不当な大儲け。こうしたものはすべて、価値の尺度の不安定性から生じることが多いという。これはかなり強い。経済学の議論でありながら、ほとんど生活世界の倫理学である。失業は統計ではない。生活の手触りの崩壊である。貯蓄の喪失は資産の減少ではない。人生設計の崩壊である。投機家の不当な大儲けもまた、単なる成功ではなく、価値尺度が歪んだ世界の症状である。ここでケインズは、経済を数字の運動としてではなく、人間の期待、不安、落胆、怨恨が渦巻く生活世界として見ている。
私はこの読み方にかなり惹かれる。なぜなら、私もまた制度の問題を、数だけではなく手触りで感じてしまう人間だからである。欠勤率、出勤率、達成率、予算執行率、雇用率。こうした数字は必要である。しかし数字だけを見ていると、何が壊れているのかを見失う。むしろ、数字の背後にある生活の不安定さ、見込み外れの落胆、静かな諦めの堆積を見なければならない。ケインズが「価値尺度の不安定性」と言ったとき、私はそこに、世界を支えるものが単なる貨幣ではなく、予測可能性そのものだという直観を感じる。人は、明日も大きくは変わらないだろうという予感の上で生きている。その予感が壊れると、世界全体が揺れ始める。
この文脈で、「インフレは不公正であり、デフレは不都合である」という一句も効いてくる。私はこの短さが好きである。短いが、かなり厳密である。インフレは、価値の配分を歪めるという意味で不公正である。デフレは、経済活動を詰まらせるという意味で不都合である。ここでは、両者が同じ言葉で裁かれていないことが重要だと思う。ケインズは経済現象を、一括して善悪で断罪していない。分配の問題と、機能の問題を分けている。公正かどうかと、回るかどうかを分けている。この分け方は、私にとってかなり大事である。
就労支援の現場でも、職場の運用でも、問題はしばしば混線する。これは不公正なのか。それとも不都合なのか。あるいは両方なのか。支援が固定化しているとき、それは本人にとって不公正であると同時に、制度にとって不都合でもある。だが、両者は同じ言葉では扱えない。ここを区別しないと、正義の語が強すぎて運用論が消えるか、あるいは効率の語が強すぎて人間が消える。ケインズのこの一句は、経済理論の要約であると同時に、制度を見るときの手つきの見本にも思える。
自由放任を支える人間観への批判も印象深い。個人の無制限の金儲けの機会が最大限の努力を促し、そのてんでばらばらな自己利益追求が全体として最大限の富を生み出す、という結論は、辻褄は合っていても事実に依拠していない。そこには、取引条件に関してすべての当事者が十分な知識を持っているとか、そうした知識を得る適切な機械があるとか、非現実的な仮定がいくつも潜んでいる。ここで私が思うのは、自由放任が単なる政策選好ではなく、一つの幻想だということである。人は自分の利益を知っている。情報は十分に流通している。誤配や盲点は自然に修正される。こうした前提が成り立つなら、たしかに世界は放っておいてもうまく回るかもしれない。だが現実には、人は自分の利益すら十分に理解していないし、必要な情報にも均等にアクセスできないし、誤配はしばしば放置される。ならば、「勝手にやれば全体もうまくいく」という信仰は、ただの雑な物語にすぎない。
ここまで来ると、ケインズは市場批判者であるだけでなく、情報完全性への批判者でもあるように見えてくる。これは現代のAIやデータ駆動型の制度にも接続できる。すべてが測定可能であり、測定可能である以上、最適化も可能であるという前提。だが実際には、測れないもの、見えないもの、言い換えに失敗したものが大量に残る。情報は最初から不完全であり、その不完全さの中で制度は回るしかない。であるなら、自由放任も、機械的最適化も、同じ意味で危うい。どちらも、世界のノイズを甘く見ているからである。
しかし、ここでケインズを気持ちよく持ち上げるだけでは足りない。むしろ私が今回いちばん引っかかったのは、彼の平等主義と選別感覚の奇妙な同居である。彼は自身を平等主義者と称し、現在の不平等の大半および不平等の原因が取り除かれた社会を作りたいと述べる。しかし同時に、個人がみな等しいとは思わず、並外れた努力、能力、勇気、人格にエールを送り、中流階級や上流階級の人間は労働者階級よりはるかにすぐれていると思うとまで書く。ここには、いかにも知識人らしい嫌な部分がある。しかも、単なる失言ではなく、かなり本音に近い嫌さである。
私はこういう箇所を読むと少し落ち着かない。なぜなら、そこに自分の嫌な部分の影を見るからである。私は平等を否定したいわけではない。だが、全部が同じであるという言い方には、どこかしら違和感がある。努力、判断、知性、人格、そうしたものの差異を、まったくないことにはできないのではないか、と感じる。しかしこの感覚は、そのままにしておけば簡単に軽蔑へ堕ちる。俗物嫌悪や浅薄さへの反発は、少し放っておくだけで「自分は違う」という気持ちのよい選民意識へ転ぶ。ケインズのこの箇所は、まさにその危うい綱渡りを見せている。
だから私は、彼のこの露骨な選別感覚を単純に擁護したくはない。しかし同時に、ただ「差別的だ」と断じて終わるのも違うと思う。ここで現れているのは、平等を望みながら、なお卓越や優秀さの価値を手放せないという近代知識人の矛盾だからである。私はこの矛盾を、いまの社会がまだ解けていない問題として読みたい。すべてを平等に扱うと言いながら、実際には選抜を行う。差異を否定するふりをしながら、評価をやめない。大学も、企業も、官僚制も、政治も、その矛盾の上に立っている。ケインズは、その矛盾をきれいに解消していない。だが解消していないからこそ、現実に近い。
大学論も同じ文脈で読みたくなる。大学の仕事は学生の知性と人格を磨き上げ、ビジネスの世界に入ったとき細部をすぐにも理解できるようにしておくことだ、という言葉は、ずいぶん古風に聞こえる。しかし私は嫌いではない。ここで大学は、単なる資格工場ではない。知性と人格の形成装置である。しかも、その形成は抽象的教養にとどまらず、実際の世界の細部を理解する力へ接続している。私はこの言い方に、読書の役割も少し重ねてしまう。読書はすぐ役立つ技術ではない。だが、世界の細部を理解するための判断力を少しずつ作る。読書日記もまた同じである。すぐ役立つ結論を出すためではなく、判断の足場を増やすために書く。
今回の読書で私が得たのも、おそらくその種の足場である。資本財の新規購入を促す誘因が弱ければ不況が起きる、という議論も、自然利子率が気まぐれな期待によって変動するという議論も、暴落が見境のない投機に対する天罰であり治療薬でもあったという見方も、私はまだ十分に理解していない。しかし、それでも一つだけは分かる。経済は機械のように冷たく動いているわけではなく、期待、心理、幻想、思い込み、怯え、強欲によって大きく左右されるということだ。市場は理性だけでできていない。かなりの部分が気まぐれな期待でできている。だからこそ、自然に均衡へ戻るという神話は危うい。均衡を崩すのは、外から来るショックだけではない。内部に巣くった期待そのものが、世界を揺らし続けるからである。
私はここまで書いて、ようやく今回のケインズ読書をどう受け取ればよいかが見えてきた気がする。私は経済学を理解したわけではない。世界金融を把握できるようになったわけでもない。だが、少なくとも一つの癖は少し身についた。世界を自然現象としてではなく、責任と運用の問題として見る癖である。通貨の安定も、賠償の失敗も、自由放任の神話も、価値尺度の不安定性も、平等と選別の矛盾も、どれも「世界は放っておけばうまくいく」という物語を疑うところから始まっている。
この疑いは、悲観ではないと思いたい。むしろ、放置を神話化しないための最低限の現実感覚である。人間社会は自然には均衡しない。責任を問うなら再起の条件を残さねばならない。価値尺度が揺らげば生活は壊れる。自由放任は、事実ではなく前提の神話である。大学や読書の仕事は、こうした複雑さを急いで単純化せず、判断を少し遅らせるための知性と人格を鍛えることにあるのかもしれない。今回の読書で私が得たものは、その意味で、知識というよりは慎重さである。世界の金融の動向を理解するには、もちろん今後も多くの本を読まなければならない。それでも、ケインズの断片は、その読書を始めるための最初の判断材料にはなりうる。
私はいま、世界が壊れるとき、それを自然な調整過程として受け流すのではなく、その背後で誰が何を放置し、何を神話化し、どの価値尺度を不安定にしたのかを問い返すために、次にどの経済書を読み、どの概念を自分の運用感覚へまで引き寄せ直すべきなのだろうか。
増補――責任を取らせることと、再起の条件を残すこと
ここで、賠償問題と就労支援の話を、もう少し露骨につないでみたい。私はこの接続を、比喩としてではなく、責任の運用という一点から見ている。もちろん国家間の戦後処理と、個人の就労支援とでは、規模も重さも歴史的文脈もまったく違う。違うのだが、それでもなお、両者には共通する骨格があるように思える。その骨格とは、「責任を問うこと」と「再起の条件を残すこと」のあいだの緊張である。
賠償問題において、敗戦国に何の責任も問わない、ということはありえない。問わなければ、被害の側の正義感は宙吊りになり、世界の秩序もまた空疎になる。しかし同時に、責任を問うという名目のもとで、相手から再起の条件を剥ぎ取ってしまえば、その責任追及は次の破局の母体になる。ここでケインズが見ていたのは、まさにこの二重の困難であったはずである。払わせたい。しかし払わせ切ることはできない。しかも、払わせようとする運用そのものが、相手を再び壊す条件を育ててしまう。この「正しさの執行不能性」とでも呼びたくなる構図が、私にはかなり重く見える。
就労支援の現場でも、これに似た構図は小さく反復される。働くことは求められる。時間を守ることも、継続することも、生活を整えることも求められる。それ自体は不当ではない。むしろ、就労支援が就労への志向を失った瞬間、それは別の制度になる。しかし問題は、その「求める」が、しばしば再起の条件を設計しないまま発せられることである。働けと言う。だが、働けるだけの睡眠、移動、対人調整、感覚調整、生活リズムの再建、金銭の余裕、相談の余地、そうした運転資本は十分に残されていない。すると何が起きるか。「働け」という命令だけが道徳として残り、実際の再起条件は空白になる。これは、賠償を請求しながら再建の条件を奪う構図と、かなり似ている。
私は最近、この「運転資本」という言葉が好きになりつつある。経済の言葉でありながら、生活の手触りにも届くからである。人は、責任を引き受けるためにも資本を要する。ここでいう資本は貨幣だけではない。体力、睡眠、信頼、予測可能性、失敗しても終わらないという感覚、試し直せる余地、そういうものも含む。就労支援の現場で、本人に「次は頑張りましょう」と言うことは簡単である。しかし、その「次」を支える運転資本がないなら、その励ましは責任論の顔をした空疎な呪文になる。私は、こういう空疎な励ましをかなり嫌っている。
この意味で、ケインズの賠償問題への感覚は、国家のレベルでの責任配分を考える材料であると同時に、日常の支援や労務の運用を考える材料にもなりうる。責任を問うな、と言っているのではない。むしろ逆である。責任を問うなら、その責任が再起の通路を完全に塞がないように設計しなければならない、ということである。私はこれを、優しさの話としてよりも、運用の知恵として受け取りたい。優しさは人によって濃淡がある。気分にも左右される。だが運用は、濃淡や気分を超えて残るべきである。責任追及が再起不能化へそのまま滑っていかないようにするためには、制度の中に折り返し地点を埋め込むしかない。
たとえば就労支援なら、欠勤が起きたとき、それをただの違反として処理するか、ただの配慮事項として流すか、その二択しかないように見える瞬間がある。だが本来必要なのは、そのあいだの運用である。欠勤が起きたなら、何が機能しなかったのかを言語化する。次の一手を一つ決める。回数で面談や計画変更を自動発動する。一定期間で改善がなければ枠を変える。枠を変えるときも、それを罰としてではなく、ミスマッチの是正として伝える。これらは、本人に責任がないと言うことではない。責任を負わせながら、なお再起の条件を残そうとする運用である。私はこういう運用を、国家の戦後処理から個人の生活支援に至るまで、一つの大きな政治感覚として見たいのである。
増補――平等主義と選別感覚のあいだで
ケインズの平等主義と露骨な選別感覚の同居は、読んでいてかなり居心地が悪かった。だが、この居心地の悪さを「昔の人だから」で片づけるのは簡単すぎる。むしろ私は、この嫌な部分を直視したほうがいい気がしている。なぜなら、そこには私自身の感覚の歪みも映っているからである。
私はたぶん、表向きの意味では平等主義にかなり近い。人は生まれや境遇によって不当に踏まれるべきではないと思うし、制度は歴史的に不利を負わされた人に対して補償的に働くべきだとも思う。氷河期世代の問題や、貧困や、福祉や、支援の話に引きつけられるのも、その感覚があるからである。私は、世界があまりにも雑に人を振り分けることに腹が立つ。努力だけではどうにもならない分岐点があり、その分岐がその後の人生を長く規定してしまうことにも腹が立つ。だから、不平等を是正したいという言葉自体には、かなり共感する。
だが同時に、私は「個人はみな同じである」とは、どうしても思えない。ここをどう言えばいいのかは難しい。能力、判断、集中、持続、勇気、知性、趣味、節度、そうしたものには差があると感じてしまう。そして私は、その差をまるごと無化する言葉に、いつも少し苛立つ。もちろん差があるから偉いとか、差がないから劣るとか、そういう雑な話がしたいわけではない。だが、差異そのものが存在しないかのような平等語は、現実への敬意を欠いているように見えることがある。私はこの感覚をうまく処理できずにきた。
ここで危ないのは、この差異への感覚が、そのまま俗物嫌悪や軽蔑へ転ぶことである。私は、表層的な自己啓発語、役に立つことだけを急ぐ空気、浅く強い言葉で世界を裁いたつもりになる態度に、かなり強い反発を覚える。だがその反発は、少し間違えると「分かっていない人間」への侮蔑に変わる。分かっていない人間、考えない人間、短絡的な人間、そうした人々を、自分とは違う下位の層として見てしまう危険がある。ケインズの「中流階級や上流階級の人間は労働者階級よりはるかにすぐれていると思う」という言葉は、まさにそうした危険が露骨な形を取ったものである。私はそこに反発しつつ、同時に、反発だけでは済まない気まずさも覚える。なぜなら、自分の中にも、似た方向への滑りやすさがあるからである。
この気まずさを誠実に引き受けるなら、私はこう言うほかない。不平等の是正を望むことと、人間の差異を感じ取ってしまうことは、必ずしも矛盾しない。しかしその両立は、きわめて不安定であり、しばしば危険である。制度のレベルでは、不利の是正と最低条件の保障が必要である。だが同時に、教育や仕事や文化の領域では、判断力や持続力や節度の差異が露わになる。ここで差異をまったく語れなくなると、制度は空疎な平等語だけを残し、現実の評価を裏で進めることになる。逆に差異を前面に出しすぎると、今度は軽蔑と選民意識が制度を侵食する。私はこの二重の危険の中で、どう考えればよいのか、まだ十分に分からない。
ただ一つ言えるのは、私が守りたいのは「結果の平等」より前に、「踏まれ方の不当さを減らすこと」なのだと思う。人は等しく卓越しているわけではない。だが、だからといって、世界が雑な運用によって人を早々に潰していい理由にはならない。差異があることと、踏み方が雑でよいことは別である。この区別が大事である。私は、おそらくここでようやく、自分の平等主義がどのへんにあるのかを言える。私は、人間の差異を消したいのではない。差異が開く前に運用の不具合で人が潰されることを減らしたいのである。だから制度に関心が向く。だから運用に腹が立つ。だから軽蔑ではなく、設計へ戻らねばならない。
ケインズを読んで面白いのは、彼自身がこの危うさをまったく解消していないことである。平等を望みながら、優秀さや卓越への信仰を捨てない。自由放任を批判しながら、なおエリート意識を濃厚に残している。この矛盾は、いかにも嫌な知識人の矛盾である。だが同時に、それは現在の私たちの矛盾でもある。平等を唱えながら選抜をやめない社会、包摂を唱えながら評価をやめない制度、その中で生きる私自身もまた、その矛盾の外にはいない。だから私は、ケインズの嫌な部分を、道徳的に切断するよりも、自分の鏡として見たほうがいい気がするのである。
増補――価値尺度の不安定性と、いまの日本の生活感覚
ケインズの言う「価値尺度の不安定性」という言葉は、最初はやや抽象的に見えた。だが、この語はじわじわ効いてくる。失業、生活不安定、見込み外れの落胆、貯蓄の突然の喪失、投機家の不当な大儲け。これらが、価値尺度の不安定性から生じることが多いという見方は、いまの日本の生活感覚にかなり引き寄せて読めるように思う。
たとえば、賃金が上がらないことそのものよりも、「何を基準に自分の生活を組み立てればよいのか分からない」という感覚のほうが、実は深く人を傷つけることがある。働いても楽にならない。貯めても安全とは言えない。学んでもその先が保証されるわけではない。住宅を買うべきか、賃貸でいるべきか、子どもを持つべきか、転職すべきか、資格を取るべきか、NISAをやるべきか、副業をするべきか。現代の日本では、生活の細部が選択肢の形で押し寄せてくる。選択肢が多いことは自由のようでいて、同時に基準の不在でもある。基準が不在だと、人はいつも「もっと良い判断があったのではないか」という不安に追われる。これもまた、価値尺度の不安定性の一種である。
インフレは不公正であり、デフレは不都合である、という一句を、私はこの生活感覚の中で読み直したい。インフレが不公正であるとは、ただ物価が上がるということではない。現金で持っていた人、給料の上がらない人、価格転嫁できない人が、知らないうちに損を引き受けるということである。何か悪いことをしたわけでもないのに、配分が静かに変わっていく。その静かな変化は、人に「まじめにやっていてもずれる」という感覚を与える。これはかなりきつい。デフレが不都合であるというのも、単に景気が悪いということではない。物が売れない、投資が止まる、将来を先送りしたくなる、借金が重く感じられる、そういう機能不全の連鎖が起きるということである。つまりここでも、正義の問題と機能の問題は違う仕方で生活を圧迫している。
いまの日本で、この二つは奇妙に混ざっている気がする。長い停滞の記憶があり、上がらない賃金の慣れがあり、そこへ物価上昇や社会保険料の負担感や各種の不安が重なっている。人々は、あからさまな大破局の中にいるわけではない。むしろ、生活はぎりぎり回っているように見える。しかしその「ぎりぎり回っている」は、かなり危うい均衡である。少し病気になれば崩れる。少し家族の事情が重なれば崩れる。少し物価が上がれば崩れる。少し働けなくなれば崩れる。大崩壊ではないが、小崩壊の予感が慢性的に漂っている。この慢性的な不安は、単なる所得水準だけでは説明できない。価値尺度そのものが揺れているからである。
私はここで、資産形成の語りの流行も思い出す。投資をしろ、資産を守れ、インフレに備えろ、老後資金を作れ、自己防衛しろ。こうした言葉は、一面では現実的である。だがその現実性は、同時に別のことも意味している。つまり、もはや安定の基準が共同体や制度の側には十分に残っておらず、個人がそれぞれ資産防衛の戦略家にならねばならないということである。これは、生活世界にとってかなり疲れる状況である。皆が小さな投資家になり、小さな保険数理家になり、小さな危機管理担当者にならされる。ここで失敗すれば、それは自己責任として回収される。この空気は、自由放任の神話とかなり近い。みなが情報を取り、適切に判断し、自己の利益をうまく追求できる、という前提に立っているからである。しかし現実には、誰もが十分な知識を持っているわけではないし、適切な知識獲得機械が万人に開かれているわけでもない。だから、この自己防衛の空気そのものが、新しい不安定性を作る。
就労の領域でも同じである。正社員か非正規か、転職すべきか今の場所に残るべきか、資格を取るべきか経験を積むべきか、いまの年齢でどこまで賭けるべきか。こうした問いが、単なるキャリア選択ではなく、生存の判断に近い重さを持ってしまうとき、人は判断疲れを起こす。何を選んでも完全な安心には届かない。その中で「選んだのは自分だろう」と返されるとき、人はかなり静かに追い詰められる。私は、この静かな追い詰めを、価値尺度の不安定性の現代的な顔として見たい。
貯蓄の突然の喪失、というケインズの言葉も、今日では文字通りの銀行取り付けだけを意味しないだろう。たとえば、長年かけて積み上げてきたキャリアが、病気や介護や配置転換や市場の変化で一気に価値を失うことがある。ある技能が急に通用しなくなる。ある業界が縮む。ある働き方が持続不能になる。そうした変化は、通帳の残高が減るのと同じくらい、いやそれ以上に深く、人の世界像を揺るがす。自分が積み上げてきたものが、何を尺度に価値づけられていたのか分からなくなるからである。ここにも価値尺度の不安定性がある。
だから私は、この語を経済理論の一節としてよりも、生活感覚の記述として受け取っている。人は何によって生活を組み立てるのか。何を基準に将来を見積もるのか。努力、賃金、貯蓄、資格、学歴、職歴、家族、国家、通貨、そうしたものの尺度が同時に揺らぐとき、人はただ困窮するだけではない。世界への接続感覚そのものを失う。私は、この接続感覚の喪失が、いまの日本のかなり広い層に、名前のつかない疲れとして広がっているように思う。
ここまで書いてみると、ケインズの断片を読むことは、単に古い経済学を学ぶことではないと分かる。むしろそれは、いまの生活の不安定さを、自己責任や気分の問題として回収しないための語彙を少しずつ増やすことに近い。通貨の安定、賠償の失敗、自由放任批判、平等と選別、価値尺度の不安定性、期待と投機。これらはばらばらの概念ではなく、世界がどう壊れ、どう持ちこたえ、どこで放置が神話になるのかを考えるための断片である。私は今回、その断片のいくつかを拾ったにすぎない。だが拾った断片は、今後の読書にとって確かなセーブポイントにはなりそうである。
では私は、責任を問うことと再起の条件を残すことの両立を、国家の戦後処理から就労支援の運用にいたるまで一つの問題として見つめ、不平等の是正を望みながら差異や卓越の感覚をどう軽蔑へ滑らせずに持ちこたえるかを考え、さらに価値尺度の不安定性がいまの日本の生活疲労や判断疲れのどこに染み込んでいるのかを見極めるために、次にどの本を読み、どの概念を自分の言葉として取り直すべきなのだろうか。
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