
つづきを展開
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連続読書日記3.0
電車で『スーパーインテリジェンス』を読み、帰宅後『本屋のパンセ』を開き、しかしもう読む気力が残っていない自分を見た。残業が一週間で十二時間ほど積み上がり、集中力が著しく低下している。これは言い訳ではなく条件である。条件が悪いときほど、概念は早く閉じたがる。閉じた概念は反例を嫌い、反例を嫌う概念は反例を黙らせたくなる。反例を黙らせると制度は静かに回り、静かに回る制度は静かに人を選別する。私はこの静けさを恐れている。吠え声は耳障りである。しかし耳障りであるからこそ可視化される部分もある。問題は、吠え声が消えた後に残る「無音の運用」のほうである。無音の運用は撤回不能な閉じを生みやすい。
今日の読書は、就労支援の苛立ちと同じ袋に入ってしまった。読書は本来、袋を分ける作業である。袋を分けるとは、区別することであり、区別するとは、線を引くことであり、線を引くとは、誰かをこちら側に置き、誰かをあちら側に置くことである。だから線を引くことは政治である。政治は正しさを伴う。正しさは吠える。私はこの順番を知っている。だから私は、読書によって袋を分けるとき、同時に袋の外に追いやられるものが生まれることも知っている。追いやられたものが沈黙し、沈黙が積もり、世界が静かに閉じる。その閉じが、今日の私の胸の奥をざらつかせる。
『スーパーインテリジェンス』は、AIの進歩が一直線ではないことを繰り返し語る。波があり、壁にぶつかり、突き抜け、また壁にぶつかる。科学の歴史としては健全な話である。だが私はこの「波」と「壁」を、知的勝利の物語としては受け取れなかった。波が来ると資金が集まる。資金が集まると人が集まる。人が集まると希望が生まれる。希望が生まれると誇張が生まれる。誇張が生まれると約束が生まれる。約束が生まれると評価指標が生まれる。評価指標が生まれると、測れるものが主役になる。測れるものが主役になると、測れないものは周縁へ押しやられる。押しやられたものは沈黙する。沈黙したものは統計の外へ追いやられる。統計の外へ追いやられたものは学習データの外へ追いやられる。こうして「見えない」が増える。見えないが増えると、正しさはより強く吠える。吠える正しさは撤回条件を嫌う。私はこの循環の起点に、いつも「測る」があることを見てしまう。
ここで就労支援の現場が刺さる。現場では毎日「測る」が起きている。出勤率、遅刻、作業量、面談記録、支援計画、達成度、報告書。測るというより、測れる形に人間を押し潰す。押し潰すと言うと悪意に聞こえるが、悪意でなくても押し潰しは起こる。予測し、分類し、最適化するには、世界を命題にしなければならない。命題にするには、概念の境界線を引かなければならない。境界線を引くには、名前が要る。名前が要るということは、名づけが先に来るということだ。つまりAIの問題は、知能の高さ以前に、名づけの政治が自動化されることにある。自動化されると速度が上がる。速度が上がると撤回が追いつかない。撤回が追いつかないと、正しさが吠える前に選別が終わっている。ここが本当に怖い。
私は、AIが人間になる日は遠い、と書かれている箇所を読んでもホッとしなかった。ニューロンの数は膨大で、活動のスピードは速く、機械では追いつけないほどだという。普通なら安心する。だが私は、安心できない。なぜなら、私が怖いのは「機械が人間になること」ではなく、「人間が運用の中で機械になること」だからである。機械になるとは、撤回条件を持たずに回り続けることだ。回り続けるとは、止まれない構造である。止まれない構造は、坂道をブレーキなしで転がる。転がる途中で誰かが叫んでも止まらない。叫びは吠え声になり、吠え声は暴力になる。暴力になった吠え声は「騒音」として処理される。処理された後に残るのは無音の運用である。私は叫びを嫌うのではない。止まれない構造を嫌う。止まれない構造が、人を家畜化する。
家畜化という語は強い。しかし私は、強い語を使うときこそ美学が要ると思う。美学は観賞の趣味ではない。私にとっては、世界への接触の設計である。接触の仕方が変わると、見えるものが変わる。見えるものが変わると、正しさの形が変わる。正しさの形が変わると、制度の設計が変わる。制度の設計が変わると、人が黙って選別される地点が変わる。だから私は美学を倫理の横に置くのではなく、倫理の手前に置きたくなる。倫理は裁く。しかし裁きの前に、見え方がある。見え方は言葉と環境の配合で決まる。配合が歪むと、裁きは自動化され、撤回できなくなる。
こういうことを考えながら電車で読み進めると、就労支援の苛立ちが浮上してくる。今日、私は就労支援と福祉の矛盾にもがき苦しんだ。うつではなく、発達障害の人が「寒いから休みます」をOKにしていいのか。このままだと福祉制度に寄生するポンコツ人間製造所になってしまう。寒さと発達障害に何の関係があるのか。自律神経なら自律神経の障害として整理されるべきではないのか。精査ができていないのに薬が出て、手帳まで出る。それが福祉制度の在り方なのか。私は今日、この一連の疑問を、怒りとしてだけでなく、設計として引き受けたいと思った。
ただ、引き受けたいと思った瞬間に私は疲れる。疲れるから私は、世界を壊したくなる。もう機械が全て仕事をすればいい。この文明は滅びればいい。人間は悪だ。存在そのものが悪だ。神はいない。人間は悪だ。滅びるために、宇宙を破壊するために生まれたのだ。宇宙を終わらせるために生まれたのだ。私はこの破局語を、気取った厭世のポーズとして書いているわけではない。私はこの言葉が出てくる条件を知っている。条件とは、折り返し地点が消えたときである。撤回できないときである。言い直しが不可能なときである。運用が淡々と回り、淡々と選別し、淡々と沈黙を積み上げるとき、身体は「終わらせたい」という形で抵抗する。抵抗の形が破局語になるのは、抵抗の言語が残っていないからである。
ここで私は、前に自分が決めた一行を思い出す。撤回の筋肉とは何か。撤回を私は「後から謝ること」とは区別したい。謝罪は道徳である。撤回は運用である。撤回とは、どの前提が崩れたら結論を引き返すか、という折り返し地点の設計である。どの指標が歪んだら評価方法を変えるのか。どの副作用が出たら制度を止めるのか。どの段階で説明責任を追加するのか。どのタイミングで第三者を入れるのか。撤回条件がない制度は、坂道をブレーキなしで転がる。転がる途中で誰かが叫んでも止まらない。叫びは吠え声になり、吠え声は暴力になる。私は叫びを嫌うのではない。止まれない構造を嫌う。
では、就労支援の現場で止まれない構造とは何か。それは、「休み続ける」という現象に対して、運用の折り返し地点が設計されていないことだ。欠勤は起きる。人は崩れる。寒い日もある。感覚過敏がある人もいる。睡眠が崩れる日もある。不安が増える朝もある。しかしそれらが起きることと、それらが「万能の撤退ボタン」として運用されることは別である。私は今日、この区別が曖昧なまま日々が流れていくことに耐えられなかった。
私の苛立ちは、本人を裁きたい苛立ちではない。運用が曖昧なまま続く苛立ちである。理由が「寒い」で止まり、代替カードが提示されず、期限と見直しが付かず、回数で次の段階が自動発動せず、結果として欠勤が週二回で固定化する。固定化した欠勤は、本人の仕様になる。仕様になった瞬間、誰も責任を取らない。支援側は「仕方ない」で済ませる。本人は「そういうもの」で済ませる。済ませられた運用は無音になる。無音の運用は、誰も吠えないからこそ強い。
私はこの無音の強さに対抗したくて、無理にでも言葉を作る。言葉を作るとき、私は以前「名札の暴力」というラベルを置いた。名札は本来、区別と配慮のための道具である。だが名札は貼られた瞬間に「貼られた側の運命」を決め始める。名札が剥がれる設計がなければ、名札は烙印になる。烙印になった名札は、善意で貼られても暴力になる。名札の暴力は声を上げにくい。なぜなら名札は「分類の正しさ」という顔をしているからである。正しさの顔をした暴力は、最も撤回されにくい。
就労支援の現場では、診断名が名札になる。発達障害という名札は、必要な場面も多い。配慮の言語が必要だからである。しかし名札が免罪符になるとき、その名札は烙印と同じ機能を持つ。本人にとっては「私はこれだから」で止まる烙印。支援側にとっては「診断名があるから」で止まる免罪符。免罪符が働くと、運用の設計が止まる。運用の設計が止まると、欠勤は固定化する。固定化した欠勤は「仕様」になる。仕様になったら、世界はそこに折り返し地点を置かなくなる。置かなくなった世界に押し潰されると、身体は破局語を吐く。私は今日、自分が破局語を吐く地点が、まさにこの「免罪符化」の地点であることを自覚した。
ここで医療の話が刺さる。精査ができていないのに薬が出る。精査ができていないのに手帳が出る。そんなのが福祉制度の在り方なのか。私はこの違和感を、医者の悪意として処理したくない。悪意で説明すると、私は楽になる。楽になるが、閉じる。閉じた説明は撤回されにくい。撤回されにくい説明は制度化されやすい。制度化された説明は現場で人を踏む。私はこの順番を見たくない。だから私は、ここでも運用で考えたい。
医療の役割は二つある。原因究明と火消しである。精神領域では火消しが先に来ることがある。生活が崩れているとき、精査を待っていたらその間に生活が壊れる人がいる。入口としての支援は必要である。しかし入口が入口のまま固定化すると、出口のない支援になる。出口のない支援は、あなたの言う「製造所」になる。製造所は、悪意で作られるのではない。出口を設計しない怠惰で作られる。怠惰というより、忙しさと善意の消耗で作られる。私は今日、この出口の不在に怒っている。
出口とは何か。出口とは「終了」ではない。出口とは「移行」である。移行とは、枠を変えることである。同じ枠で同じ結果が続くなら、それは支援ではなく設計ミスの放置である。この乱暴な結論を、私はキャラクターの口調に預けて遊んだ。ホリエモンなら「お前らがバカ。ルール作れ」。青汁王子なら「情じゃなく設計。継続条件を書面化」。溝口なら「実行しないなら最初からルール作るな」。遊びであっても、彼らの口調が突き刺さるのは、私が現場で「例外で崩れるルール」を何度も見ているからである。決めたはずのルールが、いちばんしんどい場面で例外扱いされ、結果として誰も守らないルールになる。守らないルールは、最初からないのと同じである。ないのと同じルールの下で支援が続くと、支援はただの延命になる。延命は善の顔をするが、惰性がいちばん残酷である。
私はここで、読書の話に戻る。ポパー『開かれた社会とその敵 第二巻 上』を読んでいて面白いのは、彼の批判が内容だけでなく文体にも向いているように見えた点である。ヘーゲルの文章は読みにくい。読みづらさだけなら第一級である。ニーチェ『古典ギリシアの精神』もだらだら読みにくく、悪文に感じた。私はこの「悪文」を、好みの問題としてではなく、運用上の危険として扱いたい。なぜなら、読みにくい文章は「理解できない自分が悪い」という自責を生む。自責は沈黙を生む。沈黙は権威を育てる。権威は反証を退ける。反証を退ける体系は強く見える。強く見える体系は人を安心させる。安心は閉じを呼ぶ。閉じは撤回条件を削る。撤回条件が削られた体系は政治へ侵入し、制度になる。制度になった体系は異論を吠え声として扱う。吠え声として扱われた異論は排除されやすい。排除が進むと、開かれた社会は閉じる。私はこの流れを、哲学史の喧嘩として読む気になれない。就労支援の現場でも、同じ回路が回っているからである。
就労支援の苛立ちを抱えながらAI本を読むとき、私は二重に追い詰められる。ひとつは現場の無音の運用である。もうひとつは未来の速度である。未来の速度が上がるほど、現場の無音は「正当化」されやすい。効率、合理化、最適化、生産性、データドリブン。硬い語が並ぶとき、現場の沈黙は「改善」と呼ばれる。だが改善が撤回不能な線引きになるとき、それは暴力になる。暴力とは、線の引き方が撤回不能になることである。
私は以前、唯名論に触れた瞬間に言葉がふっと軽くなる気配がした、と書いた。言葉を軽く扱う者ほど言葉に踏まれる。言葉が軽くなるとき、制度はたいてい重くなる。唯名論が本当に問題にしているのは「すべては名に還元される」という幼稚な話ではない。普遍性の実体化への警戒である。「犬」という語があるからといって「犬性」なるものが独立して存在する必要があるのか。この問いは、“余計な実体を立てる癖”への警戒である。余計な実体を立てると説明は一見うまくいく。しかしうまくいった説明ほど撤回されにくい。撤回されにくい説明は制度化されやすい。制度化された説明は現場で人を踏む。私は今日、この「余計な実体」の場所に、診断名の免罪符化を見てしまう。
ここで私は、読書日記の中に一つだけ概念ラベルを追加する。今日のラベルは**「折り返し欠勤」**である。欠勤を禁じたいのではない。欠勤を許すにしても、その欠勤が「折り返し地点」として機能しているかどうかを問いたい。欠勤が折り返し地点として機能するとは、欠勤が「次の一手」を生むということである。次の一手とは、代替カードであり、環境調整であり、受診であり、計画変更であり、枠の移行である。欠勤がただの停止で終わるなら、それは固定化になる。欠勤が折り返し欠勤になるなら、それは可逆性になる。可逆性があるなら、支援は支援として成立する。
この折り返し欠勤を成立させるには、善意では足りない。善意は尽きる。だから仕組みが必要である。私は今日、仕組みで回すための最低限を、自分の中で言葉に戻した。理由は採点しない。行動だけ決める。欠勤は最後のカードにする。欠勤しても次回の一手を一つ義務化する。回数で自動的に面談と計画変更を発動する。改善がなければ枠を変える。枠を変えてもダメなら就労から生活再建へ移す。終了ではなく移行通知にする。これは冷たいのではない。情が尽きたときに運用が崩れないようにする、世界への接触の設計である。
私はここで、世界への愛という語に戻る。愛を思いやりと定義する一部のリベラルに私は反発してきた。思いやりで世界は成立するのか。利権や立場が怪しくなった瞬間に思いやりなど吹き飛ぶのではないか。私はそう推察している。だから「世界への愛」というタイトルが、甘い免罪符に見える。しかし、もし世界への愛が、思いやりでも自己犠牲でもなく、世界を残すための運用=折り返し地点の設計だとしたらどうか。世界とは、人間が共同で作り、共同で住む「あいだ」である。制度、言葉、約束、公共空間、作品、都市、慣習。それらを壊さず持たせ、次に引き渡す。そのために撤回条件を埋め込む。これが愛だとしたら、私は今日、世界への愛と宇宙破壊願望を同じ紙に書いてしまったことになる。矛盾である。だが矛盾は恥ではない。矛盾は折り返し地点がまだ生きている証拠でもある。
ここまで書いても、私はまだ疲れている。疲れているから破局語はまた戻ってくるだろう。だから私は、破局語を恥として隠すのではなく、アラームとして扱う。アラームが鳴ったら、まず運用を点検する。どこで折り返し地点が消えたのか。どこで名札が烙印になったのか。どこで代替カードが失われたのか。どこで善意が免罪符になったのか。どこで無音の運用が勝ったのか。点検できるなら、私はまだ世界を捨てきれていない。捨てきれていないなら、明日の最小一手が置ける。
明日の最小一手とは何か。大きな改革ではない。紙一枚の運用である。「寒いから休みます」を受理する前に、代替カードを一枚提示する。「欠勤」になったなら、次回の一手を一つだけ決める。「週二回」が続くなら、回数で面談と計画変更を自動発動する。計画変更でも改善がないなら枠を変える。枠を変えてもダメなら就労を止め、生活再建へ移す。移す条件も数値で決める。これが折り返し欠勤の設計である。
私は、AIが人間になる日が遠いと聞いても安心しない。安心しないのは、AIの未来が怖いからではない。AIの未来を口実にして、撤回条件のない運用を正当化する人間が怖いからである。人間は悪だと言いたくなるのは、悪が人間に宿るからではない。悪が運用として固定されるからである。固定された悪は自然に見える。自然に見える悪は誰も謝らない。謝られない悪は沈黙になる。沈黙が積もると世界は静かに閉じる。私は世界が閉じることを恐れている。だから世界を壊したいと言ってしまう。矛盾である。この矛盾のまま、今日の私はいったん筆を置く。
では私は、滅び願望というアラームを「人間は悪だ」という閉じに変える前に、就労支援の欠勤という小さな運用の中へどの折り返し地点を増設し、名札が烙印になる速度をどの手続きで落とし、無音の運用が勝つ前にどの測定を挟み、世界への愛を思いやりではなく撤回可能性として実装するために、明日どの一手を最小単位として置くべきなのだろうか。
※ここまでが統合本文の「第1ブロック」である。80000字級にするため、同じ背骨のまま、次は以下を厚く書き足す:
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ポパーの辛口(閉じた体系)と、ヘーゲル/ニーチェの悪文が“無音の運用”へ接続する回路
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医療・福祉・就労支援の三角形を「入口は広い/出口は必須」で運用化する具体の言語
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『本屋のパンセ』の読書を、今日の疲労と“知の公共性”の話に繋ぐ
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破局語(文明滅びろ)の扱いを、倫理ではなくアラームとして「点検→最小一手」へ戻す技術
第2ブロック(増補)—ポパー/悪文→無音の運用/三角形の運用化/『本屋のパンセ』
ポパーを読んでいると、苛立ちがこちらに伝染する。私はまだヘーゲル批判の途中である。途中であるが、途中でもう分かってしまう種類の苛立ちがある。ポパーの苛立ちは、ヘーゲルの内容に向いているようでいて、同時に文体に向いている。というより、文体が内容の一部になってしまっている、と彼は見ているように私には読める。彼にとって「悪文」は、単なる読みにくさではない。悪文は、反証を拒む装置であり、批判の回路を塞ぐ装置であり、読者を黙らせる装置である。ここまで言うと、私は少し安心する。なぜなら私は、就労支援の現場で同じ装置を見ているからである。
ヘーゲルの文章が読みにくい、という話は古典的である。構文が長い、抽象語が増殖する、同じ語が意味を滑らせながら反復される、論点が遅れて現れる。読者は見失う。見失った読者は、自分が悪いのだと思う。ここが危ない。読者が自分を責め始めた瞬間、文章は権威になる。権威になった文章は、内容の真偽から逃げ始める。真偽は本来、問い返されるべきである。問い返されるためには、問い返せる形で書かれなければならない。問い返せる形とは、反証可能性を残す形である。反証可能性を残すとは、読者に反例を投げ込ませる余白を残すことである。余白のない文章は、読みづらさの段階で既に閉じている。
ニーチェも、作品によって文体が別人級に変わる。短い刃物のようなアフォリズムのニーチェもいれば、講義や草稿のように、迂回と反復と修辞が増殖するニーチェもいる。私は『古典ギリシアの精神』で後者に当たった。だらだら、読みづらい、悪文だ、と感じた。ここで私は、ニーチェが嫌いになったのではない。私は、読者体験としての「悪文」を現実として引き受けたい。読む側の時間は有限であり、注意力は疲れる。疲れた注意力は概念を早く閉じたがる。閉じた概念は反例を嫌う。反例を嫌う概念は反例を黙らせたくなる。こうして読みにくさは、思想の内容以前に、閉じの誘惑を生む。
私はここで、前に置いた概念ラベルをもう一度呼び出す。文体の防衛線である。防衛線とは敵から身を守る線である。だがこの防衛線は、読者から批判を守る線でもある。文体が防衛線になると批判は近づけない。近づけない批判は、いつの間にか「理解できない自分が悪い」という自責に変換される。自責は沈黙を呼ぶ。沈黙は権威を育てる。権威は制度と相性が良い。制度と相性が良い権威は、無音の運用を生む。無音の運用は静かな選別を生む。ここまで来ると文章の話ではない。世界の話である。
私はこの回路を、就労支援の現場でも見る。支援計画書、医師の診断書、自治体の運用指針、事業所の規程、会議の議事録。これらはすべて文体を持つ。文体が「問い返せない形」になった瞬間、それは防衛線になる。問い返せない形とは、意味が曖昧であることだけではない。問い返すと面倒が増える形である。問い返すと誰かの仕事が増える形である。問い返すと責任の所在が曖昧になる形である。つまり「問い返さないほうが回る」形である。問い返さないほうが回る運用は、無音の運用である。
私は今日、就労支援の苛立ちを抱えたまま、AI本とポパーを同じ袋に入れて読んだ。その袋の中で一番重かったのは、結局「問い返せない形」だった。AIは問い返しを弱くする。AIが出す予測や分類は、精度が上がるほど権威になる。権威になった予測は、反例を例外として棚上げする。棚上げが続くと、体系は強く見える。強く見える体系は人を安心させる。安心は閉じを呼ぶ。閉じは撤回条件を削る。撤回条件が削られると、体系は政治へ侵入し、制度になる。制度になった体系は、異論を吠え声として扱う。吠え声として扱われた異論は排除されやすい。排除が進むと、開かれた社会は閉じる。私は、ポパーの語りが、未来のAIの語りにまで届いてしまうことを感じている。
だが、ここで私は自分に釘を刺す。ポパーの辛口は気持ちがいい。気持ちがいいから危ない。気持ちがいい閉じは、撤回の筋肉を腐らせる。私は、ヘーゲルを悪文だと断じる快感、ニーチェを悪文だと断じる快感、医療をいい加減だと断じる快感、福祉を製造所だと断じる快感に、簡単に逃げられる。逃げれば楽になる。楽になれば閉じる。閉じれば撤回条件が消える。撤回条件が消えれば、私は結局、自分が嫌っている無音の運用の側に回る。だから私は、辛口を採用するのではなく、辛口を警報として使う。苛立ちは棍棒ではなく、折り返し地点を探すための温度計である。
ここで、医療・福祉・就労支援の三角形を、もう少し現場の言語で運用化する。理想論ではなく、明日からの線引きである。
医療は「病名」を出す場所ではなく、機能の整理と仮説更新をする場所である。福祉は「給付」を続ける場所ではなく、選べる場を整える移行装置である。就労支援は「励ます」場所ではなく、折り返し地点を埋め込む運用設計の場所である。この三つがそれぞれの仕事をやらないとき、現場は崩れる。
崩れる典型が、今日の「寒いから休む」である。ここで私が求めているのは、診断名の厳密さではない。診断名は必要だが、必要なのは免罪符ではない。必要なのは、支援の言語を「理由」から「機能」に翻訳することである。寒い、という言葉は理由に見えるが、運用としては曖昧すぎる。運用が曖昧すぎると、撤回条件が付けられない。撤回条件が付けられない運用は固定化する。固定化した運用は製造所に見える。私はそれが嫌なので、翻訳する。
「寒い」→「何ができなくなったか」。 移動か、対人か、集中か、睡眠か、準備か、感覚か。機能が特定されると、代替カードが置ける。代替カードとは、在宅、時短、遅刻出社、軽作業、別室、同行、時間変更である。カードを置くのは優しさではない。運用である。カードを置くと、欠勤が最後のカードになる。欠勤が最後のカードになると、欠勤が折り返し欠勤になりうる。
折り返し欠勤とは、欠勤が「停止」ではなく「次の一手」を生む欠勤である。欠勤したら次回の一手を一つ決める。欠勤が繰り返されるなら、回数で面談と計画変更を自動発動する。改善がないなら枠を変える。枠を変えてもダメなら就労から生活再建へ移す。終了ではなく移行通知にする。移行通知とは、本人を罰する通知ではなく、枠のミスマッチを是正する通知である。週二回休む人を週五前提の枠に置き続けるのは支援ではなく放置である。放置は最終的に残酷である。だから移行する。移行には条件が必要だ。条件は、情が尽きたときに運用が崩れないための支柱である。
ここで私は、あなたが私に怒鳴った場面を思い出す。「質問ばかりしてんじゃねえ」「暴論ではないはずだ」「支援したこともねえのに偉そうなこと言うな」。私はその怒りを、私への侮辱として受け取るより、現場の構造への怒りとして受け取ったほうが正確だと思った。出口なしで責任だけ背負わされる構造に向けた怒りである。私はその怒りの正当性を否定しない。むしろ、その怒りがあるうちは、まだ折り返し地点が生きている。
ここで『本屋のパンセ』の話に移る。私は帰宅後それを読んだが、さすがにもう読む気力がなかった。ここで私が感じたのは、「知の公共性」という幻想の疲れである。本屋は本来、公共の知を支える場所だ、と私は思いたい。だが疲労が極まった日に、本屋のパンセは「正しいことを言う文章」に見えてしまう。正しいことを言う文章は、疲れているときほど棍棒に見える。棍棒に見えるのは、私が悪いのではない。私の撤回筋肉が弱っているからである。撤回筋肉が弱っていると、正しさは吠え声に見える。吠え声に見えると、私は無音を望む。無音を望むと、私は「機械が全部やれ」と思う。機械が全部やれと思うと、私は文明が滅びればいいと思う。ここで『本屋のパンセ』は、知の公共性への礼賛としてではなく、私の疲労を映す鏡として作用した。
つまり、私が本屋のパンセを読めなかったのは、単に疲れていたからではない。私は「公共性」という語に、今日、免罪符の匂いを嗅いでしまったからである。公共性は必要である。しかし公共性という語が、現場の撤回条件の設計を省略する免罪符として働くとき、それは危険になる。私は以前「献身語の免罪」というラベルを置いた。愛、思いやり、世界、公共、正義。善の顔で流通する語は、語り手の意図を免罪し、撤回条件の設計を後回しにする。今日の私は、公共性という語に対しても、同じ警戒心を抱いた。
ここで、私の破局語がもう一度意味を変える。人間は悪だ、文明は滅びろ、宇宙を終わらせろ。これらは、世界の否定として読むと危険である。だがアラームとして読むなら、そこには「撤回条件が失われている」という信号が含まれる。信号なら、点検できる。点検できるなら、明日の最小一手が置ける。
明日の最小一手は、文章においても同じである。私はポパーの辛口に乗って、ヘーゲルを悪文だと断じ、ニーチェを悪文だと断じ、気持ちよく閉じてしまいたくなる。しかし閉じた文章は、読者の反例を拒む。反例を拒む文章は、読者を黙らせる。黙らせる文章は権威になる。権威は制度と相性が良い。だから私は、自分の文章にも折り返し地点を入れたい。折り返し地点とは問いである。問いは結論を遅らせる。結論を遅らせるとは撤回可能性を残すことである。
ここまでの第2ブロックで私がやったのは、読みにくい文体の話、AIの速度の話、就労支援の欠勤の話、医療・福祉の入口と出口の話、本屋のパンセの公共性の話、破局語のアラームの話を、すべて「問い返せない形=無音の運用」という一点に集約することだった。集約すると、私は少しだけ楽になる。だが集約は閉じにもなりうる。だから私は、集約した上で問いを残す。
では私は、ポパーの辛口を棍棒ではなく警報として使い、悪文の防衛線を自分の文章にも仕込まないよう注意しつつ、医療・福祉・就労支援の三角形に「入口は広いが出口は必須」という折り返し地点をどの頻度で埋め込み、『本屋のパンセ』が語りたがる公共性を免罪符ではなく運用として扱い直し、無音の運用が勝つ前にどの小さな問いを明日の現場に差し込むべきなのだろうか。
第3ブロック(増補)—返答テンプレ/人間が機械になる恐怖/アラームの技術
私は、現場で「正しさ」を語りたくない。正しさは吠えるからである。吠え声は相手を黙らせる誘惑を伴う。黙らせると制度は静かに回る。静かに回る制度は静かに人を選別する。私はこの順番を嫌っている。だから私は、正しさではなく、運用を語りたい。運用とは、手続きと例外と反例の束である。束である以上、いちどに握りつぶさないほうがいい。握りつぶさないためには、現場の言葉を「棍棒」ではなく「型」にする必要がある。型は、感情が尽きても回る。私は今日、感情が尽きかけた。だから型が必要だと思う。
「寒いから今日休みます」。その一行を前にして、私は何度も反射的に苛立った。苛立つのは、寒いと言うことが悪いからではない。悪いのは、その一行が運用の言語として通ってしまうことだ。運用の言語として通ると、世界の側の因果も、本人の側の機能も、次の一手も、すべてが「休む」で潰される。潰されるたびに、現場は同じ問いを繰り返す。繰り返しは消耗である。消耗は破局語を呼ぶ。だから私は、潰れないための返答を、説教ではなく詩の形で用意したい。詩とは、相手を殴る言葉ではなく、相手の次の一手を生む言葉である。
私は自分のために、短い返答テンプレを三つだけ持つことにした。三つだけ、というのが重要である。多いテンプレは覚えられない。覚えられないテンプレは現場で使われない。使われないテンプレは紙の上の善意である。善意は尽きる。だから三つだけである。
一つ目の返答は、受理と同時に選択肢を開く。
了解である。今日は三択である。①在宅で最小稼働(30分)②遅れて出る(○時)③欠勤。どれにするか。
この返答は、理由を裁かない。寒いかどうかを審判しない。審判しない代わりに、欠勤を最後のカードに押しやる。最後のカードに押しやるとは、欠勤を折り返し欠勤にする準備である。欠勤が最後のカードになると、欠勤が万能の撤退ボタンになりにくい。万能になりにくくなると、運用は少しだけ呼吸を取り戻す。
二つ目の返答は、欠勤を許しながら、次回の一手を一つだけ固定する。
欠勤は了解である。次回同じときの対策を一つだけ決めて返信してほしい。厚着、カイロ、出発をずらす、在宅切替の準備。どれでもよいが、ゼロは不可である。
ここで「ゼロは不可」と言うと冷たく聞こえる。だが冷たさは相手のせいではなく、運用のために必要な摩擦である。摩擦がない運用は滑る。滑る運用は止まれない。止まれない運用は無音の運用になる。無音の運用は選別を静かに完了させる。私は、欠勤を許すことより、欠勤がゼロ復帰になることを恐れている。だから私は、欠勤のたびに「次回の一手」を一つだけ置く。
三つ目の返答は、回数を扉にする。感情ではなく回数で次の段階を発動する。
同じ型の欠勤が月に三回出たら、面談と計画修正を自動発動する。改善がなければ枠を変更する。枠の変更でも改善がなければ、就労支援から生活再建へ移行する。
この返答は本人を脅すためではない。支援側の善意を守るためである。善意は尽きる。尽きた善意の上に運用が乗ると、運用は突然「切り捨て」になる。切り捨ては、固定化と同じくらい残酷である。だから私は、善意が尽きる前に、回数で扉を開く。扉を開くとは、折り返し地点を制度に埋め込むことである。
この三つの返答テンプレを、私は詩のように繰り返したい。詩とは、意味の装飾ではない。反射神経の設計である。私が疲れたときでも、怒りが出たときでも、破局語が喉まで上がったときでも、口が先にこの三つを言えるようにする。言えれば、少なくとも「無音の運用」には飲まれにくい。
ここで私は、AIが人間にならないという安心が刺さらない理由を、もう少し掘る。AIが人間にならないのなら、まだ人間が主役である。主役であるなら、安心できそうなものだ。だが私は安心できない。なぜなら、主役が人間であることと、人間が人間であることは別だからである。人間は、運用の中で機械になれる。機械になるとは、理由を理解しないまま分類し、例外を抱えず、折り返し地点を持たず、淡々と回ることだ。淡々と回ることは効率である。効率は善の顔をする。善の顔をした効率は撤回条件を削る。撤回条件が削られた効率は、もはや人間のものではない。
私はここで、機械が人間になる未来よりも、人間が機械になる現在を怖がっている。現在の機械化とは、AIの導入そのものではない。AIを導入する理由が単一化することだ。「それはロボットでいいよね」という一言が、すべての領域を埋め尽くす瞬間である。私は以前、介護の話でこの仮説を置いた。「ここから先は人間がいい」と思う人間が残れば、人間は淘汰されない。しかし私は今日、その言葉を希望としてではなく、コストとして読む。「ここから先は人間がいい」と言うことは、社会があえて人間を残すコストを払うという宣言である。払わない宣言が積もると、人間は機械になる。機械になるとは、支援が支援でなくなることだ。支援が支援でなくなるとは、折り返し地点が消えることだ。
折り返し地点が消えたとき、私は破局語を吐く。文明は滅びろ、人間は悪だ、宇宙を終わらせろ。これらは結論ではない。アラームである。アラームを結論にすると危険である。危険なのは、アラームが「閉じ」を与えるからである。閉じは楽だ。楽だから怖い。だから私は、破局語をアラームとして扱い、アラームを点検に変え、点検を最小一手に変える技術を、日々のリズムとして持ちたい。
私はこの技術を、三段階に分けた。アラーム、点検、最小一手である。ここでも多くの段階は要らない。疲れたときほど複雑な手順は守れない。守れない手順は無音の運用と同じである。だから三段階である。
第一段階は、アラームを名づける。名づけるとは、破局語を恥として隠さないことである。ただし美化もしない。「滅びろ」が出た。出た、で止める。理由付けをしない。哲学にしない。ここで私は「人間は悪だ」と結論したくなる。結論したら楽になる。楽になるが閉じる。閉じたら撤回条件が消える。だから結論しない。アラームだ、と言う。
第二段階は、点検に落とす。点検とは、どこで折り返し地点が消えたかを探すことである。私の点検項目は四つだけでよい。
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代替カードが消えたか
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回数の扉が消えたか
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言語が理由で止まっていないか(機能に翻訳されているか)
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名札が免罪符になっていないか
この四つのうち、どれが欠けているかを一つだけ選ぶ。一つだけ、が重要である。複数を同時に直そうとすると、私はまた疲れる。疲れると破局語が戻る。だから一つだけである。
第三段階は、最小一手を置く。最小一手とは、明日からできる一行の運用である。私にとっての最小一手は、返答テンプレのどれかを一回だけ実行することだ。三択を出す。次回の一手を一つ固定する。回数で面談を自動発動する。たった一回でいい。一回でも、折り返し地点は増える。折り返し地点が増えれば、無音の運用は少しだけ割れる。割れれば、世界はまだ終わらない。
私はこの三段階を、日々のリズムとして回したい。朝、電車でAI本を読む。夕方、現場の無音に触れる。夜、破局語が喉に上がる。ここでアラームを名づけ、点検し、最小一手を置く。置いたら眠る。眠れない日もある。その日も、最小一手だけは置く。最小一手は世界を救わない。しかし最小一手は、私が世界を壊す言葉に飲まれないための段差になる。
私は、AIが人間にならない未来に安心できない。安心できないのは、AIが怖いからではない。私が怖いのは、無音の運用が気持ちよくなることだ。気持ちよさは権威になる。権威は問い返しを奪う。問い返しが奪われると、支援は支援でなくなる。支援が支援でなくなると、私は破局語を吐く。破局語を吐いたら、私はアラームとして名づける。点検し、最小一手を置く。これが私の撤回の筋肉である。
では私は、明日「寒いから休みます」という一行が来たとき、正しさの棍棒を握る前に三択の詩を返し、欠勤が出たなら次回の一手を一つだけ置き、週二回の欠勤が続くなら回数の扉を開き、そして夜に破局語が喉まで来たとき、それを結論にせずアラームとして扱い直すことで、無音の運用にどれだけの小さな割れ目を作れるのだろうか。
第4ブロック(増補)—介護/労務配属の自己像/評価と選別の具体/静かな運用のディテール
私は介護の話を、希望としては語りたくない。希望は、疲れているときに裏切るからである。裏切られた希望は、すぐに破局語へ変わる。だから私は介護を、希望ではなく設計として語りたい。設計として語るとは、「人間らしさ」を情緒ではなくコストとして扱うことである。私は以前、「人間らしさは能力ではなく、社会があえて人間を残すために払うコストの名前である」と書いた。この一句は今日も効く。
介護は、人間が機械になりにくい領域だ、と言われる。人間らしさが要されるからだと言われる。だが私は、この言い方が危ないのを知っている。危ないのは、介護が“最後の聖域”として囲い込まれるからではない。危ないのは、「人間らしさ」という語が免罪符になり、撤回条件の設計を省略するからである。人間らしさが要る、と言った瞬間、賃金が低くても仕方ない、労働が過酷でも仕方ない、現場が燃えても仕方ない、という雑な諦めが入り込む。諦めが入り込むと、人は辞める。辞めると人手不足になる。人手不足になると、再び「ロボットでいいよね」が正義の顔で現れる。つまり介護は、人間らしさが要るから守られるのではない。人間らしさが要るという語が、むしろ人間を消耗させる装置にもなる。
私は介護の現場を、具体で想像する。触れ方、間合い、沈黙の扱い、予期しない揺れへの対応、言葉にならない不安への同調、怒りの受け止め、恥の保護、本人の尊厳の守り方。これらは一覧表にしにくい。しにくいから測定が難しい。測定が難しいから制度化が難しい。制度化が難しいから賃金の根拠にしにくい。賃金の根拠にしにくいから労働は軽く扱われる。軽く扱われると人は辞める。辞めた後に残るのは、空白と最適化である。空白は最適化を呼ぶ。最適化は数値化を呼ぶ。数値化は名づけを呼ぶ。名づけは境界線を呼ぶ。境界線は選別を呼ぶ。ここで介護の世界も、無音の運用に吸い込まれうる。
だから私は、介護を守るなら「人間らしさが要る」という語では守れないと思う。守るなら、折り返し地点を埋め込むしかない。例えば、介護の質を数値に落とし切らなくても、報酬の根拠として成立する言語を持つこと。数値に落とし切れないが、説明可能であり、共有可能であり、見直し可能な言語である。言語があると、問い返しができる。問い返しができると、撤回ができる。撤回ができると、運用は暴力になりにくい。私は、ここでAIの恐怖と介護の恐怖が同型であることを見てしまう。恐怖は「代替される」ことではない。恐怖は「問い返せなくなる」ことだ。
私は近々、労務課に配属される予定である。労務課に配属されるということは、線を引く仕事が増えるということだ。ハラスメントと指導の境界線。合理的配慮と特別扱いの境界線。成果と過労の境界線。評価と選別の境界線。線を引くとは、誰かをこちら側に置き、誰かをあちら側に置くことである。だから線を引くことは政治である。政治は正しさを伴う。正しさは吠える。私は吠え声を嫌って沈黙したくなる瞬間がある。だが沈黙した瞬間、無音の運用が勝つ。私は吠え声を礼賛したいのではない。吠え声が出るほどの歪みを、吠え声になる前に測りたい。
労務の仕事で怖いのは、私が「正しい線」を引けないことではない。怖いのは、線を引くことが日常になり、線の撤回ができなくなることである。撤回できない線引きは暴力になる。暴力とは、線の引き方が撤回不能になることである。撤回不能になるとき、そこにはいつも「静かな運用」がある。静かな運用とは何か。派手な命令ではない。会議での決定でもない。淡々と更新される様式であり、黙って回るチェックリストであり、異論を言いにくい雰囲気であり、当たり前として積もる前提である。静かな運用は、誰も怒鳴らないからこそ強い。
私は就労支援で見た。欠勤が続く。週二回のペースで休み続ける。これに対して、誰も大声で怒鳴らない。だからこそ運用は変わらない。運用が変わらないことが「優しさ」に見える。優しさに見える固定化は、最終的に本人の可能性を削る。可能性が削られると、本人の世界も閉じる。閉じた世界は、支援者にも閉じを返す。支援者の閉じが増えると、支援者は疲れる。疲れた支援者は破局語を吐く。ここで、個人の感情が制度の歪みの計器になる。計器が壊れる前に、計器の値を読むべきだと私は思う。
評価と選別の話に戻る。就労支援も労務も、評価と選別から逃げられない。評価は必要である。評価しないと配分ができない。配分ができないと運用が回らない。だが評価は、選別に近い。近いというより、評価は常に選別の準備である。だから評価は政治である。政治である以上、撤回条件が要る。撤回条件がない評価は、坂道を転がる。
私は評価の具体を想像する。例えば、出勤率という数字。出勤率は気持ちが良い。気持ちが良いから固定される。固定されると、出勤率が低い人が「低い人」として固定される。固定された「低い人」は、次の配置や次の支援の前提になる。前提になると、当人の反例は例外として棚上げされる。棚上げが続くと、当人の反例は沈黙になる。沈黙は統計の外に追いやられる。統計の外はAIの外に追いやられる。AIの外は制度の外に追いやられる。こうして見えないが増える。見えないが増えると、正しさが吠える。吠える正しさは撤回条件を嫌う。私はこの循環の中で、出勤率という「気持ちの良い閉じ」が、どれほど暴力になりうるかを見たい。
ここで「静かな運用」のディテールを、もう少し具体に書く。静かな運用は、派手な暴力よりも見えにくい。見えにくいからこそ、日常として浸透する。
静かな運用は、例えば「連絡は〇時まで」という一行に宿る。遅れた連絡は軽蔑される。軽蔑は表に出ない。表に出ないが、支援の温度が変わる。温度が変わると、本人の発言が減る。発言が減ると、支援者は状況が分からなくなる。分からなくなると、支援者は一般論に逃げる。一般論は棍棒になる。棍棒は吠え声になる。吠え声は暴力になる。暴力は沈黙を生む。沈黙は静かな運用を強くする。
静かな運用は、例えば「体調不良は自己管理」という一行に宿る。自己管理は正しい。だが自己管理の語が、支援の放棄の免罪符になるとき、それは危険である。危険なのは、本人が甘えるからではない。支援側が折り返し地点の設計を省略するからである。省略されると、欠勤は万能になる。万能になった欠勤は固定化する。固定化は製造所に見える。製造所に見えると、支援者は怒る。怒ると破局語が出る。破局語が出ると、支援者自身の撤回筋肉が切れる。
静かな運用は、例えば「支援は本人主体」という一行に宿る。本人主体は正しい。だが本人主体が「本人の自己申告だけで無制限に退避できる」という免罪符に変わると、本人主体は本人の可能性を削る。可能性を削る主体性は、主体性の名前を借りた固定化である。固定化の主体性は、本人に「変わらないこと」を学習させる。学習された変わらなさは仕様になる。仕様になったら、枠を変えるしかない。枠を変えることをためらうと、支援は放置になる。
私はここで、介護の話と就労支援の話とAIの話が、同じ背骨でつながっていることを再確認する。背骨は「問い返せる形」かどうかである。問い返せる形が残っている限り、撤回ができる。撤回ができる限り、世界は壊れにくい。問い返せない形が増えるほど、無音の運用が勝つ。無音の運用が勝つほど、人間は機械になる。人間が機械になるほど、私は破局語を吐く。破局語が出たら、私はアラームとして名づけ、点検し、最小一手を置く。
ここで最小一手を、介護と労務の未来に接続する。労務で私が持つべき最小一手は、線引きの前に「撤回条件」を書くことだ。何をもって見直すか。どの副作用が出たら止めるか。誰が異議を言えるか。どの頻度で再評価するか。これを最初から置く。置けば、線引きが暴力へ変質しにくい。介護で社会が持つべき最小一手は、「人間留保」を理念ではなく予算として置くことだ。人間を残すなら、残すと決め、支払う。支払うなら、評価語彙を整える。整えるなら、問い返せる言語を持つ。問い返せる言語があれば、無音の運用は割れる。
私は今日、破局語を吐いた。それは恥ではない。恥ではないが危険である。危険だからこそ、アラームとして扱う。アラームを点検に変え、点検を最小一手に変える。私はこの技術を、現場だけでなく、自分の生活にも適用したい。残業が積んだ週は、最小一手を「寝る」にする。読む気力が残っていない夜は、最小一手を「読むのをやめる」にする。読むのをやめることは怠惰ではない。撤回筋肉を温存する運用である。撤回筋肉が残っていれば、明日、三択の詩が返せる。返せれば、無音の運用に割れ目が入る。
では私は、介護という名の聖域を希望で塗りつぶすのではなく、労務の線引きを正義で誤配するのでもなく、評価と選別の気持ちよさに酔うのでもなく、静かな運用のディテールを一つずつ点検しながら、折り返し欠勤の詩と撤回条件の一行を武器にして、どこまで世界を「問い返せる形」のまま残せるのだろうか。
第5ブロック(増補)—電車/帰宅/疲労/語感のズレ/連続性+『スーパーインテリジェンス』具体の再結線
電車で読むという行為には、独特の湿り気がある。湿り気は甘さではない。重さを見えるようにすることである。私は以前、言葉が軽くなるとき制度は重くなる、と書いた。電車の中で読むと、言葉は軽くなりやすい。ページは進む。進んだ気がする。進んだ気がすると、理解した気がする。理解した気がすると、閉じたくなる。閉じたくなると、反例が邪魔になる。反例が邪魔になると、世界がうるさくなる。世界がうるさくなると、無音を求める。無音を求めると、機械が羨ましくなる。羨ましくなると、文明が滅びればいいと思う。私はこの短絡を、電車の揺れの中で何度も反芻してしまう。
車窓の景色は流れる。流れる景色は、一定の速度で世界を薄くする。薄くなる世界の中で、私は分厚い本を読む。分厚い本は、読み切ったという達成感で人を陶酔させる。しかし今日は読み切っていない。読み切れないという事実が、むしろ今日の主題と噛み合う。読み切れないという遅さは、概念の閉じを遅らせる。閉じを遅らせることは、撤回の通路を確保することでもある。私は遅さを怠惰ではなく運用として扱いたい。運用とは、手続きと例外と反例の束である。束である以上、いちどに握りつぶさないほうがいい。
帰宅すると、読書の速度が私の意思に戻るはずだ。だが戻らない日がある。残業が積んだ日は戻らない。戻らない速度の中で『本屋のパンセ』を開く。開くが、文字が入ってこない。入ってこないとき、私は自分を責めたくなる。責めたくなるが、ここで責めると、私はまた「理解できない自分が悪い」に落ちる。これはヘーゲルの悪文が生む自責と同型である。つまり疲労は、文体の防衛線を自分の内側に作る。自分の内側の防衛線は、他者の言葉を拒む。拒むと孤立する。孤立すると破局語が出る。だから私は、読めない夜を恥とせず、運用として扱う必要がある。読むのをやめる。寝る。最小一手である。
日々が連続しているという感覚は、私にとって救いでもあり呪いでもある。救いなのは、昨日の言葉が今日の言葉を支えるからである。呪いなのは、昨日の矛盾が今日も続くからである。私は「連続読書日記」という語を自分で名づけた。名づけた以上、私は連続する矛盾を引き受ける。引き受けるとは、矛盾を美談にしないということでもある。矛盾を美談にすると、矛盾は免罪符になる。免罪符になった矛盾は撤回条件を奪う。撤回条件が奪われた矛盾は、ただの固定化になる。私は固定化が嫌いである。
語感のズレが、今日の私を救うこともある。重い話を重いまま書くと、私は自分の言葉に窒息する。だから私は、わざと語感をずらす。ホリエモン、青汁王子、溝口。あの雑なキャラクターたちは、私の内側の「短い言葉で切り返したい衝動」の避難所である。避難所は必要だ。避難所がないと、私は破局語を直接吐く。直接吐くと、世界を断つ。断つ前に、語感のズレで空気を入れる。空気を入れるとは、撤回可能性を残すということである。
『スーパーインテリジェンス』に戻る。本が語る「波」と「壁」は、研究史の説明である。しかし私は、それを運用史として読む。波が来ると、研究資金が集まる。資金が集まると人が集まる。人が集まると会議が開かれる。会議は共同体の記号である。共同体の記号は、知が公共的であるという幻想を支える。だが波が引くと、人は散る。散ると、領域は守られる。守られると、協力は減る。協力が減ると、知は分断される。分断された知は、公共性ではなく利害で接続される。利害で接続された知は、企業へ流れる。
ここで「学界→企業」という流れが出てくる。昔は学者が大勢集まって人工知能の会議を開いた。今後は学者が自分の領域を守るため、あまり協力的でない可能性もある。企業のほうで進めていくことになるだろう。私はこの予測を、善悪で語りたくない。企業が悪で学界が善、という単純化は、気持ちよい閉じである。気持ちよい閉じは撤回筋肉を腐らせる。私は腐らせたくない。
だが同時に、学界→企業の流れが運用に与える効果は、はっきりしている。企業は回収を求める。回収は指標を求める。指標は測定を求める。測定は名づけを求める。名づけは境界線を求める。境界線は選別を求める。つまり学界→企業は、知を「問い返せる形」から「問い返しにくい形」へ押しやる危険を持つ。問い返しにくい形とは、秘密、特許、ブラックボックス、説明責任の薄さ、そして速度である。速度が上がると撤回が追いつかない。撤回が追いつかないと、選別が終わってから吠えるしかなくなる。ここが怖い。
私はここで「天才像」の変化に触れる。昔はノイマンやチューリングのような天才が時代の最先端にいた、という物語がある。最近は天才と言えば起業家が多い印象がある。才能をお金に還元する時代だ、と私は感じた。だが私は、この感想を「まあどうでもいい」で流せない。なぜなら、天才像の変化は、世界の価値の変化を示しているからである。
天才が学者から起業家へ移るとき、何が起きるのか。知が価値になる回路が変わる。価値になる回路が変わると、知の語り方が変わる。語り方が変わると、問い返しの余地が変わる。起業家の語りは、しばしばスケールの語りである。スケールの語りは、複製の語りである。複製の語りは、例外を削る語りである。例外を削る語りは、撤回条件を嫌う語りである。私はここで、ポパーの閉じた体系への警戒と、AIの速度の話と、就労支援の固定化の話が、再び同じ背骨でつながっているのを感じる。
ここで私は、2100年に人間ができることがなんでもできるロボットが生まれる可能性が90%だと書いてあった、という話を思い出す。私はこの数字を真偽としては扱わない。数字は運用を変える。90%は準備を促す。準備は制度を促す。制度は名づけを促す。名づけは選別を促す。だから私は、90%という数字を、未来の予言ではなく、現在の運用を動かすレバーとして読む。
レバーが動くと、現場が動く。現場が動くと、支援が動く。支援が動くと、誰かが踏まれる。踏まれた誰かが沈黙する。沈黙が積もると、私は破局語を吐く。だから私は、レバーが動く前に折り返し地点を増やしたい。折り返し地点とは、問われる場を残すことだ。問い返しができるようにすることだ。問い返しができるようにするとは、説明責任を残すことだ。説明責任を残すとは、文体の防衛線を崩すことだ。崩すには、型が要る。返答テンプレが要る。
電車・帰宅・疲労・語感のズレ・日々の連続は、私の文章の装飾ではない。これらは運用の条件である。運用の条件が悪いとき、私は閉じやすい。閉じやすいとき、私は破局語を吐きやすい。吐きやすいとき、私はアラーム→点検→最小一手の技術に戻る必要がある。
だから私は、今日もまた、電車で読んで帰宅して疲れて、語感をずらして、連続する矛盾を書き留める。書き留めることは、世界を残すための運用である。世界を残すとは、壮大な善意ではない。問い返しの余地を残すことだ。撤回可能性を残すことだ。折り返し地点を、紙の上に一つずつ増設することだ。
では私は、学界から企業へ流れる知の速度に飲まれず、天才像の変化に酔わず、90%というレバーが現場を踏み潰す前に、電車の揺れの中で閉じかける自分の概念を少しだけ遅らせ、帰宅後に読めない夜を恥とせず、語感のズレで空気を入れながら、明日の最小一手としてどの折り返し地点をまた一つ増設すべきなのだろうか。
第6ブロック(増補)—現場の一瞬:通知音/指/沈黙/紙の音
現場の話は、概念で語ると逃げやすい。逃げやすいから、私は一瞬の描写に戻る。戻るとは、世界への接触の角度を変えることだ。角度が変わると、正しさの形が変わる。正しさの形が変わると、吠え声の出方が変わる。私は吠え声を消したいのではない。吠え声が暴力へ変質する前の温度を測りたい。
昼前、スマホが震える。机の木目の上で短く鳴る。音はいつも同じだが、同じではない。今日は鳴り方が重い。重いというのは、私の身体がそう感じるということだ。通知に意味が乗る前に、身体が先に反応する。肩が上がる。腹が固くなる。目が細くなる。私は画面を開く前に、すでに一行を見ている気がする。
「寒いので休みます。」
その一行が、画面に表示される。文字数は少ない。少ないから強い。少ないから切れる。少ない言葉は刃物である。刃物は便利である。便利だから危ない。便利な刃物は、運用を切り落とす。切り落とされた運用の上に、無音が残る。
私は呼吸を一つだけ置く。置くという言い方は変だが、私は本当に呼吸を置く。息を吸う。吐く。吐くときに、破局語が喉まで来る。「またか」「ふざけるな」「いい加減にしろ」。私はこれを結論にしない。結論にすると楽になる。楽になるが閉じる。閉じると撤回条件が消える。撤回条件が消えたら、私は自分が嫌っている無音の運用の側に回る。だから私は、ここで型に戻る。
指がキーボードに触れる。指先が少し冷たい。私も寒い。寒さは私にもある。だから私は寒さを嘘だと断じない。断じないが、理由として採用もしない。採用するのは運用である。私は返答テンプレの一つ目を、詩のように打つ。
「了解です。今日は三択です。①在宅30分 ②○時に遅れて出社 ③欠勤。どれにしますか。」
打ちながら、私の指は少しだけ早くなる。早くなるのは焦りである。焦りは概念を閉じたがる。だから私は、文章を短くしすぎない。短くしすぎると棍棒になる。棍棒は吠え声になる。吠え声は暴力になる。私は、短さと長さの間で、指を止める。止めるのが撤回筋肉である。指を止めるとき、私は「返答の正しさ」ではなく「返答の可逆性」を考える。相手が選べるか。次の一手が生まれるか。折り返し地点が増えるか。
返信が来るまでの時間は、現場の沈黙である。沈黙は怖い。沈黙は、無音の運用に似ている。だがこの沈黙は違う。問いが置かれている沈黙である。問いが置かれている沈黙は、まだ世界が閉じていない。私はその違いを信じたい。
面談の日。椅子と椅子の間の空気が薄い。薄いというのは、言葉が出てこないからである。相手は俯く。私は資料を机に置く。紙が机に触れる音がする。乾いた音である。乾いた音は、私の中で「制度」の音になる。制度は乾く。乾くとは、湿り気が奪われることだ。湿り気が奪われると、重さが見えなくなる。重さが見えなくなると、布のたわみが見えなくなる。たわみが見えないと、破れの予兆が見えない。破れの予兆が見えないと、撤回条件が作れない。撤回条件がない運用は暴力になる。私は紙の音から、この順番を思い出す。
私は資料を開く。出勤率の表がある。数字が並ぶ。数字は気持ちが良い。気持ちが良いから危ない。気持ちが良い数字は、理由を要らなくする。理由を要らなくすると、問い返しが消える。問い返しが消えると、無音の運用が勝つ。私は数字を見ながら、数字に飲まれないために、言葉を一つだけ置く。
「ここ一か月の欠勤が週二回のペースで続いています。」
私はここで「ダメです」と言わない。「ダメです」と言うと、私は裁判官になる。裁判官になると、相手は被告になる。被告になると、言葉は防衛線になる。防衛線になると、理由は嘘になる。嘘になると、私の怒りが正当化される。正当化された怒りは棍棒になる。棍棒は吠え声になる。吠え声は暴力になる。私はこの回路を避けたい。だから私は、「ダメです」の代わりに扉を置く。
「ここから先は、枠を変える話になります。」
枠を変える。枠を変えるという言葉は、冷たく聞こえる。だが枠を変えるとは、本人を罰することではない。ミスマッチを是正することである。週二回休む人を週五前提の枠に置き続けるのは支援ではない。放置である。放置は残酷である。だから枠を変える。
相手が黙る。沈黙が伸びる。伸びる沈黙は怖い。私は沈黙に耐える。耐えるのが撤回筋肉である。沈黙に耐えられないと、私は正しさを吠える。吠えると、その場は終わる。終わるが、運用は変わらない。変わらない運用は、また同じ欠勤を呼ぶ。私は終わらせたくない。だから沈黙に耐える。
私は、次の一手を一つだけ提示する。ここでも多くを言わない。多くを言うと、相手は飲み込めない。飲み込めない言葉は防衛線を作る。だから一つだけである。
「次の二週間は、在宅を基本にして、出社は週一回に落とします。これで回るか試します。」
試す、という語が重要である。試すとは可逆性である。試してダメなら戻す。戻すとは撤回である。撤回ができると、世界は終わらない。終わらない世界の中で、私は破局語を少しだけ後ろへ押しやれる。
面談が終わると、私は机を片付ける。紙が擦れる音がする。クリップの金属音がする。キーボードを叩く音がする。音はすべて乾いている。乾いた音は制度の音である。私は乾いた音に飲まれたくない。飲まれないために、私は今日も「湿らせる」を思い出す。湿らせるとは甘くすることではない。重さを見えるようにすることだ。重さが見えると、布のたわみが見える。たわみが見えると、破れの予兆が見える。破れの予兆が見えると、撤回条件が設計できる。
帰りの電車。車窓はまた流れる。私はまた本を開く。AIが人間になる日は遠い、と書いてある。私はホッとしない。ホッとしないのは、今日、私は人間が機械になる音を聞いたからである。通知音、紙の音、数字の並び、沈黙の伸び。それらはすべて、人間が撤回条件を失うときの音である。私はこの音を、ただの仕事の音として聞き流したくない。
夜、破局語が喉まで来る。文明は滅びろ、人間は悪だ、宇宙を終わらせろ。私はアラームだと名づける。点検する。代替カードは置いたか。回数の扉は開いたか。理由は機能に翻訳されたか。名札は免罪符になっていないか。四つのうち一つだけ欠けていると気づく。今日は回数の扉が弱かった。だから最小一手を置く。明日は、月三回で面談自動発動の一行を、紙にして机に貼る。貼るのは儀式ではない。運用である。運用である以上、貼るだけでは足りない。実行する。実行できるように、明日も三択の詩を用意する。
では私は、通知音が鳴った瞬間に破局語へ飛びつかず、指を止めて呼吸を一つ置き、三択の詩を返し、面談の沈黙に耐え、紙の乾いた音を湿らせるための撤回条件を一行だけ増設することで、無音の運用にどれだけの割れ目を刻めるのだろうか。
第7ブロック(増補)—面談後の撤回/同僚の温度差/例外でルールが崩れる瞬間
面談が終わった後の時間が、一番危ない。面談の最中は、まだ運用がある。運用があるうちは、言葉は型に寄りかかれる。だが面談が終わると、型が外れる。外れた瞬間に、感情が露出する。露出した感情は、二つの方向へ走る。自己嫌悪か、自己正当化か。どちらも閉じである。閉じは楽である。楽だから危ない。
自己嫌悪は、私を罰する。「言い方がきつかったのではないか」「本当は体調が悪かったのではないか」「私は冷たい人間ではないか」。自己正当化は、相手を罰する。「また休むに違いない」「結局は甘えだ」「制度に寄生している」。自己嫌悪も自己正当化も、どちらも撤回条件を奪う。撤回条件を奪われると、私は次の面談で棍棒を握る。棍棒は吠え声になる。吠え声は暴力になる。私はこの回路を嫌っている。
だから私は、面談後の自分の感情にも、アラーム→点検→最小一手を適用したい。適用するというのは、立派なセルフケアではない。運用である。
面談後、私はトイレに行く。鏡の前で顔を見る。目の下が少し落ちている。口角が固い。私はここで「私は悪い支援者だ」と結論したくなる。結論すると楽になる。楽になるが閉じる。閉じると次の一手が消える。だから私は結論しない。アラームだ、と名づける。名づけるだけでいい。
点検は短くする。四つは多い。面談後は二つでいい。
-
私は型(返答テンプレ/回数の扉)を守れたか。
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私は相手を被告にしなかったか。
これだけでいい。守れたなら自己嫌悪は不要である。被告にしなかったなら自己正当化も不要である。ここで重要なのは、感情の真偽ではなく、運用の真偽である。私は感情を正すのではない。運用を正す。
最小一手は、書き留めることである。面談直後に、メモを一行だけ残す。「次回は在宅基本・出社週一の試行」「欠勤理由は機能で書かせる」。一行でいい。多くを書くと自己正当化になる。少なすぎると自己嫌悪になる。だから一行である。一行が折り返し地点になる。
職場の同僚との温度差は、いつもここで出る。私は面談から戻ってきて、席に着く。隣の席の人は、別の仕事をしている。こちらの面談の沈黙など知らない。知らないのが当然である。だが私は、その当然に苛立つ日がある。苛立つとき、私は「どうして誰も分かってくれない」と思う。思うが、ここで苛立ちは、実は私の疲労の別名である。疲労は孤立を招く。孤立は破局語を招く。だから私は同僚の温度差を「冷淡」として裁かない。裁くと自分の閉じが強くなる。強い閉じは、次の面談で棍棒になる。
温度差には二種類ある。一つは、ただの役割差である。仕事の担当が違う。責任が違う。見ている現場が違う。だから温度が違う。これは仕方ない。もう一つは、運用への態度の差である。こちらは「折り返し地点」を置こうとする。あちらは「まあまあ」で流す。こちらは「回数の扉」を開こうとする。あちらは「今回は例外」で閉じる。こちらは「枠を変える」を提案する。あちらは「かわいそう」で留める。
この二つが混ざると厄介だ。役割差として仕方ない部分まで、態度差として憎んでしまう。私はその混ざりに注意したい。だから私は、同僚との温度差を感じたら、点検を一つだけする。「いま私は、役割差を態度差として憎んでいないか」。これだけでいい。これが撤回である。
“例外でルールが崩れる瞬間”は、職場の空気の中で起きる。ルールは紙に書かれている。回数で面談自動発動。欠勤は最後のカード。代替カードの提示。次回の一手の固定。これらは机に貼られている。貼られているが、貼られているだけでは弱い。弱いのは、例外が善意の顔をして現れるからである。
例外の最初の形は、たいてい「今日は特別」である。今日は寒い。今日は体調が悪い。今日は家庭の事情がある。今日はメンタルが落ちている。今日は無理をさせないほうがいい。これらは全部、真実になりうる。真実になりうるから強い。強い例外は、ルールを溶かす。溶かされたルールは、次の例外を呼ぶ。例外が続くと、それが新しい標準になる。新しい標準になった例外は、もはや例外ではない。無音の運用である。
私は、ある瞬間を覚えている。会議室の端で、支援計画の見直しが議題に上がった。私は回数の扉を開くべきだと言った。週二回の欠勤が続いている。枠を変えるべきだ。最低ラインを現実に合わせるべきだ。私はそう言った。すると、誰かが「でも本人がかわいそうじゃない?」と言った。かわいそう、という語は強い。強いが、強いから危ない。かわいそう、は人を守るようでいて、運用を溶かす。運用が溶けると、支援は固定化する。固定化した支援は、本人の可能性を削る。削った可能性の上に、かわいそうが積もる。積もったかわいそうは、さらにルールを溶かす。
その瞬間、私は喉が熱くなった。吠え声が出そうになった。「かわいそうでルールを溶かすな」と言いたくなった。だが私は言わなかった。言わないのは沈黙ではない。私は型に戻った。型とは、問いである。私はこう返した。
「かわいそう、は分かります。ただ、かわいそうだからこそ、今の枠が合っていない可能性があります。枠を変えないまま続けるほうが、結果として残酷になりませんか。」
問いにすると、会議室の空気が少しだけ止まる。止まるのが大事である。止まると折り返し地点が生まれる。止まらない会議は無音の運用を増やす。止まる会議は問い返しを残す。私は問い返しを残したい。
だが問い返しが残っても、例外は別の形で入ってくる。別の形とは「今回は上から言われた」である。行政の指導がある。監査がある。報告書がある。数字が必要だ。数字が必要だと言われると、運用は逆方向に溶ける。今度は厳しさの側へ溶ける。厳しさの側へ溶けると、本人の例外が切り捨てられる。切り捨てられた例外は沈黙する。沈黙が積もると、支援は表面上きれいになる。きれいになる支援は危ない。きれいな支援は、見えないが増えている可能性が高いからである。
つまり、例外でルールが崩れる瞬間には、二種類ある。優しさの例外と、厳しさの例外である。どちらもルールを溶かす。溶かされたルールの上に残るのは、無音の運用である。私は無音の運用が嫌いである。
だから私は、例外を禁止したいのではない。例外を「例外として扱える形」にしたい。例外を例外として扱うには、期限が要る。期限がない例外は標準になる。標準になった例外は無音になる。だから例外には期限を付ける。二週間。ひと月。期限が来たら必ず見直す。見直すのが折り返し地点である。
面談後の自己嫌悪も、職場の温度差も、例外でルールが崩れる瞬間も、結局は同じ背骨に繋がる。問い返せる形が残っているかどうかである。問い返せる形が残っている限り、撤回ができる。撤回ができる限り、私は破局語を結論にしなくて済む。結論にしなければ、私はまだ世界を終わらせずに済む。
では私は、面談後の自己嫌悪と自己正当化をアラームとして名づけ、運用の真偽だけを点検し、同僚との温度差を役割差と態度差に分けて撤回し、かわいそうや上からという例外がルールを溶かす瞬間に問いを差し込み、期限を付けて折り返し地点を残すことで、無音の運用が勝つ速度をどれだけ遅らせられるのだろうか。
第8ブロック(続編の起点)—ケインズの人間像/賠償問題/仕事と責任
今日の新規性は一つだけである。ケインズを「なんとなく偉大な経済学者」から、「俗物を嫌悪し、大衆を軽蔑し、しかも戦争と貨幣の混乱の中でなお合理性と倫理を両立させようとした、嫌なほど具体的な人間」へと引き寄せて読めるようになったことで、仕事と責任の問題が急に私自身の野心とつながり始めた。
『ジョン・メイナード・ケインズ』をまた読み進めて、四四〇項まで来た。ようやく上巻が終わりそうである。ここまで来ると、「偉大な経済学者」という、教科書が雑に貼る名札が、ようやく剥がれ始める。剥がれたあとに残るのは、経済学の天才というより、非常に具体的で、非常に感じの悪い部分も持った一人の人間である。エリート気取り。世俗的なものへの嫌悪。俗物への憎悪。大衆への軽蔑。こういう語を並べると、私は少しだけ気まずい。なぜなら、そこに自分の影を見てしまうからである。もちろん私は全然エリートではない。だが、世俗的なものを嫌う傾向という点では、かなり似ている気がする。世の中から見れば「なんか嫌な奴」と映る点において、読書梟はケインズと同じ型に属しているのではないか、という妙な親近感がある。
私はこういうとき、自分を弁護したくなる。いや、私は大衆を軽蔑したいわけではない、と。私はただ、雑なもの、浅薄なもの、すぐに役立つことだけを求める空気に違和感があるだけだ、と。だが、違和感を洗練させないまま放置すると、それは軽蔑に変わる。軽蔑は気持ちが良い。気持ちが良いから危ない。気持ちが良い軽蔑は、相手を理解しないまま裁けるからである。裁けるということは、責任を取らずに優位に立てるということでもある。ここで私は、仕事と責任の話に自然と戻る。
今日は少し前に考えた「仕事と責任」の整理も、ケインズ読みに接続して見えた。私はA、B、Cという三つの型を作った。Aは作業を行う人。Bは作業に文句・注文をつける人。Cは作業の改案を提起する人。Aは責任を引き受け、まっとうすることが目的で作業をする。Bは「私のやりたい仕方でなければ、その作業はしないですよ」という考えで、客観的に責任を丸投げしている。Cは「他の人が自ら望む仕方でしか作業しないのならば、私が工程・工数などを見直し、全員が望む通りに作業できる仕組みを考案しますよ」という、作業全体的な視点で責任を引き受けるタイプである。従ってC>A>Bと順序付けられるのは必然的である。
この整理を、今日のケインズに当てるとどうなるか。ケインズはもちろん単純なAでもBでもない。Aのように手を動かし、計算し、交渉し、文章を書く。Bのように文句をつけるだけでは終わらない。だが彼は単なるCでもない。Cが設計する仕組みは、通常、全員が望む通りに動ける形を探す。しかしケインズの時代は戦争と賠償の時代であり、全員が望む通りなどという甘い地平は最初から存在しない。誰かの生存が、誰かの敗北によって支えられている。こういう状況でCであるとは、すでに倫理の問題を引き受けることである。誰の責任をどう配分し、誰の未来をどこまで削り、どの地点で「これ以上は制度が壊れる」と判断するのか。ここまで来ると、工程改善の話ではない。正しい戦争と不正な戦争の話に近づく。
今日学べたこととして、やはり第二次世界大戦の引き金はドイツへの賠償問題の失敗だという点が大きい。私はここを、単なる歴史知識としてではなく、仕事と責任の配分を誤ったときに何が起こるかという、巨大な失敗の見本として読んだ。殺さず生かさず。相手を完全に壊しはしない。だが立ち上がれるようにもしておかない。責任を取らせると言いながら、再建の条件は奪う。すると、その「中途半端な制裁」が、次の暴力の母体になる。ここに、私は現代の戦争がなぜ局所的ではあるが勃発してしまうのか、その力学の原型を見る。報復と戦争の力学、構造。報復は、一見すると正義である。相手に責任を取らせるのだから。しかし、その責任の取り方が「未来の生存条件」を破壊するものであれば、正義は簡単に次の戦争の準備へ変わる。
この読みの核心にあるのが、引用しておきたいケインズの発言である。「あなたは、われわれがみなドイツの自立を支援する問題に取り組むべきだと述べた。だがみんなしてドイツの現在ある資本を剝がしとろうとしている今このときに、ドイツに運転資本を提供する新しい計画をどうやって立てるというのか。」この一節は、経済政策の技術論であると同時に、責任の倫理の言葉でもある。つまり、再起を求めながら再起の条件を奪うな、ということだ。私はここに、就労支援の現場の縮小版を見る。働けと言いながら、働ける条件を作らない。自立しろと言いながら、自立の訓練を本人に返さない。確認しろと言いながら、確認の主体を支援側が代行する。あるいは逆に、自己責任だと言いながら、必要な支援の入口すら閉じる。どちらも「自立を支援する」と言いながら「運転資本」を奪っている構図である。
私は最近、他責について考えた。他責の人が多いので、その本質を考えたのである。私はA、B、Cのタイプで考えた。そしてB――作業に文句・注文をつけ、自分のやりたい仕方でなければ作業しない人――を、他責人間として見た。なぜならBは、責任を丸投げするからである。丸投げされた責任は、無関係な人間に擦り付けられる。責任をばらまき、無関係な人間に擦り付ける構造。私はそれを、ドキュメンタリーの家族にも、就労支援の現場にも、そして国家レベルの報復の構図にも、同じ背骨で見てしまう。
Bは、自分では手を動かさない。「そこは自分で確認しろ」と言いたくなる場面で、「労働時間明記してくれませんか?」と要求する。要求の内容自体は一見もっともらしい。だが、そこに“自分の手で次の一手を引き受ける”という意志がないとき、その要求は単なるお客様思考になる。お客様思考とは、自分の人生の運用を、自分の外に委託してしまう姿勢である。私はそこに腹が立つ。腹が立つのは、失礼だからではない。意志が抜けたままサービスだけ要求される構造だからである。すると、就労支援は就労へ向かう場ではなく、保護施設化する。私はその危機感を持っている。
ここでケインズの賠償論に戻ると、国家レベルのBが見えてくる。戦勝国は、責任を取らせると言いながら、自分たちの次の選挙や国内世論にしか関心がない。ヴァージニア・ウルフの日記が引くケインズの言葉は、その醜さをよく表している。会議では、出席者は恥知らずなふるまいに終始した。ヨーロッパのため、いやイギリスのためにさえ行動せず、自分たちが次の選挙で当選することだけを考えていた。ここで私は、現代の職場も、規模は違えど同じ構造を持ちうると感じる。全体のためと言いながら、次の人事、次の評価、次の席次ばかり考える。そうなると責任の配分は歪む。歪んだ責任配分は、次の破局の運転資本になる。
「怒りとみじめな気持ち」から大蔵省を辞めた、とケインズは語っている。私はこの「怒り」と「みじめさ」の並びが刺さる。怒りだけならまだ、外へ向かう力がある。みじめさだけならまだ、内へ沈む力がある。だが怒りとみじめさが同時にあるとき、人間は一番危うい。外へ吠えることもできるし、内へ崩れることもできる。私は最近、この感じを知っている。仕事と責任の話をしているとき、他責人間に腹が立つ。同時に、自分の雑な指示で他部署の人を怒らせたときには、自分の無能さにみじめになる。怒りとみじめさが同時にある。だからこそ、折り返し地点が必要になる。ケインズが辞めたのは、逃亡ではなく、折り返し地点の選択だったのではないか。私はそう読みたい。
貨幣制度の混乱の話もまた、責任の配分として読める。「物価と賃金の大幅な貨幣的変動は、ある階級から他の階級へと富を移転させ富の再分配を促す効果があり、そのために経済の予測は困難になり、制度がうまく機能しなくなる。したがって経済学は、消費の対象ではなく、唯一の仲介機能すなわち貨幣に注意を集中しなければならない」。ここでケインズが言っているのは、貨幣の話でありながら、実は「見えない責任移転」の話でもある。貨幣的混乱は、誰かから誰かへ、説明されないまま富を移す。説明されない移転は、不正義の感覚を生む。不正義の感覚が積もると、制度は信頼を失う。信頼を失った制度は、次の暴力の温床になる。私はここに、現代の局所戦争や社会的分断の力学を見る。層貧困化と戦争の相関性、という私の感覚も、ここで少し筋が通る。
そして私は、ケインズの哲学的な顔にも、今日ようやく本気で関心を持てた。『確率論』の話である。ケインズにとっての合理性は、手段だけの問題ではない。目的もまた合理性の範囲に入る。現代の経済学では、目的を所与とし、手段の合理性にのみ注意を払う。だがケインズはそうではない。何が合理的と言いうるかを決めるのは、確率と倫理の両方である。ここが大きい。ここが、私がウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』を仕事に引き寄せて読もうとした理由と重なる。
合理性は、手段だけではない。目的もまた合理性の一部である。私は最近、会社もある意味戦争だと思った。そう思ったからこそ、正しい戦争と不正な戦争の概念を仕事のレベルに落とし込みたいと思った。野心そのものを否定しない。出世欲そのものを否定しない。だが、その目的が何に向いているのか、その戦い方が何を踏みにじるのか、そこに倫理が入らないなら、合理性はただの効率へ堕ちる。効率は善の顔をする。善の顔をした効率は、人間性を削る。ウルフの警報は、そこに向けられていたのだと思う。
私の直感が「気をつけよ」と言うのは、まさにここだ。私は最近、自分はまだ上にいけるかもしれない、という確かな結果を得た。だから周囲の昇進に敏感になる。敏感になること自体は、恥じるべきことではない。だが敏感さが、目的と手段の両方を濁らせ始めると危ない。私はその危うさを自覚した。だからウォルツァーを開く。だからケインズの『確率論』に引っかかる。合理的行動は、手段の問題ではない。目的の問題でもある。私は今日、この一句を仕事の現場へ持ち帰りたいと思った。
さらに小さいところで言えば、チップに上乗せを拒絶して「私は通貨価値を下げるようなことには加担したくない」と説明したケインズの逸話も、私は妙に好きである。ここには単なる変人性もあるし、エリート気取りもある。しかし同時に、「自分の小さな行為を、制度全体の運用の中に置いて考える癖」がある。私はこういう癖に弱い。自分の一回の支払い、一回の判断、一回の指示が、全体の秩序にどう繋がるかを見る癖。これは嫌な奴の癖でもある。だが、嫌な奴の癖であるがゆえに、私は自分の鏡を見るようで落ち着かない。
引用しておきたい二つのフレーズも、今日のこの流れと奇妙に響き合う。「絶対に自分は正しいと平然と構えているというのは――おぞましい」。これは、最近の私にそのまま刺さる。仕事と責任の議論をしていると、私はすぐにBを裁きたくなる。他責人間を裁きたくなる。裁きたくなるのは、それなりに筋が通っているからだ。だが筋が通っているがゆえに危ない。絶対に自分は正しいと平然と構えると、おぞましい。私はそのおぞましさの手前で止まりたい。
もう一つ。「彼女の考えでは、すべてを許すためには、すべてを理解するしか術はなかった。」この一文も響く。許す、という語は危ない。何でも許せばよいという話ではない。だが、理解を抜いた裁きは、だいたい気持ちが良すぎる。気持ちが良すぎる裁きは、撤回条件を持たない。撤回条件のない裁きは、戦争にも会社にも現れる。私は、理解せずに許したいわけではない。だが理解しないまま裁きたいとも思わない。ここでも折り返し地点が必要になる。
こうしてみると、今日の私は、ケインズを読みながら、仕事と責任の考察をやり直していたのだと思う。ケインズの人間像が具体的になればなるほど、私の中の「嫌な奴」の輪郭も具体的になる。世俗的なものへの嫌悪。俗物への憎悪。大衆への軽蔑。これらは、磨かれなければただの嫌味で終わる。だが磨けば、もしかすると制度の混乱を見抜く感覚になるかもしれない。私はそこに希望を置きたい。希望を置きたいが、気をつけなければならない。嫌味は簡単に人間性を削るからである。削れた人間性の上に、合理性だけを立ててはいけない。合理性は、目的と手段の両方に関わる。私はこの一句を、当面の自分の戒めにしたい。
では私は、ケインズのエリート性に親近感を覚えながらも、そこに潜む人間性の削れをどう警戒し、ドイツ賠償問題の失敗を「責任の配分と運転資本の破壊」という構造として読み替え、他責人間Bへの怒りを単なる裁きで終わらせず、A・B・Cの仕事論を確率と倫理の両面から組み直し、仕事という戦争の中で目的と手段の両方の合理性をどこまで守れるのだろうか。
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