
つづきを展開
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日記
金曜日の殺気立ちを「性格」ではなく「週の終盤に現れる運用の歪み」として受け取り、ケインズの限界の匂いと重ねてみようと思えた。読む気力がない日ほど、読めなかった理由のほうに輪郭が出る。輪郭が出るというのは、撤回の筋肉がまだ残っているということだ。
飲み会があったので夜は読書できていない。だが、飲み会がなかったとしても、金曜日ならあまり読めなかっただろう。ここには妙な納得がある。金曜日は気が殺気立つ。不思議なもんだ。身体が先に知っている。週の終盤になると、思考の余白が減る。余白が減ると、概念は早く閉じたがる。閉じた概念は反例を嫌い、反例を嫌う概念は反例を黙らせたくなる。反例を黙らせると制度は静かに回り、静かに回る制度は静かに人を選別する。私はこの回路を知っているくせに、金曜日になると同じ場所に引き寄せられる。だから、ちょっとした職員の不手際があるとつい突っ込みたくなる。突っ込んでしまった。突っ込んだ瞬間、気持ちは一瞬だけ軽くなる。軽くなるとき、私は少しだけ“正しさ”を飲む。正しさは甘い。甘いから危ない。甘い正しさは、次の瞬間に疲労へ変わる。疲労は無音を欲しがる。無音を欲しがると、世界はまた静かな運用へ吸い込まれる。金曜日の殺気立ちは、私にとってその入り口の匂いである。
それでも今日は、読書がゼロになったわけではない。電車で『ジョン・メイナード・ケインズ』を開いた。上巻もいよいよ終盤だ。いまは第一次世界大戦後、ドイツへの賠償の手続きのなかで何が起きたのかが語られている。ここは専門的過ぎて分かりかねる。だが分かりかねる、という状態そのものが、今日の私には少し大事だった。分からないとき、人は二つの方向へ逃げる。ひとつは「だから読む価値がない」と切り捨てる方向。もうひとつは「分からないのは自分が愚かだからだ」と自責する方向。どちらも閉じである。閉じは楽である。楽だから危ない。私は今日は、その閉じに完全には落ちなかった。分からない、と言いながら読み進めた。読み進めるというより、分からないままページをめくった。その遅さが、金曜日の私にはむしろ救いだった。
賠償の手続き、というのは、戦争の「後処理」の顔をしている。後処理という言い方は穏やかだが、実際にはそこにもう一つの戦争がある。戦争は銃声で終わらない。戦争は書類と数字と合意と反故で続く。紙の上の戦争は、血は流さない代わりに、未来の時間を奪う。未来の時間が奪われると、社会は静かに疲弊する。疲弊した社会は、また次の戦争へ傾く。そういう循環がある。ケインズがそこに関わっていく。関わっていくが、彼の中で「やりたいことがもうなくなってきて限界を迎えている」様子が伝わってくる。私は今日、その限界の匂いに引っかかった。
限界というのは、無能のことではない。限界は、運用の枠が狭すぎるときに出る。枠が狭いというのは、裁量がないとか、時間がないとか、権限がないとか、そういう話でもある。だがもっと根っこの話として、限界とは「折り返し地点が置けない」状態である。折り返し地点が置けないと、人は二つのどちらかになる。従うか、辞めるか。従うか辞めるかの二択に押し込まれると、人間性が削れる。削れた人間性の上には、諦めか破局語が残る。ケインズが今まさに、大蔵省でやりたいことがなくなってきて限界を迎えているように見えるのは、たぶん彼が「折り返し地点のなさ」を嗅いでいるからだ。折り返し地点がない場所で仕事をすることは、戦争の後処理の中でさらにもう一つの戦争をするようなものだ。私はそこに、今日の自分の金曜日の殺気立ちの遠い親戚を見た。
とはいえ、私はまだケインズが何をどうしたいのかがよく分からない。分からない、というのは不思議である。ケインズは有名だ。経済学者として名が通っている。投資家としての顔もある。大蔵省で働いた官僚でもある。保険数理士としての訓練も持つ。活躍できる領域が広範囲すぎて、逆に「この人は結局どこに魂を置いているのか」が見えにくい。器用な人は、目的が見えにくい。目的が見えにくいと、人は「中身がない」と決めつけたくなる。決めつけると楽になる。楽になるが閉じる。閉じると、また分からないものが増える。分からないものが増えると、世界は自分の外に押し出される。押し出された世界に対して、人は「もういい」と言いたくなる。金曜日の私は特に、その「もういい」に近づきやすい。だから私は明日は、ケインズの目的を探すことにした。目的というより、信念だ。何に価値を見出し、何に人生を注いだのか。そこを見たい。
ここで今日の私自身の話に戻る。金曜日に殺気立つのは、私の中で「運用が薄くなる」からだと思う。運用が薄くなるというのは、丁寧さの余力がなくなるということだ。丁寧さがなくなると、指示が雑になる。雑になると、他部署の人を怒らせる。怒らせると、私は自己嫌悪か自己正当化に揺れる。揺れると、次のコミュニケーションが防衛線になる。防衛線になると、問い返しが消える。問い返しが消えると、無音の運用が勝つ。私はこの順番を、自分の小さな職場の中でも見てしまう。だから私は、ケインズの限界の匂いに敏感になっているのだと思う。大蔵省の中で彼が感じた「もうここではやれることがない」という感覚は、単なる転職の話ではない。制度の枠の話である。枠がある。枠がある以上、折り返し地点を置かないと、人間性が削れる。私は最近、昇進への敏感さの中でも同じことを感じた。戦争・金・政治にとらわれると人間性を失いかねない、というウルフの言葉が刺さったのも、結局は「枠の中で人間性が削れる」感覚が私の中にあったからだ。
賠償の手続きが分からない、というのは、ある意味で救いでもある。分からないから、私は単純な正義を振り回せない。単純な正義を振り回せないから、私は吠え声になりにくい。吠え声になりにくいから、撤回可能性が少し残る。撤回可能性が残るから、私は「ケインズは何をしたいのか」という問いを明日に持ち越せる。持ち越すというのは、読書の運用である。読書の運用とは、すぐに分かった気にならないことだ。分かった気になると楽になる。楽になるが閉じる。閉じると、世界はまた薄くなる。薄くなる世界は、金曜日の殺気立ちと相性が良い。だから私は、分からないことを抱えて寝る。抱えて寝るという行為は、金曜日の私には小さな勝利だ。
飲み会があった。飲み会というのもまた、連携の装置である。福原義春が言うコミュニケーションの重要性に似ている。だが飲み会の連携も、週末の疲労の上では薄くなる。薄くなると、言葉が雑になる。雑になると、突っ込みが増える。突っ込みが増えると、空気が尖る。尖った空気の中で、私は「正しさ」を飲みたくなる。正しさを飲むと、一瞬だけ強くなる。強くなるが、強さは長持ちしない。長持ちしない強さの後に残るのは、疲労と空虚である。金曜日の不思議な殺気立ちは、たぶんこのサイクルの中にある。だから私は今日は、飲み会があったことを責めない。責めるとまた閉じる。閉じる代わりに、条件として引き取る。金曜日は読めない。金曜日は殺気立つ。だから金曜日の自分には、折り返し地点を先に置く必要がある。
明日、私はケインズの「何をどうしたいのか」を意識して読む。意識して読むというのは、本文の主張を探すことではない。彼の折り返し地点を探すことだ。どこで「これ以上は無理だ」と判断したのか。どこで「ここから先は別の枠だ」と決めたのか。どこで官僚の枠を出て、別の領域へ移ったのか。経済学者、数理、官僚、投資家、これらは単なる肩書きではない。折り返し地点の連続である。折り返し地点の連続を持てる人間は、災厄の後処理でも人間性を保ちやすい。保ちやすいというのは、勝つということではない。少なくとも無音の運用に飲まれないということだ。私はそこを見たい。
では私は、金曜日の殺気立ちを自分の性格として断罪せず、疲労が生む「閉じ」を点検し、突っ込みたくなる瞬間にどの一行で折り返し地点を置き、賠償という紙の戦争の中で限界を迎えたケインズの折り返し地点を明日どこで見つけ、その折り返し地点を自分の仕事の運用にどう移植すべきなのだろうか。
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