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読書日記2093

 

つづきを展開

 

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日記

「失敗の糧」という慰めの句が、きれいごととして流れ去るのではなく、怒らせてしまった相手の顔とセットで手触りを持ちはじめた――その瞬間、私はようやく、歴史の連続性という大きな話を、自分の目の前の仕事の小ささへ降ろせる気がした。

朝から、自分の指示が雑だったがゆえに他部署の人を怒らせてしまった。雑だった、という言い方の中に、私は二つのことを同時に含めている。ひとつは、単純に不備があったという事実である。もうひとつは、私は「雑で済ませた」という意志である。忙しさに負けて、省略した。手を抜いた。言葉を削った。削った結果、相手の側に負担が移った。怒らせたのは、相手が短気だったからではない。こちらが負担を移送したからである。私はこの移送の仕方が、就労支援で見ている“他責の構造”と同型であることに、気づきたくなかった。だが今日は気づいた。だから今日の気分は平穏でありながら、どこか痛い。

それでも私は「失敗は糧だと思え」といろいろな本に書いてあったことを思い出した。思い出して、素直に慰められるならどれほど楽だろう。だが私は素直に慰められない。慰められないから、変な言葉が出てくる。「くそやろうめ」。誰に向かって言っているのか分からない。相手ではない。相手に向けて言えば、ただの他責になる。だから私は、自分に向けて言っている。自分の無能さに向けて言っている。無能さ、と言うとまた大げさだが、私はこういうとき、どうしても言葉を強くしてしまう。強い言葉で自分を叩けば、反動で動けることがある。活を入れる、と私は言う。だがその活は、善い自己啓発の活ではない。疲れた身体に無理やり電気を流すような活である。私はそれを自覚しながら、淡々と仕事をした。淡々と、という語が今日の鍵である。淡々とできたのは立派だからではない。淡々とするしかないからである。淡々とは、撤回の筋肉が残っている状態の別名でもある。吠え声に変質する前に、仕事へ戻る。戻ることで、運用を続ける。運用を続けながら、折り返し地点を探す。今日の私は、そのあたりにいた。

電車でいつもどおり『ジョン・メイナード・ケインズ』を読む。電車は、世界を薄くする箱である。車窓は流れ、他者の顔は無関係な壁になり、こちらの思考は箱の内側で勝手に濃くなる。濃くなる思考の中で、ケインズの「戦争をしたくない」という声が、今日は妙に伝わった。伝わったというのは、理屈として理解したというより、気持ちが近づいたということである。私は戦争について、つい抽象語で語りたくなる。国家、文明、殉職、歴史、犠牲。こういう語は重い。重いが、重いから便利である。便利だから危ない。便利な重い語は、実際の血と泥と退屈を消してしまう。今日は、その消し方に抵抗が出た。ケインズの戦争嫌いは、政治思想の立場というより、もう少し生々しい嫌悪として感じられた。戦争は、ひどく、無惨で、むごく、そして退屈なものだ。退屈、という語が出てきたのが今日の変化である。悲惨さや残酷さは想像できる。だが退屈さは、想像しにくい。退屈さを想像できた瞬間、戦争は英雄譚ではなく、単なる運用の地獄に見え始める。

ここで映画『ザ・トレンチ』が頭に浮かぶ。執行草舟の解説――並列して次の塹壕へ進行できる文明・国家というもの、こういう社会が今の世界を作ったのだ、というような話――は、たしかに刺さる。刺さるが、今日の私は、その刺さり方に違和感も覚えた。文明や国家が作った、という言い方は強い。強いから“わかった気”になる。わかった気になると、反例が消える。反例が消えると、私が嫌っている無音の運用の側へ寄ってしまう。だから私は、執行の言葉を否定するのではなく、少し距離を取りたい。並列して次の塹壕へ進む。確かに、そこには恐ろしい組織力がある。個人の恐怖を押し潰す装置がある。その装置が今の世界を作った、という話は分かる。しかし、分かるからこそ私は、もやもやする。なぜもやもやするのか。たぶん私は、殉職できる精神というものを“別世界”のものとして見てしまうからである。

別世界、というのは逃げである。逃げだが、逃げには理由がある。私は今、目の前の仕事にぶつかっていけない自分がいる。ぶつかっていけない、というより、ぶつかる前に言葉が雑になり、相手を怒らせ、反省し、活を入れ、淡々と戻る。そんな小さな循環をやっている。ここで「国家のために殉職できる精神」と言われると、縮尺が合わない。縮尺が合わないと、私は気恥ずかしくなる。何を高尚ぶっているのか、と自分に突っ込みたくなる。だが同時に、歴史は連続していて、その延長線上に今の自分がいるのも事実である。ここで矛盾が生まれる。別世界だと思いたいのに、同じ世界だとも思ってしまう。自分の目の前の仕事にぶつかっていけない人間が何をなせるのだ、と考えてしまう。この自分への突っ込みは、自己嫌悪に似ている。だが自己嫌悪として処理すると、私はまた閉じへ逃げる。だから私は、これも運用として扱いたい。

運用として扱うとは、縮尺を合わせることである。国家のために殉職する精神は、私には再現できない。だが「自分の手で引き受ける」という最小の能動性は、今日も使える。今日の私は、自分の雑な指示が相手を怒らせた事実から逃げなかった。逃げなかったというのは、謝ったかどうかの話ではない。逃げなかったというのは、「自分が負担を移送した」という構造を認めたということだ。ここに小さな連続性がある。歴史の連続性は、英雄の連続性ではない。小さな運用が、次の小さな運用を呼ぶ連続性である。私は今日、それを少しだけ掴み直した気がする。

帰宅後、『本を読む幸せ』を読んだ。資生堂の社長だった福原義春の本である。ここでロビンソン・クルーソーを引っ張ってきて、今の社会は人間との連携によって成り立っていて、想像力も大事だがコミュニケーションのほうが大事なのである、と言っているように聞こえた。私はこの主張に、反発しようと思えばできる。想像力のほうが大事だ、と言い返したくもなる。読書こそが孤独の中で世界を支える、と言いたくもなる。だが今日は、反発の棍棒を持ちたくなかった。なぜなら、朝の自分の雑な指示は、コミュニケーションの手抜きだったからである。コミュニケーションの手抜きが相手を怒らせた。怒らせたということは、連携が崩れたということだ。崩れた連携の上で、仕事は回らない。回らない仕事の上で、就労支援の場も、社会も、空洞化する。福原が言う「コミュニケーションのほうが大事」は、道徳としては薄い。しかし、運用としては鋭い。私は今日はそう感じた。

だからと言って、私は「多様性」とか「連携」とかを、万能の免罪符にしたくない。多様性という語は便利だ。便利だから危ない。便利な語は、折り返し地点を奪う。連携という語も同じである。連携、という語を言えば言うほど、実際の連携が雑になることがある。雑になるとは、誰が何を引き受けるのかが曖昧になるということである。曖昧になると、責任はばら撒かれる。ばら撒かれた責任は、無関係な人間に擦り付けられる。私は最近、他責人間同士が集まると責任の押し付けあいになり、最終的に無関係な人間に擦り付けられる構造になる、という感覚を言葉にした。連携が雑だと、まさにそれが起きる。連携は美徳ではない。連携は設計である。設計である以上、折り返し地点が要る。

それでも私は、連携しつつも、私のように本ばかり読んで変人もいてはいいのではないか、とも思っている。ここは譲りたくない。福原の言うコミュニケーション重視は、共同体を回すための現実的な知恵だと思う。一方で、共同体の速度に合わせすぎると、読むべき本が読めなくなる。読むべき本が読めなくなると、問いの速度が失われる。問いの速度が失われると、世界は“処理すべきもの”に変わってしまう。私はその変化が怖い。だから私は変人としての読書を、単なる趣味としてではなく、世界の見え方をずらすための作法として守りたい。

今日が平穏だったのは、劇的な事件が起きなかったからではない。平穏だったのは、朝の失敗を抱えたまま、淡々と仕事をし、電車でケインズを読み、戦争の退屈さに触れ、執行の言葉へのもやもやを抱え、福原の連携論を受け止め、変人としての自分を許し、それでも世界の連続性を手放さなかったからである。連続性を手放さない、というのは大げさだが、私にとっては大事なことだ。手放すと、私はすぐに破局語の側へ寄ってしまう。文明は滅びろ、という言葉が喉まで来る。今日はそこまで行かなかった。その代わり、もやもやが残った。もやもやが残るのは悪いことではない。もやもやは、折り返し地点がまだ生きている証拠でもある。

私は今日、戦争を別世界の話として見てしまう自分と、歴史の延長線上に今の自分がいると感じてしまう自分を、同時に抱えた。私は今日、コミュニケーションの重要性を認めながら、変人としての読書を守りたいとも思った。私は今日、失敗を糧にしろという決まり文句に救われたくなりながら、決まり文句が刺さらない自分にも活を入れた。こういう矛盾は、片方だけ選べば楽になる。だが片方だけ選ぶと、私は閉じる。閉じると撤回条件が消える。撤回条件が消えた運用は、やがて誰かを踏む。だから私は、矛盾を矛盾のまま持っている。持つことは苦い。だが苦いから現実である。

では私は、朝の雑な指示で相手を怒らせてしまう自分の運用をどこで折り返し、戦争という別世界の退屈な地獄を歴史の延長として引き受けながらも英雄譚に回収されず、連携の重要性を認めつつ変人としての読書の速度を守り、明日の現場でまた誰かを怒らせないために、どの一行を自分の指示文の最初に付け足すべきなのだろうか。

 

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