
つづきを展開
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日記
今日の新規性は一つだけである。第一次世界大戦という巨大な災厄を前にして、天才の「知恵」を吸収したいと好奇心を燃やす自分が、同時に、就労支援で見た“お客様思考”に苛立ってもいる――このねじれが、今日の読書をただの伝記読みにしなかった。
『ジョン・メイナード・ケインズ』を読んでいると、第一次世界大戦という出来事が、歴史の教科書の一項目ではなく、身体の温度を持った災厄として迫ってくる。世界初の災厄、と私はつい言ってしまう。もちろん災厄はそれ以前にもあった。しかし、あの戦争が持っていた「世界全体が同時に巻き込まれる感じ」「国家という巨大装置が人間を丸ごと動員する感じ」「日常が一気に制度の歯車へ吸い込まれる感じ」は、たしかに新しい型を作ったのだと思う。私はそこに、いま自分が現場で嗅いでいる“無音の運用”の原型のようなものを見てしまう。大きな装置が動くとき、個々の声はかき消されやすい。かき消される声の代わりに、統計や報告や命令や規程が増える。増えた規程は、誰も悪意なく人を動かす。誰も悪意なく人を選別する。誰も悪意なく人を黙らせる。黙らされたものが沈殿していく。この“誰も悪意がない”という冷たさが、私には一番怖い。
だから私は、ケインズを「経済学の天才」として読むだけで満足できない。私は「災厄の中でどう動いたか」を読みたい。どう動いたか。ここに今日の好奇心がある。知恵を吸収したい、と素直に思う自分がいる。これは卑しい欲望ではない。むしろ、今日の自分が弱っているからこそ、強い動きのモデルが欲しいのだと思う。能動的に動いて時代を乗り切る人はかっこいい。かっこいい、という語は軽いが、軽いからこそ本心が出る。私は今日、軽い語でしか言えないほど疲れている。疲れているから、かっこいいものが欲しい。
能動的に動くとは何か。ここで私は、自分がこの数日ずっと揉んでいる「他責」の問題に引きずり戻される。能動的に動く人間は、少なくとも“責任の置き場”を自分の外にばら撒かない。責任の置き場を外へばら撒かないというのは、過剰な自責のことではない。自分が支配できないことは支配できないと言う。だが同時に、自分が動けるところを必ず見つける。動けるところを見つけるとは、折り返し地点を自分で作ることだ。どこから引き返すか、どこで条件を変えるか、どこで人に頼るか、どこで一人でやるか。これらを自分の意志で置いていく。意志とは、気合いではない。運用である。運用としての意志がある人は、災厄の中でも少しだけ姿勢が違う。姿勢が違うと、未来の分岐が変わる。分岐が変わると、結果として「切り抜けた」ように見える。私はそこを読みたい。
ケインズは、ここで象徴的な人物に見える。彼が何をしたか、どの政策論がどう正しかったか、という話はもちろん重要だ。しかし私の今日の関心は、むしろケインズが「巨大な出来事」に対して、どういう距離と速度で接触したのか、という点にある。巨大な出来事は、近づきすぎると飲まれる。遠すぎると何もできない。飲まれない距離を取りながら、しかし現場の速度に遅れすぎない。その調整の仕方が、天才の知恵として光って見える。私は今日、その調整の仕方に触れたかったのだと思う。
その一方で、私は今日、他責人間ばかり増えたら本当に日本は消える気がした。気が付いたらみんな外国人が住んでいました、ちゃんちゃん、みたいな。これは半分ジョークである。だが、ジョークが出るとき、私はだいたい本気で疲れている。ジョークは、破局語ほどではないが、破局語の一歩手前の“逃げ口”である。ここに今日の空気がある。つまり私は、ケインズの能動性に憧れながら、同時に「能動性が消えた社会」の未来を空想していた。空想というより、恐れていた。恐れている、というより、イラついていた。イラつくのは、現場で「お客様思考」を見てしまったからである。
お客様思考とは何か。私は最近ようやく言葉にできた。お客様思考は、礼儀の問題ではない。感謝の問題でもない。お客様思考は、「自分の人生の運用を、自分の外に委託してしまう姿勢」である。求人を拾ってもらう。条件を確認してもらう。応募文を作ってもらう。決めてもらう。失敗したら制度のせい。成功したら自分の手柄。ここで一番重要なのは、本人の中に折り返し地点がないことだ。折り返し地点がないとは、次の一手が出ないということである。次の一手が出ない会話は愚痴の循環になる。愚痴の循環は、聞いている側の撤回筋肉を削る。撤回筋肉が削られると、支援者は疲れる。疲れた支援者は破局語を吐く。私は今、その段階に近いところにいるのだと思う。
だから私は、能動性をかっこいいと言いながらも、同時に能動性を道徳として振り回したくない。能動性を道徳として振り回すと、私は「頑張れ」という棍棒を持つ。棍棒は吠え声になる。吠え声は暴力になる。暴力は沈黙を生む。沈黙は無音の運用を強くする。私はこの回路を嫌っている。だから私は、能動性を“運用”として扱いたい。つまり、能動性を本人の意志に返すための型を作りたい。
今日私は、その型の一つを思い出した。「そこまでこちらが代行すると、就労支援じゃなく代理交渉になります。自分で確認できることが就職後の自立に直結するので、ここは本人対応でいきましょう。必要なら原稿は作ります。」これは、相手を責めずに、責任の置き場を戻す言葉である。責任の置き場を戻すとは、他責の循環を止めることである。止めるとき、こちらが正しさを吠えないのが大事だ。吠えない代わりに、枠を示す。枠を示すとは、支援の範囲を線引きすることである。線引きは冷たく見える。しかし、線引きがない支援は固定化になりやすい。固定化は、最終的に本人の可能性を削る。だから線引きは、冷たさではなく、可逆性のための条件である。
ここで私の頭の中では、第一次世界大戦の巨大な制度運用と、就労支援の小さな制度運用が奇妙に重なっている。規模は違う。だが構造は似る。巨大な災厄の中で人間が能動的に動くには、制度の歯車に飲まれない距離と、しかし飲まれないために逃げ続けるだけではない速度が要る。就労支援の現場で人間が能動的に動くには、支援を“サービス”として消費しない距離と、しかし自立を叫ぶだけではない具体の速度が要る。距離と速度。私は今日、この二語を自分の中で反芻していた気がする。
距離を取る、というのは冷淡になることではない。距離を取るとは、相手の人生を勝手に引き受けないことである。引き受けないからといって見捨てるのではない。引き受けない代わりに、本人が引き受けられる形に整える。整えるとは、代替カードを出し、期限を付け、見直しの扉を用意することだ。私はこの数日、ずっとこの話をしている。今日はケインズを読んだことで、その話が少しだけ大きな風景になった。災厄の中で切り抜ける天才の知恵とは、結局、折り返し地点を設計する知恵なのではないか。折り返し地点とは、撤回可能性である。撤回可能性とは、世界を終わらせないための最低条件である。私は今日、そんなことを考えていた。
そして、能動性が消えた社会が「気づいたら外国人だらけ」みたいなジョークに変わるのも、実は同じ構造に見える。つまり、個々が自分の意志を放棄し、他責の循環に入ると、社会は静かに弱っていく。弱っていくというのは、劇的に崩壊するのではなく、静かな運用の積み重ねで方向が変わってしまう、ということである。ここで私が腹立つのは、社会の未来そのものというより、「未来が静かに決まってしまう感じ」である。吠え声が出る頃には遅い。気づいたら終わっている。だから私は、今日の苛立ちを、破局語やジョークのまま放置したくない。放置したくないから、ケインズを読む。天才の能動性を吸収したいと思う。吸収したいと思うのは、私自身がまだ能動性を捨てていない証拠である。
もちろん、ここで私もまた矛盾する。私は「能動的に動け」と言いたくない。だが能動性がないと場が保護施設化するという危機感がある。私は「他責を叩きたい」のではない。だが他責が万能化すると運用が壊れるという現実がある。私は「厳しくしたい」のではない。だが優しさが出口を奪うという恐怖がある。私はこの矛盾を、今日も引き受けている。引き受けるとは、矛盾を美談にしないことだ。矛盾を美談にすると、矛盾は免罪符になる。免罪符になった矛盾は撤回条件を奪う。撤回条件が奪われた矛盾は固定化になる。固定化が一番嫌いだ。だから私は、矛盾を矛盾のまま書く。書くことが、私の小さな能動性である。
ケインズを読んでいると、時代の災厄を前にしても、人は「次の一手」を考えられるのだという当たり前を思い出す。次の一手とは、政策だけではない。人間関係の取り方、言葉の選び方、組織の動かし方、自分の疲労の扱い方。次の一手を持てる人間は、災厄に飲まれにくい。飲まれにくいとは、勝つということではない。少なくとも、無音の運用に押し潰されないということである。私は今日、その一点に救われたかったのだと思う。
だから今日の気分は、明るいわけではない。ケインズを読んでも私は明るくならない。だが暗いまま終わるわけでもない。暗いままでも、線が一本つながった気がする。能動性への憧れと、他責への苛立ちと、日本が消えるかもしれないという冗談と、それでも本を読むという反復。この全部が、同じ日に同じ身体の中で起きていた。起きていたという事実そのものが、私には重要である。なぜなら、私は今日も完全に無音にはならなかったからである。無音にならなかったということは、まだ問い返しが残っているということだ。問い返しが残っている限り、撤回ができる。撤回ができる限り、運用は暴力になりにくい。暴力になりにくいなら、明日の小さな返答テンプレが生きる。生きるなら、就労支援の場は保護施設化しにくい。私はこの細い糸を信じたい。
では私は、ケインズの能動性を「かっこいい」で終わらせず、他責の循環に巻き込まれて撤回筋肉を削られる前に、支援の範囲を線引きし、本人の意志を代行しないまま次の一手を生む型を増設し、気づいたら終わっていたという静かな未来を避けるために、明日どの一点に能動性を置くべきなのだろうか。
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