
世界は私の表象である、とショーペンハウアーは書いた。
だが、神保町の裏通りにある雑居ビルの四階まで、エレベーターの鈍い揺れに耐えながら昇っていくときの私には、世界はむしろ気まずさでできているように思われた。
エレベーターの壁には黄ばんだ注意書きが貼られていた。
「搬入時は台車をご利用ください」
「共用部での喫煙は禁止です」
「本の持ち込みは一人十冊まで」
本の持ち込みは一人十冊まで。
その一文を見たとき、私は、世界にはまだ私の知らない種類の商業が存在するのだと理解した。
いや、正確には、理解したのではない。
理解した気になったのである。
それこそ、まさに今日私が買おうとしているサービスの本質であった。
四階で扉が開く。
薄い灰色のカーペット。
消毒液と紙とコーヒーの混ざった匂い。
壁には簡素な案内板があり、テプラでこう貼られていた。
401号室 行政書士 山岸法務事務所
402号室 読んだふり代行 ツンドクデス
403号室 会議で一言だけ言う代行 ソレダイジ(準備中)
404号室 空室
私は402号室の前で立ち止まった。
ガラス戸の向こうには、観葉植物が一鉢、受付カウンター、白い椅子が三脚、そして壁に黒い額縁で理念文らしきものが掲げられていた。
積読にも、会話の権利を。
私はその文句を見て、少しだけ感動した。
感動したというより、たぶん、自分の弱さに名前が与えられていることに安堵したのである。
人間は、たいていの場合、救済そのものよりも、救済に似た説明によって慰められる。
私は咳払いをし、扉を開けた。
受付には若い女が座っていた。
黒髪を後ろでまとめ、白いシャツの上に灰色のカーディガンを羽織り、ノートパソコンの画面を見ていた。
私が入ると、彼女は顔を上げ、営業用の柔らかい笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか」
私は一瞬、名乗るべきか迷った。
この二百年のあいだ、私は肖像画や全集とともに流通し、多少の知名度を得た。
ここで本名を言えば、驚かれるかもしれない。
だが、驚かれること自体が、また面倒である。
私は人間嫌いとして知られているが、その実、人間に関する余計な手続きが嫌いなのである。
「予約はしていない。だが、必要に迫られて来た」
「飛び込みですね。大丈夫です。初回カウンセリングは三十分まで無料です」
「無料か」
「はい」
「世界に無料はない」
女はにこやかに頷いた。
「その言い回し、たまにいらっしゃいます」
「私がオリジナルなのだが」
「そうなんですね」
この「そうなんですね」という返答ほど、近代的理性を無力化するものはない。
反論でもなく、賛同でもなく、ただ話題を前へ進めるためだけの透明な接着剤。
それは、形而上学を日常会話の床に叩きつけ、平らに延ばしてしまう。
私は、少しだけこの女に苛立ち、同時に感心した。
「では、お名前を」
私は言った。
「アルトゥル・ショーペンハウアー」
女は指を止めた。
パソコンのキーの上に乗ったままの細い指先が、一秒ほど沈黙した。
それから彼女は、ごく事務的な声で言った。
「フルネームでありがとうございます。カタカナ表記はこちらでよろしいですか」
ディスプレイをこちらに向ける。
そこには、
アルトゥール・ショーペンハウワー
と表示されていた。
「違う」
「失礼しました」
「『ハウワー』ではない。私はDIY用品ではない」
「申し訳ありません」
彼女は修正した。
アルトゥル・ショーペンハウアー
「よろしいでしょうか」
「完全に正しいとは言い難いが、まあよい」
「では、ショーペンハウアー様。本日はどのようなご相談でしょうか」
私は鞄から一冊の本を取り出した。
硬い装丁、分厚い本文、まだ新品の匂いをわずかに残している。
帯には大仰な惹句が踊っていた。
『失われた時を求めて』全巻読了のために人生を設計し直せ!
ずいぶん無責任な帯である。
私は本をカウンターに置いた。
ずしり、と音がした。
それは、本の重さというより、読まなかった時間の堆積が置かれた音だった。
「これについて、語らねばならない」
「飲み会ですか、会食ですか、読書会ですか、SNSですか」
「読書会に近い。だが、もっと陰険だ」
「陰険な読書会」
「出版社の編集者、大学講師、書評家、そして、半可通の会社員が数名。全員が互いを軽蔑しながら、互いの読書量を牽制しあう会合だ」
「なるほど。上級プランが適用可能です」
「上級プラン」
「はい。単なる要点整理だけでなく、相手が本当に読んでいる場合でもギリギリ炎上しにくい受け答えを設計します」
私は、ここに来た価値を、早くも感じていた。
人間というものは、本を読むより先に、こういう技術を発明してしまう。
それが人類の堕落であると同時に、人類の愛らしさでもある。
「依頼したい」
「承知しました。まず事前確認です。対象書籍はプルースト『失われた時を求めて』。読了率はどの程度でしょう」
「ゼロに近い」
「冒頭は」
「マドレーヌがどうとかいうあたりまでは、噂として知っている」
「実読は」
「第一巻を鞄に入れた」
「つまり携帯ですか」
「そうだ」
「携帯は読書に含まれません」
「厳密だな」
「弊社はこの点には厳格です」
私はうなずいた。
厳密さのない詐術は、ただの雑さである。
真に優れた虚飾は、まず分類学から始まる。
「では、ヒアリングに入ります。ショーペンハウアー様が今回、最終的に獲得したいものは何でしょう。場の沈黙回避ですか。知的威信の確保ですか。対立相手への軽い牽制ですか。あるいは、本当は読みたいが、その入口だけ欲しいのですか」
私は少し考えた。
少し、というのは嘘である。
私は長く考える癖がある。
だが、その長さの大半は、本質への接近ではなく、ただ自分が考えているという快感に浸っている時間でもある。
哲学者とはそういう生き物である。
「全部だ」
女はすぐに頷いた。
「欲望が複合している場合は、標準的です」
「標準的なのか」
「はい。皆さま、大体そうです」
私は妙な安心を覚えた。
厭世家といえども、自分の惨めさが普遍的だとわかると少しほっとする。
人間嫌いの根には、しばしば人間への過剰な期待がある。
だから、その期待が最初から無意味だったと確認できると、むしろ静かになる。
女は端末を操作しながら続けた。
「では、今回のゴールは、
一、読了者の前で浅さを露呈しないこと。
二、未読者の前では十分に読んでいるように見えること。
三、場合によっては『むしろ急いで読まないほうがいい本ですよね』と言って優位に立つこと。
この三点でよろしいでしょうか」
「よろしい」
「それでは担当コンサルタントをお呼びします」
「コンサルタントがいるのか」
「はい。ジャンル別におります。ロシア文学、フランス思想、現代批評、自己啓発、ビジネス書、読んでないのに読んだことになりがちな古典、などです」
「最後の部門は繁盛していそうだな」
「常に予約が埋まっています」
私は、なるほどと思った。
古典というものの価値の半分は、読まれることにではなく、読まれていると他人に思われることにあるのかもしれない。
いや、半分ではない。七割くらいはそうかもしれない。
人は本から救われる前に、まず本を小道具として携帯する。
やがて奥のドアが開き、一人の男が出てきた。
三十代半ばほど、痩せ型、丸眼鏡、紺のジャケット。
ネクタイはしていないが、していないことによって「ネクタイをしていない知性」を演出している類の服装である。
彼は名刺を差し出した。
上級読了印象設計士
水島 渉
「本日はよろしくお願いいたします。プルースト案件と伺っております」
「君はプルーストを読んだのか」
水島は一拍置いてから、笑った。
「全部は追えていません。ただ、長く付き合っていきたいタイプの作家だと思っています」
私は思わず膝を打ちそうになった。
この男、すでに完成している。
彼に案内され、奥の相談室に入る。
部屋は小さく、白い机と椅子が二脚、壁一面の本棚、そして隅に空気清浄機が置かれていた。
本棚には文学全集や思想書がぎっしり並んでいたが、私はすぐに見抜いた。
あの背表紙の均一な並び方、あの開かれた痕跡の薄さ。
飾り本である。
読んだふり代行の事務所が、読んだふりのための書棚を備えている。
ここまでくると、もはや一種の宗教空間であった。
水島は着席すると、柔らかい声で言った。
「まず、率直にお伺いします。ショーペンハウアー様は、どうしてプルーストを読んでいないのに、読んでいるように見せたいのでしょう」
「読んでいないからだ」
「はい」
「読んでいないものは、読んでいないと認めた瞬間、社会の中である種の負債になる。だが、本当に読むには時間がかかる。しかも、読んでも大して救われない可能性がある。ならば人は、せめて読んだように振る舞うことで、負債だけ処理しようとする」
「なるほど」
「人間の営みのかなり多くはそうだ。徳とは徳に見えること、知性とは知性に見えること、愛とは愛に見えること。世界は表象である以前に、見栄の流通網である」
水島はメモを取っていた。
私は彼のボールペンの動きを見ながら、少しだけ不安になった。
もしかすると、彼はいま私のこの発言すら、あとで別の客に「哲学者っぽい返し」として販売するのではないか。
だが、それで何が悪いのか。
思想というものは、たいてい他人の内面から、もっと雑な場所へと落ちてゆく。
落ちなかった思想は、歴史にならない。
「ありがとうございます。ショーペンハウアー様には、今回は単なる会話対策ではなく、哲学者として未読をどう気品あるものにするかまで設計したほうが良さそうです」
「そんなことまで可能なのか」
「可能です。弊社には『読んでないことを、逆に読書観の深さに変換する』という専門技術があります」
「恐ろしいな」
「恐縮です」
彼はタブレットを取り出し、画面を私に見せた。
そこには大きくこう書かれていた。
プルースト未読者向け・会話生存戦略
基本方針
内容の細部には踏み込まない
時間・記憶・感覚という大テーマに寄せる
長大さそのものを価値化する
急いで読まない態度を、成熟として提示する
一度だけ「むしろ今読むと危険」と言う
「危険とは何だ」
「意味はありません」
「意味がないのか」
「意味がないのに、ある程度深そうに聞こえます」
私は深く嘆息した。
世界は救いがたい。
そして、救いがたいからこそ、よくできている。
「次に、ショーペンハウアー様の人格に合わせた推奨フレーズをご提案します」
水島はスライドをめくった。
推奨第一声
「あれは筋を追うより、時間の厚みそのものに触れる感じが重要なのだろう」
「記憶の再現というより、意志をすり抜けて感覚が戻ってくる瞬間が面白い」
「あの作品は、読むというより、じわじわ生活に侵入してくる本なのではないか」
相手が食いついたときの補助線
「読了という言い方が、少し乱暴に思える種類の本ですね」
「急いで消費すると、むしろ何も残らない気がします」
「全体を制圧するより、一場面に居座るほうが合っている」
苦し紛れの哲学化
「想起されるものは、意志によっては掴めない。その偶然性に芸術が近づいている」
「時間を管理したい近代人ほど、あの冗長さに屈辱を感じるのではないか」
「要約への抵抗としての長さ、というのがある」
絶対に言ってはいけないこと
「マドレーヌ、エモいですね」
「結局どういう話なんですか」
「Netflix化されたら見ます」
私はしばらく無言で画面を見つめた。
人類はここまで来たのかと思った。
哲学、文学、時間論、感覚論、その全てが、いまや宴席を生き延びるための箇条書きになっている。
だが、私は同時に認めざるをえなかった。
これは役に立つ。
そして、役に立つ思想ほど、思想として悲しいものはない。
「どうでしょう」
「……よくできている」
「ありがとうございます」
「だが、少し洗練されすぎているな。私はもっと、こう、嫌味がほしい」
「嫌味、ですか」
「私は根本的に人間を見下しているが、そのことを露骨に言うと角が立つ。だから、上品な調子で、しかし確実に相手の浅さを示唆したい」
水島は目を輝かせた。
営業マンが大型案件を前にしたときの目である。
「承知しました。厭世系知識人パッケージですね」
「そう呼ぶな」
「失礼しました。では、ニュアンス調整します」
彼は素早く入力し、新たなスライドを出した。
ショーペンハウアー様専用・軽い蔑みを含む言い回し
「あれを“面白い”で済ませるのは、少し勿体ない気がしますね」
「物語を回収したい人には、たぶん向かないでしょう」
「忙しい人ほど、あの本に苛立つのはわかる気がします」
「理解より先に、読む側の時間感覚が試されますね」
「好き嫌いというより、耐えられるかどうかの問題ではないですか」
「うむ」
「さらに、相手がマウントを取りに来た場合の切り返しもあります」
相手が「私は全部読みました」と言った場合
「全部読んだ、という達成感のほうに関心が向いてしまうのは、少し惜しいですね」
「読了そのものを成果化する態度が、むしろあの作品から遠ざかることもある」
「最後まで行ったことより、何が残ったかのほうが難しい」
私はゆっくりうなずいた。
実に良い。
相手を正面から否定していない。
しかし確実に、「全部読んだだけでは浅い」と言っている。
この微妙な嫌らしさ。
この、知性と卑しさの絶妙な共存。
まさに教養社会の香りであった。
「料金はいくらだ」
「ここまでで標準上級プランです。ただ、ショーペンハウアー様の場合、もう一段階上のサービスをおすすめしたいです」
「何だ」
「読書観矯正オプションです」
「矯正される覚えはない」
「いえ、矯正というより、もっとお似合いの言葉がありますね。読まないことの品位設計です」
私は黙った。
その言葉が妙に胸に響いたからである。
人は、失敗そのものより、失敗の仕方が醜いことに耐えられない。
未読であることは恥ではない。
だが、未読のまま狼狽することは恥である。
もし未読であるなら、せめてそれを一つの姿勢に変えたい。
厭世家の最後の矜持とは、その程度のものである。
「説明してみろ」
「はい。ショーペンハウアー様は、本当は単に会話を乗り切りたいだけではないはずです。もっと根が深い。つまり、そもそも現代人が本を“読了実績”として語ること自体にうんざりしている。しかし、その批判精神をそのまま出すと嫌われる。そこで、未読を告白するのでもなく、読了を誇るのでもなく、読書の成果主義そのものを少しずらす人格として入場する必要があります」
私はしばらく彼を見た。
この男は危険だと思った。
ただの代行業者ではない。
彼は人間の虚栄を軽蔑しながら、その虚栄から収益を得ている。
つまり、少しだけ哲学者に近いのである。
哲学者もまた、人間の愚かさを観察しながら、それを文章にして食ってきた。
「続けろ」
「そのために、会合の冒頭で一度だけ、このように言ってください」
水島は新しいカードを差し出した。
そこには、やや大きめの明朝体で一文だけ記されていた。
“本当に読むというのは、読み終えることより、読後に自分の時間感覚が少し壊れることではないでしょうか。”
私はカードを見た。
見て、悔しいが、感心した。
これは強い。
未読者にも使える。
既読者にも正面からは反論されにくい。
しかも、「この人は何かしら考えている」と思わせる。
中身は曖昧だが、その曖昧さがちょうどよい。
「良いな」
「ありがとうございます」
「だが、私は本当に人間が嫌いだ」
「それはご安心ください。好きになる必要はありません」
「読んだふりをすることで、私は何を失う」
水島は少しだけ考えた。
それまでの営業用の滑らかさが一瞬止まり、別の顔が覗いた。
「失うものは、たぶん、少しだけあります」
「何だ」
「読んでいないことの、静かな痛みです」
私は眉をひそめた。
「痛み?」
「はい。積読には二種類あると思うんです。単に読む気がない本と、本当は読みたいのに、生きるのに追われて読めない本です。後者には、少しだけ良心が残る。ツンドクデスは、その良心を楽にします。でも、そのぶん、本当は読みたかったという傷も薄くなる」
「では、君たちは悪徳商売なのか」
「たぶん半分は」
彼は微笑んだ。
その微笑は、受付の女の「そうなんですね」と同じ種類の、現代社会の柔らかい諦念でできていた。
「ただ、もう半分は、入口の代行だと思っています」
「入口」
「読んだふりをしたあとで、本当に読み始める人もいます。全部ではありません。でも、ときどきいるんです。会話のために仕込んだ一行が、逆にその人を本のほうへ戻してしまうことが」
私は何も言わなかった。
自分でも、奇妙な動揺を覚えていたからである。
私は長らく、人間の意志というものを悲観してきた。
欲望は満たされず、満たされても退屈し、人生は振り子のように苦痛と倦怠のあいだを揺れる。
それは今でも正しい。
だが、もしかするとその振り子のわずかな停止点に、たとえば読んだふりのあとで本を開くような、取るに足らない回心があるのかもしれない。
そんなものは救済ではない。
しかし、救済ではないからこそ、案外信じられる。
そのとき、ドアがノックされた。
受付の女が顔を出した。
「失礼します。次のご予約のお客様が少し早めにいらしてまして」
「どの案件ですか」
「『資本論』を読んだふりしたい管理職の方です」
「よくあるな」
私はつぶやいた。
女は真顔で頷いた。
「今月は特に多いです。異動の季節ですので」
異動の季節に『資本論』。
人事異動とマルクス。
人類は本当に愚かである。
だが、愚かさに季節性があるというのは、少しだけ風流であった。
水島は立ち上がった。
「本日はこのあたりまでにして、最後に実践演習をやりましょう」
「演習?」
「はい。私が読書会の相手役になります。ショーペンハウアー様は今から、プルーストについて“ある程度読んでいる人”として振る舞ってください」
「やってみよう」
水島は椅子に座り直し、急に少し鼻につく笑みを浮かべた。
たぶん、書評家の真似である。
「最近、ようやくプルーストの新訳、通して読んだんですよ。やっぱりすごいですよね。ショーペンハウアーさんはどうでした?」
私は一呼吸置き、カードの文言を思い出しながら言った。
「本当に読むというのは、読み終えることより、読後に自分の時間感覚が少し壊れることではないでしょうか」
水島は頷く。
少し嬉しそうだ。
「なるほど。どのあたりで特にそう感じました?」
危険な問いである。
どのあたり、と来た。
ここで下手に場面を言えば死ぬ。
私は静かに答えた。
「特定の場面というより、むしろ、思い出そうとしても意志では掴めないものが、ふと感覚から戻ってくる、その構造全体ですね。あれは筋を追う読み方だけでは届かない」
水島は、よし、という顔をした。
私は続ける。
「全部読んだ、という達成感に回収してしまうと、少し惜しい気もします」
「……上手いですね」
「だろう」
「いや、正直、私でも少し腹が立ちました」
「結構」
私はこの瞬間、自分が本を一ページも読んでいないのに、読了者を軽く苛立たせることに成功したと悟った。
これは堕落である。
だが、どこか見事な堕落でもあった。
芸術的な詐術、と言ってよいかもしれない。
「演習は合格です」
「本番でも通用するか」
「かなりの確率で。ただし注意点があります」
「何だ」
「気持ちよくなりすぎないことです」
「気持ちよく?」
「こういうフレーズは効くんです。効くから、未読なのに話しすぎる人がいる。すると、いつか細部を聞かれて破綻する。ショーペンハウアー様は特に、自分の言葉の調子に酔う危険があります」
私は反論できなかった。
まったくその通りだからである。
哲学者が破滅する理由の三割は、たぶん、自分の文章の調子が気持ちよすぎることである。
「肝に銘じよう」
「それと、最後に一つだけ」
「何だ」
「もし本当に少し気になったら、帰宅後に五ページだけ読んでください」
「五ページ」
「はい。全部じゃなくていいんです。読んだふりは、読まないことを完成させる技術ではありません。読めない自分と、少しだけ停戦するための技術です」
私は、また黙った。
商売の言葉にしては、妙にまともだったからである。
いや、まともだからこそ、商売になっているのかもしれない。
現代では、まともなことも、最後にはパッケージ化される。
会計を済ませ、私は受付に戻った。
受付の女は封筒を手渡してきた。
中には、要点整理シート、推奨フレーズ集、危険質問一覧、そして小冊子が一冊入っていた。
表紙には箔押しでこうある。
未読者の品格 改訂新版
「サービスでお付けしています」
「何が書いてある」
「“読んでないのに読んだふりをするとき、最低限これだけは守るべきこと”です」
「例えば」
「“読了者の感動を、安い共感語で上塗りしない”とか」
「名著だな」
「ありがとうございます」
私は封筒を鞄に入れた。
鞄にはプルーストも入っている。
読んでいない本と、読んだふりのマニュアルが、同じ空間に並存している。
まるで、精神と身体のようであった。
いや、もっと俗悪かもしれない。
理念と広報資料のような関係である。
帰ろうとしたとき、待合の椅子に座っている男と目が合った。
四十代のスーツ姿、疲れた顔、しかしネクタイだけは妙に立派だった。
膝の上には『資本論』第一巻。
男は私に小声で言った。
「……難しいですよね」
「何がだ」
「いや、その、マルクスです」
「読んでいないのか」
「開いて三ページで、注が始まって」
「そうだろうな」
「でも、新任の部長が急に労働問題に詳しい顔をし始めて」
「君は勝ちたいのか」
「せめて負けたくないんです」
私は彼を見た。
彼の目には疲労と焦燥と、ほんのわずかな向上心の残り火があった。
それは高貴なものではない。
しかし、高貴なものではないからこそ、人間の生を支える。
「よいサービスだ。高いが、よい」
男は深くうなずいた。
その顔には、まるで病院の待合室で先に診察を終えた患者から「腕のいい医者ですよ」と告げられた者のような安堵が浮かんでいた。
私は雑居ビルを出た。
神保町の夕方。
古書店の軒先に積まれた本。
喫茶店から漏れる照明。
学生、会社員、老人、観光客。
みなそれぞれの仕方で、本のある町を歩いている。
読む者、読まない者、読んだふりをする者。
そして、読んだふりをしたあとで、本当に少しだけ読み始める者。
私は近くの喫茶店に入った。
木のテーブル、薄暗い照明、やや酸味のあるコーヒー。
向かいの席では二人の若者が、「ドストエフスキーは結局、今の時代にどう読むべきか」などと語っている。
片方は本当に読んでいる顔をしており、もう片方は読んでいないが、読んだことにしたい顔をしていた。
私は、その両方の顔をよく知っていた。
封筒を開ける。
フレーズ集の下に、小さなカードがもう一枚入っていた。
手書きで、たぶん水島の字だった。
本を読まない人間が増えたのではなく、読んだことにしたい人間が増えたのかもしれません。
でもそれは、完全な無関心よりは少しだけましです。
私はカードをテーブルに置き、しばらく見つめた。
その文が真理かどうかはわからない。
たぶん半分だけ真理で、半分は客に気持ちよく帰ってもらうための営業文句である。
しかし、人間の慰めとはだいたいそういうものだ。
全部本当だと重すぎるし、全部嘘だと効かない。
私は鞄から『失われた時を求めて』を取り出した。
あの巨大な本を、まるで小型犬でも抱くように慎重に机へ置く。
しばらく表紙を見る。
読むべきか。
読まなくても、今夜は乗り切れる。
私はもう、十分な武器を得た。
記憶、時間、感覚、要約への抵抗。
これだけ言えれば、たいていの会話は霧の中に入っていく。
人は霧に弱い。
視界の悪い比喩を前にすると、多くの者は「深い」と思って立ち止まる。
だが、その霧のこちら側に立ち続けることに、私はふと疲れを覚えた。
読む前から語ること。
知る前から位置取りすること。
読書会に備えて感想の型を仕込むこと。
それらは全部、この時代の合理性である。
だが合理性は、しばしば魂を貧しくする。
いや、魂などという言い方は古いかもしれない。
それでも、何かが少しずつ痩せる感じはある。
私は本を開いた。
最初の一文。
長い。
長いが、思ったほど嫌ではない。
嫌ではない、というのも変な褒め方だが、現代人の多くはその程度の入口からしか大作に入れないのである。
数行読んで、止まる。
少しコーヒーを飲む。
また読む。
ふと、隣の席の若者たちの会話が耳に入る。
「いや、俺は読了したんだけど、正直、まだ消化できてないんだよね」
「わかる。なんか、読んだっていうより、通過しただけって感じ」
私は小さく笑いそうになった。
ツンドクデスのフレーズが、もう町に流通しているのかもしれない。
あるいは、それに似た表現は、すでにどこかで誰かが発明し、別の誰かが使い回し、また別の誰かが「自分の言葉」として所有してきたのかもしれない。
思想も、感想も、会話も、そうやって循環する。
世界は意志と表象でできているのではない。
たぶん、引用と空気でできている。
しばらく読み進めた。
十分ほど経ったころだろうか。
私は奇妙な感覚に襲われた。
本の内容に深く感動したわけではない。
理解が一気に開けたわけでもない。
ただ、自分がいま、今夜の会話のためではなく、数ページ先の文章のために座っていることに気づいたのである。
この感覚は久しくなかった。
成果でもなく、義務でもなく、見栄でもなく、ただ少し先を読みたいというだけの時間。
それは決して高尚ではない。
しかし、案外ぜいたくなものだ。
私は本を閉じた。
全部は読まない。
今日のところは数ページで十分だ。
人間は急に善くなったりしない。
読んだふりをしようとして事務所まで行った男が、その日のうちに読書の聖人に変わることはない。
そんな変化は嘘である。
だが、数ページだけ読んだ男になることはできる。
それはひどく中途半端で、だからこそ本当らしい。
店を出ると、夜の空気は少し冷えていた。
私は歩きながら、明日の会合を思った。
編集者はどんな顔をするだろう。
大学講師はどこで知識を誇示するだろう。
半可通の会社員はどの辺でうなずくだろう。
そして私は、どのタイミングで、「読了という言い方が少し乱暴に思える」と言うべきだろう。
考えて、少し笑った。
結局、私はまだ演技の段取りをしている。
人間はそう簡単には本質へ行けない。
本質へ行けないから、手前に作法が発達する。
読んだふりも、その一つにすぎない。
だが、不思議なことに、私の鞄の中の本の重さは、来るときとは少し違って感じられた。
来るときは、それは負債であった。
読んでいないことの圧力、語れないことの不利、文化資本の未回収分。
だが帰り道のそれは、まだ負債でありながら、ほんの少しだけ、持ち帰るものになっていた。
読書とは何か。
知識か。
教養か。
会話の武器か。
虚栄の装飾か。
あるいは、読み終わらないものを抱えて生きる練習か。
私はまだ答えを持たない。
いや、答えを持つ必要すら、たぶんない。
必要なのは、たまに本を開き、たまに閉じ、たまに読んだふりをし、たまにそのふりに嫌気がさし、また数ページだけ本当に読む、その往復である。
世界が苦痛と倦怠のあいだを揺れるなら、読書もまた、誠実と虚栄のあいだで揺れるほかない。
私は駅へ向かいながら、ふと、ツンドクデスの受付に貼ってあった言葉を思い出した。
積読にも、会話の権利を。
あれは半分は冗談で、半分は真理だった。
権利とまで言うのは大げさだが、少なくとも、読めなかった本を前にしたとき、人はただ恥じるだけでなく、もう少し滑稽であってよい。
滑稽であることは、しばしば人間の最後の防具である。
高尚さだけでは生きられない。
軽蔑だけでも生きられない。
見栄、怠惰、後ろめたさ、少しの知性、少しのユーモア。
人はたぶん、その混合物としてしか本に近づけない。
そしてもし、その混合物のなかから、たった五ページでも本当に読む時間が生まれるなら。
それは救いではないが、救いに似た迂回路ではあるのではないか。
あるいは、そう考えること自体が、また一つの読んだふりなのだろうか。