
つづきを展開
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日記
「世界への愛」という甘い見出しは、思いやりではなく、撤回条件を付けた“世界の保全”として読まねばならない――この一点が、ポパーの辛口と噛み合った瞬間、言葉が軽くなるどころか、逆に重くなった。
電車でしか読めなかった。読む速度が私の意思ではなく移動の都合に支配されると、概念を早く閉じたくなる。閉じた概念は反例を嫌い、反例を嫌う概念は反例を黙らせる。反例が黙ると制度は静かに回り、静かに回る制度は静かに人を選別する。私はこの静けさを恐れている。ただし恐怖をそのまま正義の吠え声に変えたくない。吠え声は可視化の役に立つこともあるが、吠え声が消えた後に残る“無音の運用”のほうが撤回不能な閉じを生みやすいからである。
今日の読書は、エリザベス・ヤング=ブルーエル『ハンナ・アーレント――〈世界への愛〉の物語』と、カール・ポパー『開かれた社会とその敵 第二巻 上』である。前者は人生の語りであり、後者は敵の名指しである。人生の語りは、しばしば美談の形を取りたがる。名指しは、しばしば罵倒の形を取りたがる。だが私は、どちらの誘惑からも距離を取りたい。美談は制度を美化し、罵倒は制度を単純化する。制度は美化されても単純化されても、撤回条件を失いやすい。
ここで例の〈世界への愛〉が出てくる。私はこの語が、出版物の表紙であまりに軽く扱われている気配に、以前から警戒していた。愛を「思いやり」と定義してしまえば、世界は優しさで成立していることになる。だが、利害が怪しくなった瞬間に思いやりが吹き飛ぶのを、私は現場でも社会でも何度も見てきた。思いやりは否定しない。否定しないが、骨格にはなりにくい。世界の骨格は、気分ではなく、約束と手続きと距離と責任と、そして折り返し地点の設計でできている。つまり「世界への愛」を、私は情緒ではなく、世界を残すための運用として引き取りたいのである。湿らせるとは甘くすることではない。重さを見えるようにすることである。重さが見えると、布がどこでたわむかが見える。たわみが見えると、破れの予兆が見える。破れの予兆が見えると、撤回条件が設計できる。私はこの順番を手放したくない。
ポパーが面白くなってきたのは、彼が“辛口”になってきたからである。ヘーゲルを、プラトンの回し者のように扱う、その断定の調子が、タレブ的な苛烈さを連れてくる。ここで私の中の警報も鳴る。辛口は、敵をはっきりさせる。しかし敵をはっきりさせる快感は、こちら側の閉じを強化する。私は、ポパーの辛口を「哲学史の喧嘩」として消費したくない。むしろ、閉じた体系が制度へ侵入するプロセスとして読む。閉じた体系は反証を嫌い、反証を“例外”として棚上げし、棚上げを重ねるほど体系は強く見える。強く見える体系は人を安心させ、安心は閉じを呼び、閉じは撤回条件を削る。撤回条件が削られると、体系は政治へ侵入し、政治へ侵入した体系は制度になる。制度になった体系は、異論を吠え声として扱い、吠え声を道徳的劣位へ追い込む。追い込まれた異論は沈黙し、沈黙が蓄積すると社会は静かに閉じる。私は、この静かな閉じが、いま労務管理や評価や生産性の語彙の中でも進行している気配を嗅いでいる。
ここで、今日のもう一つの糸として「唯名論」が効いてくる。唯名論という語に触れた瞬間、言葉がふっと軽くなる気配がした。その軽さに私は反射的に警戒した。言葉を軽く扱う者ほど、言葉に踏まれる。言葉が軽くなるとき、制度はたいてい重くなる。唯名論が本当に問題にしているのは、「すべては名に還元される」という幼稚な話ではない。問題は、普遍性の実体化である。「犬」という語があるからといって、「犬性」なるものが犬たちとは別に独立して存在する必要があるのか。この問いは、“余計な実体を立てる癖”への警戒である。余計な実体を立てると説明は一見うまくいく。しかし、うまくいった説明ほど撤回されにくい。撤回されにくい説明は制度化されやすい。制度化された説明は現場で人を踏む。
だが同時に、唯名論が「名にすぎない」という軽さへ傾くと、その軽さは別の形で制度を支える。名が軽いということは、名を振り回しやすいということだ。振り回しやすい名は現場を簡単に整形する。整形は合理化の顔をして固定され、固定された善は撤回されにくく、撤回されにくい善は吠え声になる。私は唯名論そのものを叩きたいのではない。唯名論的な軽さ――便宜を無責任に変換する態度を叩きたい。便宜であることと無責任であることは違う。便宜であるがゆえに責任が要る。名づけは便宜である。だからこそ政治である。政治である以上、撤回条件が要る。
ここで今日の新しい概念ラベルを置く。私はこれを**「献身語の免罪」**と呼ぶことにする。献身語とは、愛・思いやり・世界・公共・正義といった、善の顔で流通しやすい語である。これらは掲げた瞬間に、語り手の意図を免罪しやすい。「私は愛している」「私は思いやっている」「私は世界のためだ」。すると、誰がどの手続きで線を引き、誰がどの基準で選別し、どこで撤回するのかという運用の問いが、語の温度で覆われる。免罪が働くと、撤回条件が設計されないまま制度が進む。制度が進むと、反例は例外として棚上げされる。棚上げは静かで、静かさは恐ろしく、恐ろしい静けさは、いつも「善意」の顔をしている。
だから私は、〈世界への愛〉を愛国心の体当たりの語彙で受け取るのではなく、思いやりの語彙でも受け取らない。私はそれを、世界を残すための技術として読む。技術とは、折り返し地点の設計である。撤回の筋肉を予算化することである。撤回は遅い。遅いから高い。高いから省略される。省略された撤回の上で制度は淡々と回る。淡々と回る制度の上で人は黙って選別される。私は淡々と回ることを止めたいのではない。淡々と回る場所に、折り返し地点という段差を作りたい。段差があれば、転がり落ちる速度が落ちる。速度が落ちれば、言葉が吠え声に変質する前に、言い直しが可能になる。
結局、ポパーの辛口は私にこう告げている。閉じた体系に酔うな、と。だが同時に、ヤング=ブルーエルの語りは私にこう告げている。世界を捨てるな、と。酔いと放棄は反対の顔をして同じ場所へ落ちる。どちらも撤回条件を曖昧にし、制度を静かな選別へ滑らせる。私はいま、労務管理・評価・生産性という硬い塊を、献身語の免罪を警戒しつつ、反証の倫理と世界の保全の技術の上に置き直しながら、無音の運用が始まる前の体温の移動をできるだけ細部まで書き留めている。
では私は、〈世界への愛〉という献身語を免罪に変えないために、どの言葉を捨てず、どの言葉を疑い、どの境界線を仮置きし、どの指標で「名が烙印に変わる瞬間」を検知し、その検知が働いた瞬間にどんな撤回条件を発動させ、折り返しのコストを誰の予算として、どの頻度で、どの公開度で引き受けるべきなのだろうか。