
つづきを展開
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日記
唯名論という語に触れた瞬間、言葉がふっと軽くなる気配がした。その軽さに、私は反射的に警戒した。言葉を軽く扱う者ほど、言葉に踏まれる。言葉が軽くなるとき、制度はたいてい重くなる。だから私は、唯名論の議論を単なる学説史の話としてではなく、労務管理・AI・生産性という硬い語が日々現場に落とされる、その落下音の設計として引き取ってみる。硬い語を並べた瞬間に生じる、あの乾いた音を、「美学=世界への接触の設計」という一句でいったん湿らせた昨日の手つきは、今日も私の手から離れない。湿らせるとは、甘くすることではない。重さを見えるようにすることだ。重さが見えると、布がどこでたわむかが見える。たわみが見えると、破れの予兆が見える。破れの予兆が見えると、撤回条件が設計できる。設計できるなら、吠え声は暴力へ変質しにくい。私はこの順番を、今日も手放したくない。
電車でしか読めなかった。つまり、読書の速度が私の意思ではなく、移動の都合に支配されていた。読める量が限られると、こちらの心が先に焦る。焦りは、概念を早く閉じたがる。閉じた概念は、世界の側の反例を嫌う。反例を嫌う概念は、反例を黙らせたくなる。反例を黙らせると、制度は静かに回る。静かに回る制度は、静かに人を選別する。私はこの静けさを恐れている。恐れているが、恐怖をそのまま正義の吠え声に変えたくない。吠え声は耳障りである。しかし、耳障りであるからこそ可視化される部分もある。問題は、吠え声が消えた後に残る“無音の運用”のほうである。無音の運用は、撤回不能な閉じを生みやすい。
今日の読書は、ポパー『開かれた社会とその敵 第二巻 上』と『スーパーインテリジェンス』である。どちらも分厚い。分厚い本は、読み切ったという達成感で人を陶酔させる。しかし今日は、読み切っていない。読み切れないという事実が、むしろ今日の主題と噛み合う。なぜなら、読み切れないという遅さは、概念の閉じを遅らせるからである。閉じを遅らせることは、撤回の通路を確保することでもある。私は遅さを、怠惰ではなく運用として扱いたい。運用とは、手続きと例外と反例の束である。束である以上、いちどに握りつぶさないほうがいい。
ここで唯名論が出てくる。唯名論という語は、誤解を呼びやすい。語の表面だけを撫でると、「すべては名に還元される」という愚かな主張に聞こえる。目の前の水が言語でできているわけがない。私はそのレベルの言葉のふざけ方に耐えられない。だが唯名論が本当に問題にしているのは、そこではない。問題は、普遍性の実体化である。「水」という語があるからといって、「水性」なるものがどこかに漂っている必要があるのか。「犬」という語があるからといって、「犬性」なるものが犬たちとは別に独立して存在する必要があるのか。この問いは、単なる言葉遊びではなく、“余計な実体を立てる癖”への警戒である。余計な実体を立てると、説明は一見うまくいく。しかし、うまくいった説明ほど撤回されにくい。撤回されにくい説明は制度化されやすい。制度化された説明は、現場で人を踏む。
私は言葉を重んじているからこそ、唯名論に警戒した。言葉を重んじるというのは、言葉を信仰することではない。言葉が現実に触れるときの、距離と速度と角度を問題にすることである。言葉は刃物である。刃物である以上、切れる。切れる以上、切ってしまう。切ってしまう以上、切った後の残骸が出る。残骸は沈黙する。沈黙したものは、制度の外に追いやられる。制度の外に追いやられたものは、統計の外にも追いやられる。統計の外に追いやられたものは、AIの学習データの外にも追いやられる。こうして「見えない」が増える。見えないが増えると、正しさはより強く吠える。吠える正しさは、撤回条件をさらに嫌う。私は、この循環の起点に“名づけ”があることを、今日の唯名論騒ぎで再確認した。
ここで「水」の話を引き取る。あの水、この水。位置が変われば「これ」が「あれ」になる。それは確かにそうだ。指示語は文脈に依存する。文脈に依存すること自体は、世界の恥でも何でもない。むしろ、文脈に依存する言葉があるからこそ、私たちは現実に指を差せる。問題は、その指差しが、いつの間にか“本質の確定”にすり替わる瞬間である。「水はH₂Oである」。この一句は気持ちが良い。気持ちが良いから固定される。固定されると、H₂Oと呼べないものが「水ではない」と切り捨てられる。切り捨てられたものが、本当に切り捨てていいものかどうかは、現場でしか分からない。海水、泥水、重水、薬品混じりの水、体内の水分、汗、尿。水はH₂Oであるという定義は、科学的には強い。しかし、運用上は、その強さがそのまま暴力になりうる。暴力とは、線の引き方が撤回不能になることである。
昨日私は、境界線が存在しないという文章を引き受けた。正常と異常の境界線は明確ではない。価値と一時的価値の境界線も明確ではない。労務管理は、この明確ではない場所に毎日線を引き直す仕事である。ハラスメントと指導の境界線。合理的配慮と特別扱いの境界線。成果と過労の境界線。評価と選別の境界線。線を引くとは、誰かをこちら側に置き、誰かをあちら側に置くことである。だから線を引くことは政治である。政治は正しさを伴う。正しさは吠える。吠え声を嫌う気持ちは私にもある。しかし吠え声がゼロの社会は、別の意味で怖い。吠え声がないのではない。吠え声を必要としないほど、選別が静かに進んでいるかもしれないからだ。私は吠え声を消したいのではない。吠え声の量を測りたい。量を測るとは、制度のたわみを測ることである。
この「測る」という語が、今日のもう一冊――『スーパーインテリジェンス』――と刺さり合う。AIは測る。測るというより、測れる形に世界を押し潰す。押し潰すと言うと悪意に聞こえるが、悪意でなくても押し潰しは起こる。予測し、分類し、最適化するには、世界を命題にしなければならない。命題にするには、概念の境界線を引かなければならない。境界線を引くには、名前が要る。名前が要るということは、名づけが先に来るということだ。つまりAIの問題は、知能の高さ以前に、名づけの政治が自動化されることにある。自動化されると、速度が上がる。速度が上がると、撤回が追いつかない。撤回が追いつかないと、正しさが吠える前に、選別が終わっている。ここが本当に怖い。
ここでポパーが戻ってくる。ポパーが敵視したものは、閉じた体系である。閉じた体系は、反証を嫌う。反証を嫌う体系は、反証を“例外”として棚上げする。棚上げが続くと、体系はむしろ強く見える。強く見える体系は、人を安心させる。安心は閉じを呼ぶ。閉じは撤回条件を削る。撤回条件が削られると、体系は政治へ侵入する。政治へ侵入した体系は、制度になる。制度になった体系は、異論を吠え声として扱う。吠え声として扱われた異論は、道徳的に劣ったものとして排除されやすい。排除が進むと、開かれた社会は閉じる。私はいま、AIの文脈でこの閉じが加速している気配を嗅いでいる。予測が当たるほど、閉じは気持ちが良い。気持ちが良い閉じは、撤回の筋肉を腐らせる。
撤回の筋肉とは何か。私はこれを「後から謝ること」とは区別したい。謝罪は道徳である。撤回は運用である。撤回とは、どの前提が崩れたら結論を引き返すか、という折り返し地点の設計である。どの指標が歪んだら評価方法を変えるのか。どの副作用が出たら制度を止めるのか。どの段階で説明責任を追加するのか。どのタイミングで第三者を入れるのか。撤回条件がない制度は、坂道をブレーキなしで転がる。転がる途中で誰かが叫んでも止まらない。叫びは吠え声になり、吠え声は暴力になる。私は叫びを嫌うのではない。止まれない構造を嫌う。止まれない構造が、人を家畜化する。
家畜化という語は強い。しかし私は、強い語を使うときこそ、美学が必要だと思う。美学は観賞の趣味ではない。私にとっては、世界への接触の設計である。接触の仕方が変わると、見えるものが変わる。見えるものが変わると、正しさの形が変わる。正しさの形が変わると、制度の設計が変わる。制度の設計が変わると、人が黙って選別される地点が変わる。だから私は美学を倫理の横に置くのではなく、倫理の手前に置きたくなる。倫理は裁く。しかし裁きの前に、見え方がある。見え方は、言葉と環境の配合で決まる。配合が歪むと、裁きは自動化され、撤回できなくなる。
唯名論の議論がここで効く。唯名論は、普遍の実体化を疑う。疑うことは、閉じへの抵抗である。だが同時に、唯名論が「名にすぎない」という軽さを帯びると、その軽さは逆に制度を支える。なぜなら制度は、名で動くからである。名が軽いということは、名を振り回しやすいということだ。振り回しやすい名は、現場を簡単に整形する。整形は一見合理化である。合理化は善の顔をして固定される。固定された善は撤回されにくい。撤回されにくい善は吠え声になる。吠え声は暴力になる。私はこの筋道を見てしまう。だから私は、唯名論そのものを叩きたいのではない。唯名論的な軽さ――「名なんてどうでもいい」「分類は便宜だ」――という態度を叩きたい。便宜であることと、無責任であることは違う。便宜であるがゆえに、責任が必要になる。名づけは便宜である。だからこそ政治である。政治である以上、撤回条件が要る。
ここで今日の新しい概念ラベルを置く。私はこれを「名札の暴力」と呼ぶことにする。名札は本来、区別と配慮のための道具である。だが名札は、貼られた瞬間に「貼られた側の運命」を決め始める。名札が剥がれる設計がなければ、名札は烙印になる。烙印になった名札は、善意で貼られても暴力になる。名札の暴力は、声を上げにくい。なぜなら名札は“分類の正しさ”という顔をしているからである。正しさの顔をした暴力は、最も撤回されにくい。
『スーパーインテリジェンス』が冷たいのは、知能の未来を語るからではない。名札を貼る速度が上がる未来を語るからである。分類の速度が上がる。評価の速度が上がる。配置の速度が上がる。速度が上がると、誤配の回収が難しくなる。誤配の回収が難しくなると、誤配が固定される。固定された誤配は、制度になる。制度になった誤配は、自然に見える。自然に見える誤配は、誰も謝らない。謝られない誤配は、当事者の沈黙として蓄積する。沈黙が蓄積すると、社会は静かに閉じる。これが開かれた社会の敵である。敵はいつも、派手な革命として来ない。静かな運用として来る。
ポパーは、この静かな閉じを嫌った。私は、ポパーの議論を“哲学史の誰かの喧嘩”として読む気になれない。労務管理の現場では、閉じは日々起こる。閉じは必要でもある。閉じないと運用ができないからだ。だが閉じには必ず撤回条件を付けるべきだ。撤回条件がない閉じは、暴力へ変質する。私はこの変質の瞬間に敏感であり続けたい。敏感であり続けるだけでは実務は動かない。実務を動かしながら敏感であり続けるためには、配合の技術が要る。昨日私はそれを「布のたわみ」と呼んだ。今日はそれに「名札の暴力」という補助線を足した。布のたわみとは、重さを見えるようにする形である。名札の暴力とは、見えない重さが“正しさ”として固定される瞬間である。
電車でしか読めないという制約は、奇妙な贈り物でもあった。読む速度が遅いと、理論を閉じ切れない。閉じ切れないと、言葉が吠え声になる前に、湿り気が残る。湿り気が残ると、制度の姿勢が変わる余地が生まれる。私はこの余地を守りたい。守りたいが、守りたいと言った瞬間、それが吠え声に化ける危険もある。だから私は、守りたいのではなく、測りたいのである。測るとは、名づけの政治を点検し、折り返し地点を設計し、撤回の筋肉を予算化することである。予算化とは、正義の叫びを“仕事”に変えることでもある。撤回は遅い。遅いから高い。高いから省略される。省略された撤回の上で制度は淡々と回る。淡々と回る制度の上で人は黙って選別される。私はこの「淡々と回る」を止めたいのではない。淡々と回る場所に、折り返し地点という段差を作りたい。段差があれば、転がり落ちる速度が落ちる。速度が落ちれば、声が吠え声に変質する前に、言い直しが可能になる。
結局、唯名論の議論は私にこう告げている。普遍を実体化するな、と。だが同時に、名を軽く扱うな、と。実体化と軽視は、反対の顔をして同じ場所へ落ちる。どちらも撤回を嫌う。撤回を嫌うものは、開かれた社会の敵になる。私はいま、労務管理・AI・生産性という硬い塊を、デューイ的な接触の設計、ポパー的な反証の倫理、そして“名札の暴力”という補助線の上に置き直しながら、静かな選別を可視化する折り返し地点を探している。探すとは、吠え声で敵を倒すことではない。吠え声が出る前の体温の移動を、できるだけ細部まで書き留めることである。
では私は、名づけを軽くも重くも扱いすぎないために、労務管理の境界線をどこで仮置きし、AI評価の命題をどの粒度で立て、名札が烙印に変わる瞬間をどの指標で検知し、その検知が働いた瞬間にどんな撤回条件を発動させ、折り返しのコストを誰の予算として、どの頻度で、どの公開度で引き受けるべきなのだろうか。
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