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読書日記2081

 

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日記

また刻々と一日が経ったので読書日記を書く。読書日記とは、読んだ本の要約を整然と並べるものではない。私にとっては、読んだことによって生じた違和感の輪郭を、翌日の自分が触れる形にして残す装置である。装置である以上、毎回「何を閉じ、何を閉じないか」を決めねばならない。読み終えて理解した、という閉じがある。読み終えたが理解していない、という閉じもある。理解していないことを理解していないまま保持する、という閉じもある。今日は、その三つ目の閉じ方が主役である――と言いたいところだが、実際には二日空いた。読書日記を書いた後、送迎会があり、そのまま書けずに二日が経ってしまった。日記の時間は、現実のイベントに弱い。だが弱いからこそ、私はここで日記を装置として回収したい。書けなかった二日を、無かったことにして閉じない。書けなかったことごと、次の思考へ接続する。

昨日、YouTubeで戸塚ヨットスクールの言説を眺めた。思想史として詳しく知らないが、骨格は推察できた。「甘ちゃんが増え、社会に適応できない人間が量産され、日本は沈没する」という型である。現状診断があり、原因(家庭・学校・福祉・リベラル)があり、処方箋(痛み・恐怖・鍛錬)があり、予言(沈没)がある。私はこの型を、好き嫌いではなく、閉じ方の強度として見た。

対話の中で整理されたポイントがある。「彼らが言う適応は、社会への適応というより、上位者への適応へ寄りやすい」ということだ。交渉、協働、限界管理、ルール形成への参加といった現代的な適応ではなく、命令への即応、我慢、反論しない、競争に勝て、へと収束しがちである。適応の定義が狭い。狭い定義は、狭い正義を生む。そして狭い正義は、吠え声になりやすい。

吠え声。これが私の最近のキーワードである。私はカール・ポパー『開かれた社会とその敵 第二巻 上』を読み、内容以前に、まず吠え声に引っかかった。敵を名指しし、敵の内部を決めつけ、害を一気に閉じ切る語気である。もちろん、全体主義の非人道性を前にして慎重さだけが美徳だなどと言う気はない。告発が倫理的な局面はある。だが私は、閉じる力が強すぎるとき、その閉じが撤回不能へ滑る感覚に過敏である。撤回不能な閉じは、いつか必ず別の非人道性の燃料になる。政治の議論でも、職場の制度でも、言論の場でも、そして自分の頭の中でも、同じである。

この背骨を抱えたまま、プラトン『政治家』を読み終えた。しかし、さっぱりわからない。読み終えたのに分からないというのは、読書家にとって不名誉である。だが私は、この不名誉を恥として処理したくない。むしろ「ここで分からない」と言える方が、いまの私の背骨にとって重要である。分かったふりは撤回不能な閉じになりやすいからである。

『政治家』が見せる政治は、討議ではなく技術へ寄る。尺度(メトロン)と時機(カイロス)、そして織物の比喩。政治家は市民の剛と柔を一枚の布に織り上げる。比喩は美しい。しかし美しいぶんだけ背筋が冷える。布を織る者にとって、布を破る言葉はノイズである。ほつれを増やす風刺は攪乱である。異議は摩擦である。政治が織物である限り、言論は管理対象になる誘惑を持つ。

ここで私は自分に問うた。開かれた社会とは、何が開かれている社会なのか。私は迷わず答えた。間違いなく言論である。だが言論という答えはすぐに分解を要求する。何でも言える自由(A)か。誤りを批判できる自由(B)か。権力を笑える自由(C)か。私はここで、現代の空気の中でAとBが痩せていることを告白せざるをえなかった。何でも言いたいが、いまは「限度というものがある」「ハラスメントだよ」と言われる時代である。Aは縮む。Bも弱い。反論や検証の自由は、空気の判定に負けやすい。消去法で残るのがCである。権力を笑える自由。風刺と異議申し立ての自由。

しかしCにも落とし穴がある。笑いは権力を監視もするが、あらゆる権威の解体を快楽として加速させ、結果として誰も真面目に責任を取らない世界を作りうる。現代的に言えば、シニシズム(全部茶番)と嘲笑の無限ループである。だから私は、笑いを守ると言うとき、それを無制限の快楽としては扱いたくない。むしろ笑いを守るために必要な尺度(メトロン)と撤回条件を設計したい。どこまでを風刺として許すのか。どこからを共同体の破壊として退けるのか。いったん退けたとして、どの条件が満たされたら撤回し、再び許すのか。撤回の手続きは何か。撤回のコストは誰が払うのか。誰が払うべきなのか。

そして二日空いた今日、私は休日なので書店に行った。労務管理・AI・生産性という問題意識を持ち、書店をうろうろした。結局ビジネス関係の本、実務的な本、哲学書を少し買った。ベンサムに関心が行ったが、功利主義はある意味物質主義でもあり、家畜の発想だと思った。『善と悪のパラドックス』には、人間も自己家畜化している、といった趣旨が書かれている。私の中でその線が繋がり、ベンサム研究は急に胃にもたれるものになった。そこでカントへ行こうとしつつ、目的論の研究もあまり気が向かず、結局アーレントの伝記を購入した。私は自分の逡巡の軽さを反省したいのではない。むしろ、軽さの中に「撤回条件」が含まれているのを見逃したくない。重すぎる倫理学を、私はいま一度受け止めきれない。受け止めきれないという感覚それ自体が、今日の私の尺度である。

ちなみに、私は人込みが大嫌いである。しかし大型の本屋は人込みにしか存在しない。だが本は、多くは孤独な営みである。人込みでしか、つまり立地と売り上げのバランスのある場所でしか営業できない空間で、孤独の道具が最もよく売られている。このジレンマを私は「書店のパラドックス」と呼んでいる。孤独が欲しい者は、人込みに身を浸して孤独の燃料を買う。これは単なる愚痴ではない。市場と文化の構造である。静けさの条件が、騒がしさによって支えられている。私はここにも、骨格→例外の二段閉じを見る。文化の骨格(孤独な読書)を支える運用(人込みの商業空間)。この二段閉じが崩れると、本はどこで買われるのか。AIが推薦し、配送が静かに届く世界で、書店のパラドックスはどう変形するのか。

今日読んだのは『ジョン・メイナード・ケインズ』と『ジョン・デューイの美学・芸術教育論集』である。デューイについてはまだ輪郭しか掴めていない。だが「芸術」「教育」という語が、私の最近の背骨――言論、制度、撤回、そして吠え声――と接続する予感だけは濃い。デューイの教育は、痛みで従わせる教育とも、理想を一気に閉じ切る教育とも別の方向へ私を引っ張るだろう。今日はまず、ケインズでメモしたことを装置として残す。

ケインズが第三の標的にしたのは、ムーア『倫理学原理』に見られる混乱した結果主義である、という。結果主義では、行為の正しさはその結果(実際の結果と予想される結果を含む)によって判断されるべきとする。すると、結果主義の理論が成り立つためにはどのような知識が必要かという問題が出てくる。答は当然ながら確率(probability)の知識だということになる、という(『ジョン・メイナード・ケインズ』p155)。ここで私は、倫理が急に労務管理へ接続するのを感じた。労務もまた、善意だけでは回らない。採用、配置、評価、制度設計。結果が問われる。結果が問われる以上、予測が問われる。予測が問われる以上、確率が問われる。つまり現代の実務は、結果主義を嫌う者ですら、確率の問題から逃げられない。

さらに「行動に関する倫理」は、ケインズの確率論の原型をはっきり示している。それによれば、確率は事象ではなく命題の属性であり、ムーアの「善」の概念と同じく、直観的に知ることができるという(同p156)。ここが今日いちばん私をざわつかせた。私はこれを、単なる学説史として片付けたくない。確率が命題の属性だというとき、私が普段「客観的だ」と思って扱っている多くの数字が、実は命題の形に依存していることになる。AIによる生産性評価も同じである。AIが扱うのは事象ではなく、命題である。命題の立て方が、確率の顔つきを決める。つまり「測る」以前に「言い方」がある。尺度(メトロン)は、測定器ではなく命題の形式として先に来る。ここに私は、プラトンの尺度の議論と、現代の生産性指標の議論が、同じ背骨で繋がるのを見た。

そしてもう一つ。ムーアの倫理学体系では、政治はよく言っても善のための手段という位置づけだった。ただし間接的な手段である。ケインズはバークのことを最初の功利主義政治学者だと評価した、という(同p158)。私はここで「政治は手段」という言い方を、警戒しつつ回収したくなる。政治が善のための手段に落ちるとき、政治は技術化しやすい。技術化した政治は、言論を管理しやすい。『政治家』の織物モデルがここで再び立ち上がる。だが同時に、政治を手段と見なさなければ、政治は善そのものを名乗りやすくなる。善そのものを名乗る政治は、吠え声の最短経路でもある。どちらに転んでも危うい。だから私は、政治を手段と呼ぶなら、その手段の撤回条件を埋め込む必要があると思う。手段はいつも目的化する。目的化した手段は、正義の顔をして人を選別する。ここで私は、労務管理・AI・生産性という自分の徘徊の出発点に戻る。

いまAIが台頭してくると、AIのことを考えずにはいられない。私はバックオフィスの人間である。バックオフィスは制度の骨格と例外を扱う。骨格→例外の二段閉じは紙の上では整然としている。しかし現場は例外だらけである。AIが得意なのは骨格の高速適用である。既知のルールを高速に適用し、既知のパターンを高速に分類し、既知の例外を既知として処理する。AIが苦手なのは、例外が例外であることの意味を測り直すこと、例外が骨格を侵食している兆候を嗅ぎ取ること、例外処理が倫理を破壊している地点を見つけること、そして撤回条件の設計である。AIは撤回のコストを負う身体を持たない。

だから私は、政治家という語を別の角度で扱いたくなる。政治家とは単に決断する人ではない。政治家とは吠え声の解毒と撤回の通路探索である。撤回不能な閉じを増やす人ではなく、撤回可能な閉じを増やす人であるべきだ。撤回可能性とは、すべてを曖昧にすることではない。撤回条件が明示され、撤回手続きが設計され、撤回が恥ではなく運用として扱われ、撤回後に次の尺度が立て直される状態である。

私は今日、書店の人込みの中で孤独の道具を買い、家に帰って確率論と倫理学と政治学を読み、そして走った日のことを思い出した。走るとき、私は思考の吠え声が減る。言い切りたい衝動が減る。理性の王様化が息切れとともに静まる。身体が先に結論を出す。「今日はここまででいい」と。私はこの「ここまででいい」を怠惰と呼びたくない。むしろ撤回条件の感覚として扱いたい。読むことにも撤回条件が要る。全部を一気に閉じようとすると理解は暴力になる。理解は相手(テクスト)を自分の枠に押し込める。押し込めた理解は撤回しにくい。だから読むことにも折り返し地点を置く。

こうして私はまた、最初の合言葉に戻る。閉じれるなら閉じてみなさい。閉じるなら撤回条件を埋め込め。吠えるなら解毒せよ。ファクト/解釈/レトリックの三層を混ぜない。混ぜると、正義の吠え声が断罪の快楽へ滑る。結果主義を採るなら確率の知がいる。確率を語るなら命題の形が先にある。命題の形を整えるなら尺度が要る。尺度を置くなら撤回条件が要る。撤回条件を置くなら、そのコストを誰が払うかを引き受けねばならない。

では私は、労務管理・AI・生産性という、確率と命題と尺度の塊のような領域で、正義の吠え声(「遅いのが悪い」「ムダが悪い」「属人的判断が悪い」)を必要な強度で維持しつつ、それを撤回不能な閉じへ滑らせず、書店のパラドックスのような二段閉じの構造を見失わず、そして撤回のコストを誰がどのように引き受けるという設計を、私の仕事と公共圏の両方でどのように具体化できるのだろうか。

ここで私は、今日読んだもう一冊――『ジョン・デューイの美学・芸術教育論集』のほうへ戻る。私はまだ読みが浅い。だが浅いなりに、確かな違和感が立ち上がっている。私はこれまで、政治や制度や言論を「閉じ方の問題」として捉えた。閉じる力の強度、閉じの撤回条件、吠え声の解毒。ところがデューイの美学は、同じ問題を別の入口から押し返してくる。美学という語は、観賞の趣味ではない。もっと乱暴に言えば、「人間が世界に触れる回路の設計」である。私はこの語を読んだ瞬間に、労務管理・AI・生産性という硬い語群が、急に柔らかい布の上に置かれた感覚を覚えた。布の上に置くと、重さが分かる。重さが分かると、どこがたわむかが見える。私はいま、たわみの場所を探している。

美学が制度へ刺さるのは、評価の問題に似ているからである。評価とは、点数を付けることではない。点数を付ける行為の前に、「何を良いと見なすか」がある。良いと見なす視線の癖がある。視線の癖は、結局、経験の形である。経験がどう組織されているかによって、何が良いかが見える。そう考えると、美学は倫理より先にあるのではないか、という疑いが立つ。倫理は行為を裁くが、行為が生まれる前に経験がある。経験の設計が歪むと、裁きの尺度も歪む。私はここで、ムーアの「善は定義できない」という断念の筋肉と、デューイの「経験は形成できる」という希望の筋肉が、同じ身体の中で喧嘩し始めるのを感じた。

私はベンサムを避けた。功利主義が家畜の発想に見えたからである。家畜の発想とは、幸福を餌のように与え、苦痛を鞭のように避け、行動を整形する発想である。もちろん功利主義の内側には洗練がある。だが私は、労務管理・AI・生産性を考えながら書店を歩いているとき、功利主義が「自動整形の倫理」に見えてしまった。人間が自己家畜化しているという指摘が刺さったのは、私がすでに職場でそれを見ているからである。生産性、効率、KPI。言葉だけなら中立に見える。しかし制度化すると、それは餌と鞭になる。餌と鞭が人間の経験を作り、経験が人間の価値を作り、価値が「善」の顔をして固定される。固定された善は撤回されにくい。撤回されにくい善は、正義の吠え声になる。私はこの循環を止めたい。

そこでカントへ行こうとしたが、目的論へ気分が向かなかった。私はいま、目的を語る言葉に飽きているのかもしれない。目的は正義になりやすい。正義は吠え声になりやすい。私は正義を捨てたいわけではないが、正義の吠え声を増やしたくない。だから私は、カント的に「人間を目的として扱え」と言う言葉を、いまの身体が受け止めきれないと感じた。受け止めきれないという感覚そのものが、今日の撤回条件である。私はここで、倫理を語る自分の体力を、体力として扱いたい。倫理は精神論ではなく、持久力である。持久力がないのに高地へ登ると、言葉が薄くなる。薄い言葉は強い言葉で補われる。強い言葉は吠え声になる。吠え声は撤回不能な閉じへ滑る。だから私は、倫理を持久走として扱う。

その意味で、アーレントの伝記を買ったのは、私にとって逃避ではない。むしろ補給である。伝記は、思想を「人生の運用」として見る。運用は例外だらけである。例外だらけの中で、どうやって思想を撤回し、言葉を言い直し、友人を失い、共同体を離れ、また戻るのか。アーレントの人生は、その運用の塊だろう。私はここに、撤回の通路があると踏んだ。哲学書を読むと、理論が綺麗に閉じる。閉じると気持ちが良い。気持ちが良いと撤回が嫌になる。撤回が嫌になると政治が危うくなる。だから私は、閉じの快感をいったん伝記の泥で汚したい。汚すことで、撤回条件を取り戻したい。

そしてデューイである。デューイの芸術教育論集を読みながら、私は戸塚的な教育と対比せずにいられなかった。戸塚的言説は、痛みで身体を従わせ、上位者への適応を社会適応と呼ぶ方向へ寄りやすい。そこでは言葉は後回しになる。言葉は弱い。身体が強い。だがデューイは、身体と経験を軽視しないはずである。にもかかわらず、痛みの教育へ流れない。ここが重要である。身体を重視することと、痛みで矯正することは別である。この別を区別できない社会が、いま増えている気がする。身体を重視する者がすぐ暴力へ近づき、言葉を重視する者がすぐ空疎へ近づく。その二項対立が、私の中でも社会の中でも、雑に回っている。デューイはその雑さを崩すための道具になりうる。

私は、デューイの美学を「言論の撤回条件」として読めるかもしれないと思った。言論の自由(A/B/C)を私は分解した。だが分解しただけでは足りない。分解した自由が、現実の経験としてどう育つのかが必要である。自由は権利として宣言されるだけでは育たない。自由は習慣として形成される。習慣は環境として設計される。環境は教育として運用される。ここで教育が出てくる。教育とは、教科書の内容ではなく、経験の形を作る営みである。経験の形が作られれば、批判(B)は攻撃ではなくなる。風刺(C)は破壊ではなくなる。何でも言える(A)は暴走ではなくなる。つまり言論の自由は、法的保障で閉じるだけでは足りない。経験の設計としての美学が必要になる。私はここで、美学を制度の芯へ持ち込みたい衝動に駆られる。

ただし、ここでも私は閉じたくない。美学を持ち込むとき、また別の吠え声が生まれるからである。美学は「良い趣味」になりやすい。良い趣味は階級になりやすい。階級になった趣味は排除になる。排除は正義を名乗る。正義は吠える。吠え声は撤回不能な閉じへ滑る。芸術教育が「文化資本の装置」になってしまえば、それは別の家畜化である。だから私は、美学を持ち込むなら、美学にも撤回条件を埋め込まねばならない。美学が正義の道具になり始めた兆候を、どこで嗅ぎ取るのか。美学が階級の香水になり始めた瞬間、どう引き返すのか。私はここに、可逆性の問題を見た。

可逆性は、私が言い出した絶対正義である。しかし私は最近、その絶対正義が怖くなっている。可逆性は免罪符になりうるからである。「撤回できるから」と言って決断を薄め、「後で変えるから」と言ってコストを先送りし、誰も撤回のコストを払わない社会へ滑る危険がある。これは言論でも同じである。謝れば済む、訂正すれば済む、撤回すれば済む。その軽さが、逆に言葉の暴力を増やす。撤回は運用であるべきだが、撤回は値引きであってはならない。撤回のコストを支払う者がいる。撤回のコストを支払う者が可視化されない撤回は、ただの踏み倒しである。私は可逆性を守りたいが、可逆性が王様化するのを止めたい。王様化を止めるには、可逆性にも尺度が要る。可逆性の適用条件と例外条件を設計しなければならない。ここで私はまた、骨格→例外の二段閉じへ戻る。私の思考は二段閉じを好む。二段閉じは、筋肉でもあるが、罠でもある。

ケインズの確率論が、ここで再び効いてくる。結果主義を成り立たせるには確率が要る。確率は事象ではなく命題の属性である。つまり、結果主義が必要とする確率は、世界の外側にあるのではない。私たちの言い方の中にある。言い方は尺度である。尺度は政治である。政治は技術化しやすい。技術化した政治は言論を管理しやすい。これが『政治家』の冷たさの正体である。そして労務管理・AI・生産性は、まさにこの冷たさの現代的な形である。

私は書店で、AIや生産性の本を手に取りながら、背中が冷えた。そこに書かれていることが間違っているからではない。正しいからである。正しい言葉は閉じになりやすい。閉じになった正しさは撤回されにくい。撤回されにくい正しさは、制度になった瞬間に人を選別する。選別は静かに行われる。静かな選別は、吠え声より怖い。吠え声は聞こえる。聞こえるから批判できる。だが静かな選別は聞こえない。聞こえないから批判できない。批判できないものは、ポパーが言う意味での「開かれた社会」の敵になる。私は、吠え声を嫌ってきたが、吠え声の代わりに静かな選別が増えるのも嫌である。私はここで初めて、吠え声の必要性を再評価した。吠え声は毒であるが、毒は免疫でもある。毒がなければ免疫は育たない。問題は毒の量である。毒の量が尺度であり、尺度がメトロンであり、メトロンが政治家の仕事である。私はこの回路を、仕事の現場へ持ち込みたい。

だが、仕事の現場は「言論」ではない。仕事の現場は「運用」である。運用は時間に追われる。時間は金になる。時は金なり、という換算が人間の行為を再編する。再編されると、撤回の通路が塞がる。なぜなら撤回は遅いからである。撤回は会議が要る。撤回は説明が要る。撤回は謝罪が要る。撤回は関係の修復が要る。撤回は高い。高いものは省略される。省略された撤回の上で、制度は淡々と回る。淡々と回る制度の上で、人は黙って家畜化される。私はこれを止めたい。止めるには、撤回の通路に予算を付けねばならない。撤回の通路に時間を割り当てねばならない。撤回の通路を「仕事」として認めねばならない。撤回を怠惰と呼ぶ文化を壊さねばならない。だがこれを言うとすぐ吠え声になる。「撤回は正義だ」「撤回しない奴は悪だ」。私はその吠え声も嫌である。だから私は撤回を制度設計として語りたい。道徳ではなく運用として語りたい。

ここで私は、書店のパラドックスをもう一度思い出す。孤独の営みが、人込みの商業空間でしか成立しない。これは、撤回の通路にも似ている。撤回は孤独では成立しない。撤回は共同体の中でしか成立しない。ところが共同体は、人込みであり、摩擦であり、ノイズである。撤回は静けさを欲しながら、騒がしさの中でしか起動しない。私は撤回の通路を確保したいが、撤回の通路は人込みを呼ぶ。人込みが嫌いな私は、撤回の条件を愛しながら、その運用を嫌う矛盾を抱える。この矛盾を私は笑いたくなる。だが笑うだけでは足りない。笑いはCである。Cは最後の骨である。だがCは酸でもある。だから私は笑いにも撤回条件を付けたい。笑いが共同体を守る刃になるか、共同体を溶かす酸になるか、その境界をどこに置くのか。

私は今日、デューイを読んで、芸術教育が「社会に適応する」ことの別の定義を与えうると思った。戸塚的な適応は、上位者への適応へ寄る。だが芸術教育が育てる適応は、世界への感受性への適応かもしれない。感受性とは、世界の手触りを読み取る力である。読み取る力があれば、命令に従うだけでは足りない局面が見える。評価指標の外側にある痛みが見える。制度が静かに人を傷つける場所が見える。つまり芸術教育は、吠え声を減らすのではなく、吠え声になる前の違和感を増やす。違和感が増えれば、吠え声の量を減らせるかもしれない。吠え声に頼らずに済むかもしれない。私はこの可能性に賭けたくなる。

だが賭けもまた結果主義である。結果主義には確率が要る。確率は命題の属性である。命題は言い方である。言い方は尺度である。尺度は政治である。私はまた同じ輪を回っている。輪を回ること自体が、私の読書日記アプローチの癖である。輪を回るのは悪ではない。むしろ輪を回りながら、どこで閉じ、どこで閉じないかを決めるのが装置である。

私は最後に、

 

 

 

 

つづきは

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