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日記
また刻々と一日が経ったので読書日記を書く。読書日記とは、読んだ本の要約を整然と並べるものではない。私にとっては、読んだことによって生じた違和感の輪郭を、翌日の自分が触れる形にして残す装置である。装置である以上、毎回「何を閉じ、何を閉じないか」を決めねばならない。読み終えて理解した、という閉じがある。読み終えたが理解していない、という閉じもある。理解していないことを理解していないまま保持する、という閉じもある。今日は、その三つ目の閉じ方が主役である。
昨日、YouTubeで戸塚ヨットスクールの言説を眺めた。思想史として詳しく知らないが、骨格は推察できた。「甘ちゃんが増え、社会に適応できない人間が量産され、日本は沈没する」という型である。現状診断があり、原因(家庭・学校・福祉・リベラル)があり、処方箋(痛み・恐怖・鍛錬)があり、予言(沈没)がある。私はこの型を、好き嫌いではなく、閉じ方の強度として見た。
対話の中で整理されたポイントがある。「彼らが言う適応は、社会への適応というより、上位者への適応へ寄りやすい」ということだ。交渉、協働、限界管理、ルール形成への参加といった現代的な適応ではなく、命令への即応、我慢、反論しない、競争に勝て、へと収束しがちである。適応の定義が狭い。狭い定義は、狭い正義を生む。そして狭い正義は、吠え声になりやすい。
吠え声。これが今日のキーワードである。私はカール・ポパー『開かれた社会とその敵 第二巻 上』を読み、内容以前に、まず吠え声に引っかかった。敵を名指しし、敵の内部を決めつけ、害を一気に閉じ切る語気である。もちろん、全体主義の非人道性を前にして慎重さだけが美徳だなどと言う気はない。告発が倫理的な局面はある。だが私は、閉じる力が強すぎるとき、その閉じが撤回不能へ滑る感覚に過敏である。撤回不能な閉じは、いつか必ず別の非人道性の燃料になる。政治の議論でも、職場の制度でも、言論の場でも、そして自分の頭の中でも、同じである。
今日の私の理解は雑である。とりあえず「アリストテレスは独創性がない、プラトンの下位互換だ」とポパーが吠えている、ということしか掴めなかった。しかし、掴めないことを恥として処理したくない。むしろ「ここで分からない」と言える方が、いまの私の背骨にとって重要である。分かったふりは撤回不能な閉じになりやすい。撤回不能な閉じは、いつか必ず別の非人道性の燃料になる。だから今日の私は、分からなさを保持する。
この背骨を抱えたまま、プラトン『政治家』を読み終えた。しかし、さっぱりわからない。読み終えたのに分からないというのは、読書家にとって不名誉である。だが私は、この不名誉を恥として処理したくない。むしろ「ここで分からない」と言える方が、いまの私の背骨にとって重要である。分かったふりは撤回不能な閉じになりやすいからである。
そもそも私は、プラトンの対話篇を読むことに関して、ここ最近かなり調子が良かった。『国家』『法律』『ゴルギアス』『プロタゴラス』『パイドン』『メノン』『饗宴』『ソクラテスの弁明』は、少なくとも「議論の線」が見えた。問いがどこにあり、どの反論がどの反論に刺さり、結局どこで決着をつけようとしているのか、が追えた。もちろん理解が浅い部分もある。しかし追えるというだけで、読書は自分の呼吸と同期する。ところが『政治家』は、こちらの呼吸をわざと乱す。分割が続き、類型が続き、いったん得たはずの足場が何度も壊される。神話が挿入され、論理のテンポが崩れ、議論の速度が勝手に変わる。読者に優しくない。優しくないだけでなく、読者の理解の癖を利用して転ばせる。私は、これを意地悪だとは思わない。意地悪というより、思想が思想として成立するための準備運動の強制である。
私が最初に引っかかったのは素朴な問いであった。「王者の技術と大工の技術の違いは結局何か」。プラトンは政治家を職人にたとえ、牧者にたとえ、織り手にたとえる。ところが、たとえが増えるほど政治家がどの職人なのか分からなくなる。政治家は職人なのか、職人ではないのか。職人だとすれば作品は何なのか。政治家が作るものは家でも椅子でも船でもない。では何か。私はそこで、翻訳が悪いのか、私の読解力がないのか、と二択で原因を閉じかけた。二択で閉じると安心する。安心すると読書は終わった気分になる。だが『政治家』はその終わった感を許さない本である。
対話の中で返ってきた整理は、いったん正しい答えであった。大工の技術は制作のテクネーである。王者(政治家)の技術は統御・指揮のテクネーである。大工はモノを作る。政治家は人間の集団の生を扱う。政治家の成果は「モノ」ではなく、市(ポリス)の秩序・教育・気質・運用として現れる。政治家の仕事は、人間の魂や性格の配合に関わる。
私はこの説明を聞いた瞬間、いったん「なるほど」と言いたくなった。だが私は「なるほど」を一度飲み込んだ。なるほど、で閉じたくなる衝動こそが危険だからである。なるほど、と言った瞬間に理解が出来上がった気分になる。出来上がった理解は撤回しにくい。撤回しにくい理解は読書の外部で吠え声になる。
吠え声は、戸塚的な語りにも、ポパーの語りにも、同じ匂いを残す。違うのは方向である。戸塚的な吠え声は、適応=上位者への適応へ読者を誘導しやすい。ポパーの吠え声は、批判可能性を制度の生命線として読者に叩き込む方向へ走る。つまり両者は逆方向だが、どちらも「閉じの強度」で読者を押す。私はここで、閉じることそれ自体を悪として扱いたくない。閉じることは力であり、力は倫理の最前線に出てくる。だからこそ私は、閉じる力に強度テストをかけたい。閉じが閉じとして成立するなら、その閉じには撤回の道筋があるはずだ。
この背骨を抱えたまま『政治家』を読むと、王者の技術と大工の技術の違いは、単なる分類ではなく、閉じ方の差として見えてくる。大工の技術は目的物が比較的明瞭である。成果は外部に出る。判定もしやすい。寸法も工程も、一定程度ルール化できる。一方、政治家の技術が相手にするのは、人間の集団の生であり、共同体の秩序であり、教育であり、気質であり、制度の運用である。成果は作品ではなく状態として現れる。状態の判定は揉める。揉めるという事実は、そのまま言論を呼び込む。
ところが『政治家』は、この揉めを「言論の場」で処理するというより、「技術の上位性」で処理しようとする誘惑を示す。政治家の知を、命令する技術と命令されて働く技術に分け、政治家を前者の頂点に置く。政治家は万能の職人ではない。万能の指揮者である。万能の指揮者は、最初から言論を鬱陶しく感じる誘惑を持つ。言論は指揮の妨げになるからである。
そして『政治家』は尺度(メトロン)と時機(カイロス)を持ち出す。政治は状況が動く。単純なマニュアルに落ちにくい。だから政治家は、尺度を扱い、適切な時を掴む知の持ち主として描かれる。ここで法律が出てくる。法律は固定化された一般ルールである。一般ルールは状況の多様さに追いつけない。だから法律は次善に落ち、真の政治家は状況に応じてその場の正しさを見抜く知を持つ、と。
読者が混乱するのは当然である。法律いらないのか、という反発が起きる。だが『政治家』は反発を起点にさらに進む。政治は織物である、という比喩が出てくる。政治家は市民の剛と柔のような相反しがちな気質を、片方を潰さずに一枚の布に織り上げる。大工は木材を組み立てる。政治家は徳・気質・教育・制度を組み合わせる。この比喩の美しさが、同時に私の背筋を冷やす。布を織る者にとって、布を破る言葉はノイズである。ほつれを増やす風刺は攪乱である。異議は摩擦である。政治が織物である限り、言論は管理対象になる誘惑を持つ。
ここで昨日の戸塚的言説が反射する。戸塚の「適応」もまた、共同体の布をほつれさせないための言葉として響く。ほつれを増やす者を排し、痛みで矯正し、言葉より先に体を従わせる。そのとき言論は監視の刃ではなく、政治が管理すべき刺激物になる。私は昨日、適応の定義が狭いと言った。狭い適応は、狭い正義を生み、狭い正義は吠え声になり、吠え声は撤回不能な閉じへ滑る、と。
そして今日のポパーが、別の角度から同じ滑りを照らす。ポパーは「良い王」を期待するな、という方向へ読者を押す。人格ではなく、批判可能性の回路(制度)を守れ、と。ここまで翻訳するとポパーの吠え声は単なるレッテル貼りではなく、言論の回路を守るための荒い言い方として理解できる。しかし私はそこで安住できない。ポパーの荒さは、敵を閉じ切る荒さでもある。閉じ切りは気持ちがよい。気持ちよさは撤回を嫌う。撤回を嫌う正義は、別の非人道性の燃料になりうる。
ここで私は、自分の背骨をもう一度確認する。閉じれるなら閉じてみなさい。閉じるなら撤回条件を埋め込め。吠えるなら解毒せよ。ファクト/解釈/レトリックの三層を混ぜない。混ぜると、ファクトが持つべき冷たさが失われ、解釈が持つべき暫定性が消え、レトリックが持つべき自覚が霧散する。正義の吠え声が断罪の快楽へ滑る。
この背骨は、バックオフィスの仕事にも接続する。バックオフィスは制度の骨格と例外を扱う。骨格→例外の二段閉じは紙の上では整然としている。しかし現場は例外だらけである。例外を例外として処理しつつ、例外を常態化させない。例外が増えすぎたら骨格を見直す。AIが得意なのは骨格の高速適用である。AIが苦手なのは、例外が例外であることの意味を測り直すこと、例外が骨格を侵食している兆候を嗅ぎ取ること、例外処理が倫理を破壊している地点を見つけること、そして撤回条件の設計である。AIは撤回のコストを負う身体を持たない。
だから私は、政治家という語を別の角度で扱いたくなる。政治家とは単に決断する人ではない。政治家とは吠え声の解毒と撤回の通路探索である。撤回不能な閉じを増やす人ではなく、撤回可能な閉じを増やす人であるべきだ。
ここまで書いて、ようやく「読み終えたが分からない」という『政治家』の読後感が、私の背骨の上に乗るのを感じる。『政治家』の難しさは、翻訳のせいでも読解力のせいでもない。むしろ、こちらの閉じ方が試験にかけられている。政治を討議として閉じたい欲望が、政治を技術として閉じる装置によって揺さぶられている。言論を開放として閉じたい欲望が、言論を矯正として閉じたい誘惑によって揺さぶられている。ポパーの吠え声によって「閉じることの倫理」を問う私の欲望が、プラトンの分類と尺度によって「閉じ方の手続き」を問う方向へ誘導されている。
私はいまの時代の空気の中で、何でも言える自由と誤りを批判できる自由が痩せていくのを知っている。だから消去法で、権力を笑える自由が最後の骨として残るように見える。しかし笑いもまた、共同体を空洞化させる酸になりうる。監視の刃にも、無責任の加速装置にもなる。だから私は、笑いを守ると言うとき、それを無制限の快楽としては扱いたくない。むしろ
つづきは
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