
連続日記を展開中
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日記
また刻々と一日が経ったので読書日記を書く。読書日記とは、読んだ本の要約を整然と並べるものではない。私にとっては、読んだことによって生じた違和感の輪郭を、翌日の自分が触れる形にして残す装置である。装置である以上、毎回「何を閉じ、何を閉じないか」を決めねばならない。読み終えて理解した、という閉じがある。読み終えたが理解していない、という閉じもある。理解していないことを理解していないまま保持する、という閉じもある。今日は、その三つ目の閉じ方が主役である。
プラトン『政治家』を読み終えた。しかし、さっぱりわからない。読み終えたのに分からないというのは、読書家にとって不名誉である。だが私は、この不名誉を恥として処理したくない。むしろ「ここで分からない」と言える方が、いまの私の背骨にとって重要である。分かったふりは撤回不能な閉じになりやすい。撤回不能な閉じは、いつか必ず別の非人道性の燃料になる。政治の議論でも、職場の制度でも、言論の場でも、そして自分の頭の中でも、同じである。
そもそも私は、プラトンの対話篇を読むことに関して、ここ最近かなり調子が良かった。『国家』『法律』『ゴルギアス』『プロタゴラス』『パイドン』『メノン』『饗宴』『ソクラテスの弁明』は、少なくとも「議論の線」が見えた。問いがどこにあり、どの反論がどの反論に刺さり、結局どこで決着をつけようとしているのか、が追えた。もちろん、内容は深いし、こちらの理解が浅い部分もある。しかし追えるというだけで、読書は自分の呼吸と同期する。ところが『政治家』は、こちらの呼吸をわざと乱す。分割が続き、類型が続き、いったん得たはずの足場が何度も壊される。神話が挿入され、論理のテンポが崩れ、議論の速度が勝手に変わる。読者に優しくない。優しくないだけでなく、読者の理解の癖を利用して転ばせる。私は、これを意地悪だとは思わない。意地悪というより、思想が思想として成立するための準備運動の強制である。
私が最初に引っかかったのは、極めて素朴な問いであった。「王者の技術と大工の技術の違いは結局何か」。プラトンは政治家を職人にたとえ、あるいは牧者にたとえ、あるいは織り手にたとえる。ところが、たとえが増えるほど、政治家がどの職人なのか分からなくなる。政治家は職人なのか、職人ではないのか。職人だとすれば、政治家の作品は何なのか。政治家が作るものは家ではない。椅子でもない。船でもない。では何か。私はそこで、翻訳が悪いのか、私の読解力がないのか、と二択で原因を閉じかけた。二択で閉じると安心する。安心すると読書は終わった気分になる。だが『政治家』はその終わった感を許さない本である。
対話の中で返ってきたのは、いったん整理としては正しい答えであった。大工の技術は「作る技術」である。制作・生産のテクネー。王者(政治家)の技術は「他の技術を使って人間を導く技術」である。統御・指揮のテクネー。大工はモノを作る。政治家は人間の集団の生を扱う。政治家の成果は「モノ」ではなく、市(ポリス)の秩序・教育・気質・運用として現れる。政治家の仕事は、人間の魂や性格の配合に関わる。
私はこの説明を聞いた瞬間、いったん「なるほど」と言いたくなった。だが私は「なるほど」を一度飲み込み、二回目の質問を自分に投げた。なるほど、で閉じたくなる衝動こそが危険だからである。なるほど、と言った瞬間に、理解が出来上がった気分になる。出来上がった理解は、撤回しにくい。撤回しにくい理解は、読書の外部で吠え声になる。私はいま、吠え声に対して過敏である。なぜなら、私はポパーを読みはじめたとき、内容以前の「吠え方」に引っかかったからである。
ポパー『開かれた社会とその敵』を読みはじめたとき、私は論証の筋でも史料の多寡でもなく、あの独特の語気に引っかかった。敵を名指しし、敵の内部を決めつけ、敵が世界に及ぼす害を一気に閉じ切る。その閉じ方が強すぎるように感じられた。もちろん、全体主義の非人道性を前にして慎重さが美徳だなどと言う気はない。暴力や迫害の歴史に向けては、冷淡な中立よりも告発の方が倫理的であることがある。だが、それでもなお私は、あの吠え声に対して「好き嫌い」ではない違和感を抱いた。違和感の正体は一つの挑発に凝縮できる。閉じれるなら閉じてみなさい、と。
この挑発は相手を侮るためではない。むしろ逆である。閉じることは力であり、力は倫理の最前線に出てくる。だからこそ私は、閉じる力に強度テストをかけたい。閉じが閉じとして成立するなら、その閉じには撤回の道筋があるはずだ。撤回不能な閉じは、いつか必ず別の非人道性の燃料になる。私はこの感覚を、読書の内部にも、言論の内部にも、制度の内部にも持ち込みたい。
この背骨を抱えたまま『政治家』を読むと、王者の技術と大工の技術の違いは、単なる分類ではなく、閉じ方の差として見えてくる。大工の技術は目的物が比較的明瞭である。家、椅子、船。成果は外部に出る。判定もしやすい。寸法も工程も、一定程度ルール化できる。もちろん名人芸は残るが、名人芸ですら、作品の出来栄えという外部基準に晒される。一方、政治家の技術が相手にするのは、人間の集団の生であり、共同体の秩序であり、教育であり、気質であり、制度の運用である。成果は作品ではなく状態として現れる。状態の判定は揉める。揉めるという事実は、そのまま「言論」を呼び込む。ところが『政治家』は、この揉めを「言論の場」で処理するというより、「技術の上位性」で処理しようとする。
『政治家』は政治家の知を、命令する技術(指揮・統括)と命令されて働く技術(補助・実行)に分け、政治家を前者の頂点に置く。大工は家づくりの専門家である。軍人は戦いの専門家である。裁判官は裁きの専門家である。教育者は教育の専門家である。商人は取引の専門家である。政治家は、そのすべてを必要なときに必要なだけ適切に組み合わせて使う。つまり政治家の技術は、他の技術を素材として扱う技術である。ここが「司令塔」の気味悪さでもあり、同時に魅力でもある。政治家は万能の職人ではない。万能の指揮者である。万能の指揮者は、最初から「言論」を鬱陶しく感じる誘惑を持つ。なぜなら、言論は指揮の妨げになるからである。
そして『政治家』の核心は、尺度(メトロン)と時機(カイロス)にある、と整理された。大工の技術は設計、寸法、材料、工程といった形で、一定程度マニュアル化しやすい。政治は状況が動く。単純なマニュアルに落ちにくい。だから政治家は、尺度を扱い、適切な時を掴む知の持ち主として描かれる。ここで法律が出てくる。法律は固定化された一般ルールである。一般ルールは状況の多様さに追いつけない。だから法律は次善に落ち、真の政治家は状況に応じてその場の正しさを見抜く知を持つ。ここで読者が混乱するのは当然である。法律いらないのか、という反発が起きる。しかし『政治家』はその反発を起点にしてさらに進む。政治家の仕事は単に命令することではない。織物である。
織物の比喩は見事である。政治家は市民の中にある剛(勇敢・強さ)と柔(節度・穏やかさ)のような相反しがちな気質を、片方を潰さずに一枚の布に織り上げる。大工は木材を組み立てる。政治家は人間の徳・気質・教育・制度を組み合わせる。この比喩の美しさが、同時に私の背筋を冷やした。布を織る者にとって、布を破る言葉はノイズである。ほつれを増やす風刺は攪乱である。異議は摩擦である。政治が織物である限り、言論は管理対象になる誘惑を持つ。私はここで、プラトンの政治概念が「討議の場」から「技術の領域」へ移動しているのを感じた。
私はこの感触を抱えたまま、ポパーのプラトン批判を思い出した。私は最初、ポパーのプラトン批判を「支配者をよしとする構想がヒトラーのナチスと類似しているのか」と雑に問うてしまった。これは自分が一番嫌う問いの立て方である。固有名詞で閉じ、道徳的レッテルで閉じ、思考を終わらせる。だが返ってきた答えは、単純な同一視ではなく、危険な類型としての類似であった。プラトン(とくに『国家』に代表される政治構想)を、開かれた社会の敵=全体主義へ向かう古典的モデルとして批判した。近代の全体主義(ナチズムやスターリニズム)にも似た思想の型が働くと見た。つまりプラトンがナチスの直接の原因だと言いたいのではなく、反批判・反個人・全体優先・支配者エリート・設計図政治という型が繰り返し現れうる、という警告である。
私はここで「後者」と答えた。危険な類型として似ている、の後者である。だがすぐに別の疑問が湧いた。プラトン『政治家』ではソクラテスはほとんど聞き手である。なぜポパーは『開かれた社会とその敵』の中で『政治家』を挙げたのか。ここで私は「フィクション/ノンフィクション」問題にぶつかった。プラトンの対話篇はフィクションなのかノンフィクションなのか。どうやって判定するのか。あるいは判定してきたのか。
答えは冷徹である。白黒はっきりは決めない。対話篇にはジャンル宣言がない。本人が作者として前に出てこない。だから学界は判定ではなく、どの程度まで歴史資料として扱えるかを見積もる。場面設定や会話の逐語は創作が混じる前提で読む。当時の空気や論争の型はある程度反映されうるが誇張や構成もありうる。哲学的主張(論証の骨格)が主戦場であり、誰が言ったかより何が論じられているかを読む。
この方針は分かる。しかし私はそれでも反発した。聞いてばかりの『政治家』を批判の根拠に出すのは学術的に弱いのではないか。単なる創作であれば、あれはプラトンの主張というより、ただの政治家をめぐる対談という名の小説になるのではないか。ここで私は、学術の作法と、読者の感覚のズレをまざまざと見た。学術はテクストを「哲学的装置」として読む。読者はテクストを「作者の告白」として読みたがる。読者が作者の告白として読むほど、話者がソクラテスでないことが気になり、創作性が気になり、根拠の弱さが気になる。学術はそこを割り切る。創作(形式)と主張(内容)を分離する。文学的に作られた哲学である以上、議論の配置自体が作者の責任である、と。
この割り切りに私は納得しつつも、別の不満が残った。納得はできる。しかし刺さらない。そこで提示された危険は分かる。しかし私が『政治家』で気になっているのは、危険よりも「技術の冷たさ」である。尺度と時機と配合。言論ではなく運用としての政治。ここをポパーの制度設計の物差しで殴られても、手触りが噛み合わない。私はこの噛み合わなさを、単なる気分ではなく、問題意識として扱いたくなった。
そこで私は自分に問うた。開かれた社会とは、何が開かれている社会なのか。私は迷わず答えた。間違いなく言論である。だが言論という答えは、すぐに分解を要求する。何でも言える自由(A)か。誤りを批判できる自由(B)か。権力を笑える自由(C)か。私はここで、現代の空気の中でAとBが痩せていることを告白せざるをえなかった。何でも言いたいが、いまは「限度というものがある」「ハラスメントだよ」と言われる時代である。Aは縮む。Bも弱い。反論や検証の自由は、空気の判定に負けやすい。消去法で残るのがCである。権力を笑える自由。風刺と異議申し立ての自由。
この消去法は、私にとって単なる政治的立場表明ではない。読書の帰結である。プラトンを読むと、言論が危険な力として現れる。ポパーを読むと、批判可能性が制度の生命線として現れる。現代の空気を見ると、正しいことを言う自由と検証する自由が痩せ、最後に残るのが笑いの自由であるように見える。笑いは論証ではない。だが笑いは権力の神聖さを剥がす。笑いは「この王は裸だ」と言う別様の方法である。言論の自由が痩せたときに最後に残る骨が風刺である、という直感は政治史的にも珍しくない。
ところがここで、プラトンは容赦なく立ち塞がる。Cこそ、プラトンがいちばん嫌うタイプの言論である。プラトンは言論を真理に近づく道としても使うが、政治的にはしばしば大衆の情念に火をつけ、権威を空洞化させ、共同体の節度を崩す方向に働くと警戒する。『国家』で詩人が追放され、『ゴルギアス』で弁論術が批判されるとき、そこには「笑い・拍手・快」が真理や正義を圧倒する現象への恐れがある。権力を笑える社会は、正義も笑い殺される、という直観である。
『政治家』の技術モデルは、このCを制度的に弱める。政治がテクネーである限り、風刺は批判ではなくノイズになる。笑いは監視ではなく攪乱になる。異議は公共性ではなくほつれになる。政治家の仕事が織物=共同体の布を破らないことになるほど、ほつれを増やす言葉は排除されやすい。ここにポパーが嫌う型が見える。言論の自由が政治を監視する刃ではなく、政治が管理すべき刺激物になってしまう。
一方で、ポパーはまさにCの制度化を最重視する、と私は理解した。権力はだいたい腐る。だから良い王を期待するな。腐った権力を笑い、批判し、引きずり下ろす回路を残せ。政治の善は人格ではなく、その回路(制度と文化)で守れ。こう翻訳すると、ポパーの吠え声は単なるレッテル貼りではなく、言論の回路を守るための荒い言い方として理解できる。
しかし私はそこで安住できない。Cにも落とし穴がある。笑いは権力を監視もするが、あらゆる権威の解体を快楽として加速させ、結果として誰も真面目に責任を取らない世界を作りうる。現代的に言えば、シニシズム(全部茶番)と嘲笑の無限ループである。批判のつもりが無力化になる。怒りのつもりが消費になる。だからプラトンは笑えることを公共善として置きにくい。私はこのプラトン的反論も捨てられない。
この両義性の中で、私は自分の背骨を再確認する。閉じれるなら閉じてみなさい。閉じるなら撤回条件を埋め込め。吠えるなら解毒せよ。正義は吠える。吠えなければ届かない現実がある。しかし吠え声は撤回不能な閉じへ滑りやすい。だから吠え声の内部に撤回条件を埋め込みたい。意図断定、人格史、多声性切断――これらを使わずに告発できない場面があるとしても、使うなら使用条件と撤回条件を明示したい。ファクト/解釈/レトリックの三層を混ぜない。混ぜると、ファクトが持つべき冷たさが失われ、解釈が持つべき暫定性が消え、レトリックが持つべき自覚が霧散する。正義の吠え声が断罪の快楽へ滑る。
ここで私は、昨日読んだムーアとケインズを接続させる。ムーアの核心は善の定義不可能性である。善は黄と同じで、他の属性で説明してもなお「それは善なのか」という問いが残る。善を快や美や洗練で定義しようとしても、善かどうかを問う余地が消えない。だから善は定義不能である。ムーアは他の属性で善を定義しようとする試みを自然主義の誤謬と呼ぶ。私はこの議論を直感の権威としてではなく、問いが残る構造として借りたい。問いが残るということは、撤回可能性が残るということだ。定義が閉じないということは、撤回の余白が残るということだ。
私はムーアを読んで、閉じれるなら閉じてみなさい、と自分の合言葉をもう一度思い出した。善を快に閉じれるか。美に閉じれるか。経済的効率に閉じれるか。閉じたつもりでも問いが残るなら、その閉じは擬似的であり、擬似的な閉じは吠え声へ転化しやすい。これは政治にも当てはまる。言論の自由を「何でも言える」に閉じれるか。言論の自由を「ハラスメントの排除」に閉じれるか。言論の自由を「安全」に閉じれるか。閉じたつもりでも問いが残る。問いが残るなら撤回条件を設計しなければならない。
ケインズの伝記で私が掴んだのは理論ではなく品性であった。ケインズ家には美的感覚を刺激するような品物は何もなかった、という一文は、生活の貧素さというより価値がモノに寄生していないことを示すように見えた。価値は置物に宿るのではなく、判断の仕方、語り方、関係の結び方に宿る。私はここで言葉のコストというテーマに戻る。強い言葉は安い。強い言葉は一瞬で場を支配する。だが強い言葉は後で撤回するときに高くつく。撤回のコストを払う覚悟がないなら、強い言葉は暴力になる。言葉を使うということは、未来の訂正可能性に借金をすることである。借金を踏み倒す言葉が増えると公共圏は信用を失う。
イートンの描写も、形式と内容のズレという私の関心に接続した。自分の好きなことを好きに行っていいし好きなことを考えていいが、服装や礼儀といった形式的なことだけみんなに従う必要がある、という場所。内容の自由を担保するために形式が共同体の膜として働く。この構造は魅力的である。だが形式が目的化すると、内容は形式に合わせて自動整形され、多声性が削がれ、意図が一本化され、人格史が固定される。つまり形式はいつでも吠え声の発生装置になりうる。ハラスメントという言葉が形式として機能するとき、内容の自由を守る膜にもなれば、内容を矯正する檻にもなる。形式の採用には撤回条件が必要である。
私はポランニーから、骨格→例外の二段閉じという構造を借りている。骨格として原理が置かれ、例外として運用が足される。二段閉じは強い。骨格だけなら抽象であり、例外だけなら場当たりである。骨格と例外を二段で閉じると制度はしなやかに見える。しかし例外が常態化すれば骨格は看板になり、例外が本体になる。手段が目的化する。ここで私は意味、時は金なり、手段の目的化という束をまとめて持つ。意味は運用の中で変形する。時間は金になるが、その換算が人間の行為を再編する。手段は手段のままではいられず、手段として設計されたものが目的として崇拝される。この崇拝が始まった瞬間、倫理は形式へ吸い込まれる。
私はこの吸い込みに対して、ニーチェ問題という警報を鳴らす。理性が王様化するとき、理性は自分の暴力性を見えなくする。合理性の名のもとに撤回不能な閉じが正当化される。反全体主義がいつの間にか理性の王政になってしまう危険がある。私は理性を捨てたいのではない。理性の王様化を止めたいのである。止めるために必要なのは、理性の外部から殴ることではなく、理性そのものに撤回条件を埋め込むことである。
そこで私は可逆性を絶対正義として据える、と言ってしまった。だがここでいう可逆性は、何でもやり直せるという楽観ではない。可逆性とは、撤回条件が明示され、撤回手続きが設計され、撤回が恥ではなく運用として扱われる状態である。尺度(メトロン)と撤回条件を背骨にして立てたい。尺度とは、何をどこまで許し何をどこから禁じるのか、その境界を測る道具である。撤回条件とは、境界の測り方が間違っていたと分かったときにどのように引き返すか、その通路である。
ここまで来ると、私は「政治家」という語を別の角度で扱いたくなる。政治家とは単に決断する人ではない。政治家とは吠え声の解毒と撤回の通路探索である。吠え声とは正義の名で相手を閉じ切る言葉である。解毒とは正義を弱めることではなく、正義が暴力に変質する成分を取り除くことである。撤回の通路探索とは、決断のあとに引き返せる道筋を公共圏に確保することである。政治家は撤回不能な閉じを増やす人ではなく、撤回可能な閉じを増やす人であるべきだ。
ここで私はようやく、『政治家』を読み終えたのに分からない、という事実を別の位置づけで扱えるようになった。分からないことを恥として閉じるのではなく、撤回可能なまま残す。『政治家』の長い前置き、分割と分類と名の付け方の手続きは、政治を語るための閉じ方そのものを解体し、再組立てし、耐久試験にかける準備運動だったのだ、と私はようやく感じはじめた。政治について本質を語りはじめた瞬間、前置きの意味が遅れて体に入ってくる。定義したい欲望をいったん無力化する。言い切りたい欲望をいったん止める。そのうえで、なお政治を語らねばならないという苦い覚悟へ戻ってくる。これは私の背骨と相性がよい。
私は今日、読むのをあとちょっとで止め、五十分ほど走った。走るという行為は哲学の外側にあるようでいて、実は内側にある。走るとき、私は思考の吠え声が減る。言い切りたい衝動が減る。理性の王様化が息切れとともに静まる。身体が先に結論を出す。「今日はここまででいい」と。私はこの「ここまででいい」を怠惰と呼びたくない。むしろ撤回条件の感覚として扱いたい。読むことにも撤回条件が要る。全部を一気に閉じようとすると理解は暴力になる。理解は相手(テクスト)を自分の枠に押し込める。押し込めた理解は撤回しにくい。だから読むことにも折り返し地点を置く。走ることは折り返し地点を身体で刻む。
そして私は今日、『スーパーインテリジェンス』という本をほんの少し読んだ。ChatGPTが大きく台頭する前に書かれた本である。私はAIをめぐる言説がコロコロ変わるかどうか見極めるために、この本を読む。流行語としてのAI論ではなく、構造としてのAI論がどれほど耐久性を持つかを確かめたいからである。ここで不思議な循環が起きる。プラトンの抽象で閉じられない経験をした後だと、AI本の説明が異様に頭に入ってくる。難易度が下がったから入るのではない。閉じられない経験をした後だと、閉じやすい文章が閉じるための部品をそのまま手渡してくれる。私はここに、現代の知の速度の問題を見る。
いまAIが台頭してくると、AIのことを考えずにはいられない。私はバックオフィスの人間である。バックオフィスは相対的に代替される確率が高い。だから私はAIには絶対にできないバックオフィスの領域を日々模索している。ここで私は、妙な循環に気づく。私はポパーの吠え声を批判し、閉じの撤回条件を求め、政治家を撤回の通路探索として導入し、プラトンの抽象を閉じ方の監査として読む訓練をしている。その訓練が結局、私の仕事の未来を考える筋肉にもなっている。
なぜか。バックオフィスとは制度の骨格と例外を扱う仕事である。骨格→例外の二段閉じは紙の上では整然としている。しかし現場は例外だらけである。例外を例外として処理しつつ、例外を常態化させない。例外が増えすぎたら骨格を見直す。骨格の見直しはコストが高いが、見直さなければ例外が本体になる。AIが得意なのは骨格の適用である。既知のルールを高速に適用する。既知のパターンを高速に分類する。既知の例外を既知として処理する。AIが苦手なのは、例外が例外であることの意味を測り直すこと、例外が骨格を侵食している兆候を嗅ぎ取ること、例外処理が倫理を破壊している地点を見つけることである。AIが苦手なのは撤回条件の設計である。AIは撤回するという行為を責任の引き受けとして感じない。撤回のコストを負う身体がない。撤回の恥と撤回の誇りを同時に引き受ける二重性がない。
ここで私は、ケインズ家の節制に戻る。節制は欲望の暴走に対する折り返し地点であった。私は節制を人格の美談ではなく、撤回の装置として読んだ。バックオフィスの世界にも同じ節制が要る。効率化の欲望、合理化の欲望、自動化の欲望――それらは正義を名乗る。時は金なり、という言葉が制度のあらゆる部分を再編する。だが効率化の欲望が王様化した瞬間、撤回不能な閉じが増える。撤回不能な閉じが増えると次に来るのは、閉じを守るための暴力である。私はポパー批判で見た構造がここでも再演されるのを感じる。
例えばAI導入という正義が吠える。「遅いのが悪い」「ムダが悪い」「人間のミスが悪い」「属人的判断が悪い」。これらは全て一理ある。だがこれらの正義が閉じとして制度化されると、別の非人道性の燃料になる。人は評価され、切り捨てられ、異議申し立ての余地を失う。ブラックボックスが増える。説明のコストが高くなる。説明のコストが高くなると説明は省略される。省略された説明の上で制度は淡々と人を選別する。ここで私は吠え声の毒を嗅ぐ。正義が正義のままに撤回不能な閉じへ滑り始める匂いである。
だから私は、AIに代替されないバックオフィスを模索するという自分の課題を、ただのサバイバル術として扱いたくない。撤回の技術として扱いたい。AI導入の是非を二択で閉じない。効率と倫理を形式的なセットで語らない。むしろファクト/解釈/レトリックの三層を混ぜないまま、何が起きているかを測り、どの解釈が妥当かを暫定し、どのレトリックが場を暴力化するかを監視する。バックオフィスの価値は、この監査の手続きに宿る。
そしてここで私は、プラトン『政治家』の長い前置きが、現代のバックオフィス問題にも刺さってくるのを感じる。政治の本質を語る前に、語り方を整備する。分割と分類の手続きを明示する。尺度(メトロン)を暗黙のままにしない。例外処理を例外処理として語る。これらはまさに制度が自動化されるほど必要になる。AIは分類が得意だ。だからこそ人間は分類の尺度を問わねばならない。AIは手続きが得意だ。だからこそ人間は手続きの撤回条件を設計せねばならない。AIは速度が得意だ。だからこそ人間は速度が生む飛躍を監視せねばならない。
私はこの話を職業防衛として語りたくない。政治の問題として語りたい。なぜならバックオフィスがAIに置き換えられていくという現象は、公共圏の閉じの設計そのものだからである。政治が技術化するほど、言論は管理対象になる。管理対象になった言論から最初に削られるのは風刺である。私は開かれた社会を言論として捉え、言論の核をC(権力を笑える自由)として掴み直した。すると、AI時代における言論の自由は、AでもBでもなく、まさにCの確保として再定義されるように見える。
だが私は同時に、Cの危うさも忘れたくない。風刺は監視の刃にもなるが、共同体を空洞化させる酸にもなる。笑いが権力を脱神聖化する瞬間、同時に責任も脱神聖化されてしまう危険がある。だから私は、Cを守ると言うとき、それを無制限の快楽としては扱いたくない。むしろCを守るために必要な尺度(メトロン)と撤回条件を設計したい。どこまでを風刺として許すのか。どこからを共同体の破壊として退けるのか。いったん退けたとして、どの条件が満たされたら撤回し、再び許すのか。撤回の手続きは何か。撤回のコストは誰が払うのか。誰が払うべきなのか。
私はここで、ポパーの吠え声へ戻る。私はポパーを否定したいのではない。私はポパーの正義を吠え声のままにしておきたくない。正義は吠える。吠える瞬間がある。吠えなければ届かない現実がある。しかし吠え声は撤回不能な閉じへ滑りやすい。だから私は吠え声の内部に撤回条件を埋め込みたい。意図断定、人格史、多声性切断――これらを使わずに告発できない場面があるとしても、それらを使うなら使用条件と撤回条件を明示したい。ファクト/解釈/レトリックの三層を混ぜない。骨格→例外の二段閉じを設計するときは、例外が常態化する兆候を監視する。時間と金の換算が人間を再編するとき、再編の尺度を問い直す。理性が王様化しそうになったら、理性に撤回の作法を思い出させる。
私はここまで書いて、ようやく「読み終えたが分からない」という『政治家』の読後感が、私の背骨の上に乗るのを感じる。『政治家』の難しさは、翻訳のせいでも読解力のせいでもない。むしろ、こちらの閉じ方が試験にかけられている。政治を討議として閉じたい私の欲望が、政治を技術として閉じるプラトンの装置によって揺さぶられている。言論を開放として閉じたい私の欲望が、言論を矯正として閉じたいプラトンの誘惑によって揺さぶられている。ポパーの吠え声によって「閉じることの倫理」を問う私の欲望が、プラトンの分類と尺度によって「閉じ方の手続き」を問う方向へ誘導されている。
私はいまの時代の空気の中で、AもBも痩せていくことを知っている。何でも言いたいが、限度というものがある、と言われる。反論したいが、ハラスメントだよ、と言われる。だから消去法でCを選ぶ。しかしCを選ぶだけでは足りない。Cを守る制度と文化を設計しなければならない。設計する以上、例外処理が必要になり、例外が常態化する危険が生まれる。危険が生まれる以上、撤回条件が必要になる。撤回条件を設計する以上、言葉のコストを引き受けなければならない。ここで私は、私自身の生活――走ること、折り返すこと、節制すること――が単なる趣味ではなく、撤回の筋肉を育てる訓練であったことに気づく。
私は結局のところ、『政治家』を「政治家の定義を与える本」として読みたいのではないのかもしれない。私は『政治家』を「定義したい欲望を止める本」として読むべきなのかもしれない。政治家を定義した瞬間に、定義は敵味方の線を引き、線を引いた瞬間に吠え声が出る。吠え声が出た瞬間に、撤回不能な閉じが生まれる。だから私は、政治家を定義する前に、政治家を語るための閉じ方そのものを監査する。分割と分類と尺度を監査する。撤回条件を監査する。言論の回路を監査する。風刺の刃が摩擦として削られていないか監査する。シニシズムの酸が共同体を溶かしていないか監査する。
私はこの読書日記を、今後「実地検証ログ」として増築していくつもりである。理解したふりで閉じないために、どの閉じが提示されているか、どの尺度が暗黙に置かれているか、どの撤回条件が可能か、例外処理がどのように語られるか、そしてその語りが吠え声へ変質しうるポイントはどこか、これだけを冷静に記録する。善が定義で閉じないなら、政治家もまた定義で閉じない。閉じないものを扱うのが政治であるなら、政治の技術とは撤回の技術である。
そして私は最後に、
つづきは
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