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日記
私はポパー『開かれた社会とその敵』を読みはじめたとき、いきなり“内容”以前のところで引っかかった。論証の筋でも、史料の多寡でもない。あの独特の語気、あの吠え方である。敵を名指しし、敵の内部を決めつけ、敵が世界に及ぼす害を一気に閉じ切る。その閉じ方が、私には強すぎるように感じられた。もちろん、全体主義の非人道性を前にして、慎重さが美徳だなどと言う気はない。暴力や迫害の歴史に向けては、冷淡な中立よりも告発の方が倫理的であることがある。だが、それでもなお、私はあの吠え声に対して、ただの好き嫌いではない種類の違和感を抱いた。違和感の正体は一つの問いに凝縮できる。
閉じれるなら閉じてみなさい、と。
この挑発は相手を侮るためではない。むしろ逆である。閉じることは力であり、力は倫理の最前線に出てくる。だからこそ私は、閉じる力に対して“強度テスト”をかけたいのである。閉じが閉じとして成立するなら、その閉じには撤回の道筋があるはずだ。撤回不能な閉じは、いつか必ず別の非人道性の燃料になる。閉じの正義を守るために、閉じに撤回条件を埋め込めるか――これが私の読書日記の背骨になった。
ポパーへの違和感を、私は三点に分解した。第一に意図断定である。ある思想家がこう言った、こう書いた、だから彼はこう意図したのだ、と。第二に人格史である。青年期はこう、交友はこう、出自はこう、だから彼の思想はこういう人格の産物だ、と。第三に多声性の切断である。著作の内部にある逡巡、矛盾、複数の語り口、時代による微妙な転回、それらを“敵”という一点に収束させる。私はこれらを、単なるレッテル貼りとは別のものとして見た。これらは、議論を成立させるための技法でもある。敵が敵として立ち上がるには、意図が一本化され、人格が固定され、多声性が削ぎ落とされる必要がある。つまりこれらは、議論の速度を上げるための閉じ方である。
問題は、速度が上がると、非人道性の告発と論理の飛躍が混線することである。私はこの混線をほどくために、一つの引用を足場に三層構造を立てた。「裏切りという事実」という言葉である。裏切りは“事実”らしく見えるが、事実そのものではない。そこで私は、ファクト/解釈/レトリックの三層に切り分けた。
ファクトとは、何が起きたかである。誰がいつどこで何をしたか、どの文書に何が書かれたか、どの制度がどのように運用されたか。解釈とは、それが何を意味するかである。裏切りと呼べるのか、妥協なのか、転向なのか、戦略なのか、文脈に照らしてどう読むのか。レトリックとは、それをどう裁く気分を作るかである。裏切りという語が呼び起こす怒り、嫌悪、侮蔑、あるいは連帯の熱。三層を混ぜると、ファクトが持つべき冷たさが失われ、解釈が持つべき暫定性が消え、レトリックが持つべき自覚が霧散する。その結果、正義の吠え声は、いつの間にか断罪の快楽へ滑る。
私はここで、非人道性の燃料と飛躍を切り分けたいと思った。非人道性を告発する燃料は必要である。だが飛躍は別である。飛躍は、相手を閉じ切った瞬間に“議論が終わった感”を与える。終わった感は麻薬である。終わった感が欲しくなると、撤回不能な閉じが増える。撤回不能な閉じが増えると、次に来るのは、閉じを守るための暴力である。私はこの連鎖が、全体主義批判の内部にも潜むと感じた。だから私は、閉じの力を捨てるのではなく、閉じの力を可逆化する方向へ読書を進めた。
このとき、ロックの「知性の改善」という言葉が私の背中を押した。知性とは、ただ正しい答えを出す装置ではない。知性とは、誤りを見つけ、誤りを訂正し、訂正の余地を残しつつ判断を進める習慣である。知性の改善とは、撤回の通路を増やすことである。ロック的なこの感触を、私は政治の領域に持ち込みたいと思った。政治は決断の領域であり、決断は閉じを伴う。しかし閉じを伴うからこそ、撤回が制度として必要になる。
ここで私は「言葉のコスト」というテーマに踏み込む。池田晶子の倫理の鋭さ、大前研一の現実への冷徹な接続――私は二人の書き手の違いを眺めながら、共通点として「言葉は無料ではない」という感覚を拾った。強い言葉は安い。強い言葉は一瞬で場を支配する。だが強い言葉は、後で撤回するときに高くつく。撤回のコストを払う覚悟がないなら、強い言葉は暴力になる。言葉を使うということは、未来の訂正可能性に借金をすることである。借金を踏み倒す言葉が増えると、公共圏は信用を失う。
この信用の問題に、ポランニーが金本位制の議論で与えてくれた骨格がある。私はポランニーを読みながら、「骨格→例外」の二段閉じという構造を見た。まず骨格として原理が置かれる。例えば通貨の価値を安定させるために金本位制が必要だ、という類の“骨格”である。次に例外として運用が足される。危機時には例外的に停止する、特例を設ける、暫定措置を講じる――こうした“例外”である。二段閉じは強い。骨格だけなら抽象であり、例外だけなら場当たりである。骨格と例外を二段で閉じると、制度はしなやかに見える。しかし危険も同じだけ増える。例外が常態化すれば、骨格は看板になり、例外が本体になる。手段が目的化する。ここで私は「意味」「時は金なり」「手段の目的化」という束をまとめて持った。意味は運用の中で変形する。時間は金になるが、金になるという言い回しが人間の行為を再編する。手段は手段のままではいられず、手段として設計されたものが目的として崇拝される。この崇拝が始まった瞬間、倫理は形式へ吸い込まれる。
私はこの吸い込みに対して、ニーチェ問題という警報を鳴らした。理性が王様化するとき、理性は自分の暴力性を見えなくする。合理性の名のもとに、撤回不能な閉じが正当化される。反全体主義が、いつの間にか“理性の王政”になってしまう危険がある。私はここで、理性を捨てたいのではなく、理性の王様化を止めたいのである。止めるために必要なのは、理性の外部から殴ることではなく、理性そのものに撤回条件を埋め込むことである。
そこで私は、可逆性を絶対正義として据えることにした。ここで言う可逆性は、何でもやり直せるという楽観ではない。可逆性とは、撤回条件が明示され、撤回手続きが設計され、撤回が恥ではなく運用として扱われる状態である。私はこの可逆性を、尺度(μέτρον)と撤回条件を背骨にして立てたいと思った。尺度とは、何をどこまで許し、何をどこから禁じるのか、その境界を測る道具である。撤回条件とは、境界の測り方が間違っていたと分かったときに、どのように引き返すか、その通路である。
ここまで来ると、私は「政治家」という語を別の角度で扱いたくなる。政治家とは、単に決断する人ではない。私は政治家を「吠え声の解毒」と「撤回の通路探索」として導入したい。吠え声とは、正義の名で相手を閉じ切る言葉である。解毒とは、正義を弱めることではなく、正義が暴力に変質する成分を取り除くことである。撤回の通路探索とは、決断のあとに引き返せる道筋を公共圏に確保することである。政治家は、撤回不能な閉じを増やす人ではなく、撤回可能な閉じを増やす人であるべきだ、と私は思う。
そして今日、私はG・E・ムーア『倫理学原理』の序文に触れ、ケインズの伝記をひたすら読み、プラトン『政治家』を序盤で見失った。見失ったという事実自体が、今の背骨にとって重要である。私は理解できない抽象に出会うと、つい“分かったふり”で閉じたくなる。だが分かったふりは撤回不能な閉じになりやすい。だから見失ったままにして、撤回可能性を確保する方が良い。
ムーアの核心は「善の定義不可能性」である。善は「黄」と同じで、他の属性で説明してもなお「それは善なのか?」という問いが残る。善を快や美や洗練で定義しようとすれば、善かどうかを問う余地が消えない。だから善は定義不能である。このときムーアは、善を別の属性で定義する試みを「自然主義の誤謬」と呼ぶ。私はこの議論を、自分の合言葉と重ねて読んだ。閉じれるなら閉じてみなさい、と。善を快に閉じれるか。美に閉じれるか。経済的効率に閉じれるか。閉じたつもりでも問いが残るなら、その閉じは擬似的であり、擬似的な閉じは吠え声へ転化しやすい。
一方で私は、ムーアの話が“神秘主義”に聞こえる誘惑も知っている。直感でしか識別できない善という言い方は、直感を王様にしてしまう危険がある。だから私はムーアから、直感の権威ではなく、問いが残るという構造そのものを借りたい。問いが残るということは、撤回可能性が残るということだ。定義が閉じないということは、撤回の余白が残るということだ。余白は弱さではない。余白は制度のしなやかさである。
ケインズの伝記の中で私が最初に掴んだのは、理論ではなく品性であった。「ケインズ家には、美的感覚を刺激するような品物は何もなかった」という一文は、生活の貧素さというより、価値がモノに依存していないことを示しているように見えた。価値は置物に宿るのではなく、判断の仕方、語り方、関係の結び方に宿る。私はここで、言葉のコストという自分のテーマに戻った。モノが飾り立てない分、生活の倫理は言葉と行為の連結として現れる。
イートンの描写も同じ筋に接続した。イートンとは「自分の好きなことを好きに行っていいし、好きなことを考えていいが、服装や礼儀といった形式的なことだけみんなに従う必要がある」場所だったという。内容の自由を担保するために、形式が共同体の膜として働く。この構造は、私がずっと気にしてきた「形式と内容のズレ」の原型である。形式は内容を守るための器にもなれば、内容を矯正する檻にもなる。形式が手段として働いているうちは良い。だが形式が目的化すると、内容は形式に合わせて自動整形され、多声性が削がれ、意図が一本化され、人格史が固定される。つまり形式は、いつでも吠え声の発生装置になりうる。
だからこそ私は、ケインズ家の節制に惚れた。人間は欲望に踊らされる。踊らされそうになると、どこかで克己心が働く。抑制すること、節制することが「義務」であるかのように捉えられている生活は、私にとって美談ではなく、撤回の通路として見えた。欲望の暴走に対して、生活の側が折り返し地点を先回りで置いている。節制は善そのものではない。節制を善と定義すれば、また自然主義の誤謬の誘惑が生まれる。だが節制は、善を壊さないための仮の器になりうる。善が定義で閉じないからこそ、生活は節制という形式で善を守ろうとする。私はここに、倫理を説教ではなく技術として扱う気配を感じた。
そして私は、ここで経済学と倫理学が融合して天才を生むという物語にしびれた。経済と倫理はセットで語られる。しかし往々にしてそれは形式的で不毛な語りになりやすい。倫理が“添え物”になり、経済が“現実”の名で全てを押し切る。だがケインズの周囲では、倫理が添え物ではなく、判断の筋肉になっている。ムーアという倫理学者を前にして、善が定義で閉じないという構造に触れ、その余白を抱えたまま、制度と実践の側へ降りていく。ここで倫理は、吠え声ではなく、撤回の通路として働く。
私はこの点で、ポパーから始まった違和感に一つの暫定的な解を得た気がする。全体主義を批判するために閉じは必要である。しかし閉じが撤回不能だと、閉じは別の非人道性を呼び込む。だから閉じには尺度と撤回条件が必要である。ムーアは善を定義できないと言うことで、閉じの限界を示し、問いが残る構造を差し出す。ポランニーは制度が骨格と例外の二段閉じで動くことを示し、例外が常態化する危険を警告する。ロックは知性の改善として撤回の習慣を要請する。ニーチェは理性の王様化を警報として鳴らす。ケインズ家の節制は、生活の中に撤回の折り返し地点を埋め込む。これらが一本の背骨で繋がる。
すると私の“政治家”像も輪郭を得る。政治家とは、道徳を振りかざして他者を縛る人ではない。政治家とは、撤回不能な閉じを増やして支持を集める人でもない。政治家とは、吠え声の毒を抜き、撤回の通路を公共圏に確保し、例外が常態化しないよう尺度を保ち、手段が目的化しないように設計し、しかもその設計が誤っていたら撤回できるようにする人である。これは理想論ではなく、技術論である。
ではプラトン『政治家』はどこに位置づくのか。正直に言えば、私は今日、序盤しか読めず、抽象が抽象のまま漂って理解できなかった。だが、この“理解できない”という感触を、私は撤回可能なまま残しておきたい。なぜなら、分割と分類と尺度という語が出てくるとき、そこにはいつも「閉じ」が潜むからである。閉じが潜むところには、必ず撤回条件が必要になる。私は『政治家』を、すぐに理解するためではなく、閉じ方を監査するために読むことができる。
そこで私は今後、『政治家』を読むたびに“実地検証ログ”としてこの読書日記の後半を増築するつもりである。ログでは、理解したふりをしない。むしろ毎回、どの閉じが提示されているか、どの尺度が暗黙に置かれているか、どの撤回条件が可能か、例外処理がどのように語られるか、そしてその語りが吠え声へ変質しうるポイントはどこか、これだけを冷静に記録する。善が定義で閉じないなら、政治家もまた定義で閉じない。閉じないものを扱うのが政治であるなら、政治の技術とは撤回の技術である。
私はここで、もう一度ポパーに戻る。私はポパーを否定したいのではない。私はポパーの正義を、吠え声のままにしておきたくない。正義は吠える。吠える瞬間がある。吠えなければ届かない現実がある。しかし吠え声は、撤回不能な閉じへ滑りやすい。だから私は、吠え声の内部に撤回条件を埋め込みたい。意図断定、人格史、多声性切断――これらを使わずに告発できない場面があるとしても、それらを使うなら、その使用条件と撤回条件を明示したい。ファクト/解釈/レトリックの三層を混ぜない。骨格→例外の二段閉じを設計するときは、例外が常態化する兆候を監視する。時間と金の換算が人間を再編するとき、再編の尺度を問い直す。理性が王様化しそうになったら、理性に撤回の作法を思い出させる。これらは全て、可逆性という背骨にぶら下がる。
ケインズ家の節制に私が惚れたのは、節制が人格の美談として語られるからではない。節制が、欲望の暴走に対する撤回の折り返し地点として生活に埋め込まれているように見えたからである。欲望に支配されそうになるとき、人はどこかで自分を引き戻す。その引き戻しが“義務のように”感じられるとき、それは自由を奪う鎖にもなりうるが、自由を守る膜にもなりうる。形式は内容を守ることがある。だが形式は内容を殺すこともある。私はこの両義性を忘れたくない。
だから私は今、次の問いを自分に返す。私は可逆性を絶対正義として据えたが、その可逆性自体が“王様”になってしまったらどうするのか。可逆性の名のもとに、決断を先送りし、責任を薄め、いつでも撤回できると言いながら誰も撤回のコストを払わない社会へ滑る危険はないのか。撤回の通路を確保するとは、撤回の安売りではない。撤回の条件を明示し、撤回のコストを引き受け、撤回を恥ではなく運用として扱い、そして撤回した後に次の尺度を立て直すことである。
政治家とは、吠え声を封じる人ではない。吠え声の毒を抜き、吠え声が必要な場面では必要な強度で吠え、吠えた後に撤回の通路を開けておく人である。私はその技術を、プラトン『政治家』の抽象の中から、少しずつ拾い直していきたい。今日の私は序盤で迷子になったが、迷子であること自体を撤回可能なまま残し、分かったふりという閉じを避けることで、すでに一つの政治的訓練をしているのかもしれない。
――ここから後半は、私が『政治家』を読み進めるたびに増築していく“実地検証ログ”である。理解したふりで閉じないために、まず原文引用を起点として、ファクト/解釈/レトリックの混線を避け、閉じ方(定義・分類・尺度)と撤回条件だけを淡々と記録する。
■ 引用1(環境=価値の置き方) 「ケインズ家には、美的感覚を刺激するような品物は何もなかった。」(P65) 私はこの一文を、生活の貧しさではなく“価値がモノに寄生していない”という設計として受け取った。飾り立てられた品がない分、価値は判断・言葉・関係の結び方に宿る。言葉のコストを引き受ける生活、撤回のコストを織り込む生活――そうした方向へ、倫理が添え物ではなく背骨として入り込む余地がある。
■ 引用2(形式=自由を守る膜/ただし目的化の危険) 「あるイートン卒業生が語ったように、イートンとは『自分の好きなことを好きに行っていいし、好きなことを考えていいが、服装や礼儀といった形式的なことだけみんなに従う必要がある』場所だった。」(P85) 内容の自由を許すために形式が共同体の膜になる、という構図がここにある。私はここに、形式の両義性を見た。形式は内容を守る器にもなるが、
つづきは
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