以下の内容はhttps://nainaiteiyan.hatenablog.com/entry/2026/02/20/233457より取得しました。


読書日記2074

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日記

一日が経ち、私は「それやる意味ある?」という何気ない言葉の中に、妙に重たいものが沈んでいることを考え続けた。考え続けたというより、生活のあちこちでその言葉が反響した、というほうが近い。職場でも、SNSでも、雑談でも、そして自分の脳内でも、「それやる意味ある?」は軽い顔で出入りする。しかし、その軽さの裏に、二重の刃が隠れている。私はその刃が、最近読んできた諸々の本——ポパー、プラトン、ロック、池田晶子、ポランニー、そして「ビジネスって感じ」の混乱——のどれとも地続きに繋がっていることに気づいた。

「それやる意味ある?」には、少なくとも二つの意味が潜んでいる。第一は「それやる価値ある?」であり、日常語に翻訳すれば「それ金になる?」である。第二は「それやる必要ある?」であり、日常語に翻訳すれば「それは目的にかなっている?」である。この二つは似ているようで違う。第一は外在的価値の問いであり、第二は手段合理性の問いである。

第一の「それ金になる?」は、交換可能性の匂いを持つ。ここで問われているのは、行為が外の世界でどれだけ換金できるか、評価されるか、承認されるか、ということである。金銭だけではない。地位、信用、評判、評価、フォロワー、査定、実績といった外在的な尺度が含まれる。だからこの問いは、いわば世界の市場化である。行為が市場に上場され、評価され、価格がつけられる。

第二の「目的にかなっている?」は、いわば設計の問いである。目的があり、その目的に照らして手段が適切かどうかを問う。長期目標やプロジェクト、日々の業務改善など、合理性が必要な場面では確かに有効である。無駄を排し、回り道を避け、行為を目的へ向けて整列させる。これは社会を回すための知性でもある。

しかし、この二つの問いには共通の癖がある。それは「意味」を外から測ろうとする癖である。外在的価値の問いも、手段合理性の問いも、行為の意味を行為の外側から決める。価値は外にあり、目的も外にある。行為はその外に向けて測られ、点数化され、合格不合格が決まる。ここで私は、第三の層を置かねばならないと思った。つまり内在的価値である。

内在的価値とは、それ自体が目的である、という価値である。やっている最中に価値があり、やり終えた後に外へ持ち出して換金する必要がない。読書や思索、散歩、走ること、書くこと、祈ること、ただ静かに座っていること。これらは外から見れば役に立たないかもしれない。だが、それ自体に意味がある。意味があるというより、意味の源泉である。ここで「それやる意味ある?」と問われたとき、私は「ある」と答えることができる。しかしその「ある」は、金になるからでも、目標にかなうからでもない。行為が生の中心に食い込んでいるからである。

ここまで書いて、私は自分の中にもう一つの気配を感じる。「それやる意味ある?」は、単なる質問ではない場合がある。評価の質問というより、評価権の宣言になりやすい。つまり「意味がある/ない」を判定できる側に自分を置く。相手の行為を、相手の目的ではなく自分の尺度で裁く。その裁きの権限を奪おうとする。だからこの言葉は、ときどき政治的である。会議で、家庭で、SNSで、そして自分自身に対してさえ。「意味があるのか」と問う者が、意味を配分する権力を握る。この権力性が、私の耳には「吠え声」に近く聞こえる。

私は最近、ポパーを読みながら「吠えている」という違和感を抱いた。吠え声の具体は、断定語尾やラベルの圧縮で相手を縮め、縮んだ相手に向けて断罪することだった。判決、断罪、摘発。「唯一の論拠」「同一視している」「まだ〜の影響下にあった」。こういう短句は便利である。便利すぎる。便利すぎる言葉は論点を運ぶのではなく、論点を圧縮する。圧縮された論点は敵と味方を作る。私はその圧縮が嫌である。

「それやる意味ある?」も同じ構造を持ちうる。意味がない、と言った瞬間に相手は縮む。縮んだ相手に向けて、合理性の名で、効率の名で、価値の名で、行為を止めさせることができる。だから私は、この言葉に対しては、反射的に問い返したくなる。問うているのは価値なのか、必要性なのか、それとも評価権なのか、と。

ここで私は、古い格言に戻る。「時は金なり」である。これもまた、聞き慣れた言葉が、二重の刃を持っている例である。「時は金なり」は、手段としての時間——労働時間、業務時間、拘束時間——においては直球で当てはまる。時給、単価、生産性という指標で時間は金に換算される。ここで時間は交換可能である。交換可能であるから効率化が善になる。

しかし「時は金なり」を「時間=金に換算できる」とだけ理解すると、浅い。より正確には、時間は機会費用である。つまり、ある選択肢を選ぶことは、他の選択肢を捨てることであり、その捨てた可能性のコストが時間に宿る。読書の一時間は金にならなくても、別のことをしなかったという意味で機会費用は発生する。だが、機会費用があることは、意味がないことの証明にはならない。交換可能に見えるからといって、交換すべきとは限らない。

この点で、「時は金なり」は結局、それが目的なのか手段なのかに依存する、と私は考える。いや、依存するというより、文脈が時間をどう位置づけるかによって相対化される。時間が外在的価値の獲得に向けられるとき、時間は金に近づく。時間が内在的価値の生成に向けられるとき、時間は金から離れる。時間が離れるというより、金のほうが時間の副産物になる。

ここから今日の核心へ進む。私はさらに考えた。つまり、手段が目的化する、とはつまるところ経済的意味から人間性への回帰である——この一文を、自分の中で何度も転がしてみた。そして気づいた。私はこの一文を、そのまま言い切ることに少しだけ躊躇がある。なぜなら、一般に「手段の目的化」は、人間性への回帰ではなく、人間性からの逸脱として起こることが多いからである。

手段の目的化とは、本来の目的Aのための手段Bが、いつの間にかBそのものが目的になってしまう現象である。会議のための会議、報告のための報告、書類のための書類、チェックのためのチェック、KPIのためのKPI。これらは、目的が消え、手段が主人になる。人間は手段の召使いになる。ここでは、経済合理性はむしろ強化される。効率という名の管理が増え、人間性は削られる。だから、手段の目的化=回帰、ではない。

しかし私は同時に、こうも思う。手段の目的化が露呈した瞬間、人は初めて気づく。「私はいま何のために生きているのか」と。逸脱が極まったとき、回帰の契機が生まれる。だから私の一文は、次のように閉じ直すべきである。手段が目的化する状況を、人間性への回帰の契機に変える、である。

この閉じ直しは、私の最近の読書の筋と一致する。私は「閉じれるものなら閉じてみなさい」という態度を好む。閉じるとは断罪ではない。定義し、設計し、運用し、例外に耐え、撤回可能性まで含めて責任を発生させることである。手段が目的化した状況に対して、私がやるべき閉じは、手段を捨てることではなく、手段を目的に従属させ直す設計である。KPIを廃止するのではない。KPIを目的の従属物に戻す。ルールを捨てるのではない。ルールを目的の可逆的な道具に戻す。これが回帰である。

ここで「経済的意味から人間性への回帰」という言葉が、私の中で別の色を帯びる。経済を否定することではない。経済を人間性に奉仕させる配置転換である。価値を捨てるのではない。価値の配分権を問い直す。必要性を否定するのではない。必要性が誰の目的に対して語られているかを問い直す。

私は「それやる意味ある?」という言葉を、二つの刃として見た。価値と必要性。しかし、手段の目的化を考えると、ここに第三の問いが必要になる。つまり「それは誰の目的を増やすのか」である。価値は誰に帰属するのか。必要性は誰の目標に対する必要性なのか。手段が目的化した世界では、目的はしばしば主体を失う。主体を失った目的は、制度の目的になる。制度の目的は、人間を手段にする。

ここで私はカントの言葉を借りたくなる。人間を手段としてのみ扱ってはならない、というあの倫理である。だが、私はカントの引用で話を閉じたくない。引用は便利であり、便利すぎる言葉は教養を削る。教養とは、言葉にコストを払うことである。だから私は、自分の生活の具体へ戻る。

手段が目的化する場面は、日常にいくらでもある。例えば、仕事の効率化の名のもとに、効率化を証明するための報告が増え、効率化のためのツール導入が増え、結局現場の自由度が減っていく。例えば、健康のための運動が、運動記録の数字を増やすための運動になり、数字が増えない日は罪悪感だけが残る。例えば、読書が、読んだ冊数のための読書になり、冊数が増えても知性が改善しない。私はこういう逸脱を、自分にも見つける。

だから私は回帰を、情緒的な言葉ではなく、設計として扱いたい。手段を目的に従属させ直す設計。これは、私が最近ポランニーの金本位制をAI先生の講義で学んだときの感触にも似ている。金本位制は「通貨の信用」を守るための装置だが、その装置が社会の痛みを拡大しうる。装置が主人になる。主人になった装置を、人間の目的に従属させ直す。制度を捨てるのではなく、制度の優先順位を組み替える。ここにも同型がある。

そして私は、ロックの一文に戻る。「読書は知性を改善するためのものである。」知性の改善とは、断言を増やすことではない。断言の仕方を改善することである。断言できるところは断言し、断言できないところは断言しない。断言するなら条件を付け、例外を扱い、撤回可能性まで含めて閉じる。私は今日、自分の「手段が目的化する=回帰」という一文を、そのまま断言するのではなく、条件と媒介を付けて閉じ直した。これは小さな改善である。

ここまで考えて、私は「意味」という言葉そのものが、かなり危険な言葉であると感じる。意味は、外在的価値と手段合理性を一つの語に押し込める。意味がある、と言えば、価値も必要性も同時に肯定したような顔をする。意味がない、と言えば、価値も必要性も同時に否定したような顔をする。この一語の圧縮が、議論を短絡させる。短絡は気持ちよい。気持ちよい断罪は知性を改善しない。

だから、私が「それやる意味ある?」に出会ったときにしたいことは、まず分解である。価値の問いか、必要性の問いか、評価権の問いか。次に配置である。手段は目的に奉仕しているか、目的は主体を持っているか。最後に回帰である。回帰とは、手段を捨てることではなく、手段を目的の内部へ戻すことである。内在的価値の世界を回復することである。

私はこの回帰を、読書と結びつけたい。読書は外在的価値の獲得のためにも使える。資格、昇進、知識、話題。読書は手段合理性のためにも使える。問題解決、企画、実務。しかし読書には、内在的価値がある。読むことそのものが、思考の筋肉をつくり、言葉のコスト感覚を鍛え、断言の仕方を改善する。ここで読書は、目的の内部にある手段になる。手段でありながら目的である。私はこの矛盾を、矛盾として抱えたい。

ここで私は、以前の自分の混乱を思い出す。「ビジネスって感じ」の一日で、言葉が軽いと感じ、教養の匂いが薄いと感じた。あの苛立ちは、結局「言葉のコスト」への苛立ちだった。便利すぎる言葉は、手段の目的化を促す。偉大、改革、成長、正しい。こういう語が安く流通すると、語そのものが目的になる。言葉の目的化である。言葉が目的化した世界では、現実が言葉に合わせて削られる。人間性も削られる。

だから私は、今日の結論を急がない。私はまた一日が経ったことを記録し、今日考えたことを、読書日記として保存しておく。保存するとは、閉じることである。閉じるとは、仮の足場を作ることである。足場を作れば、後で別の本と接続できる。別の経験と接続できる。

では私は次に何を閉じるべきなのだろうか。

 

つづきは

codoc.jp




以上の内容はhttps://nainaiteiyan.hatenablog.com/entry/2026/02/20/233457より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14