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読書日記2072

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日記

 

一日が経った。私は『開かれた社会とその敵 第一巻 下』を読み進め、同じ日に大前研一『「知の衰退」からいかに脱却するか?』も読んだ。読後感を一言で言えば、頭の中が「ビジネスって感じ」になって、わけがわからなくなった日である。だが、わけがわからないというのは、単に疲れたという意味ではない。私が信じていた批判の作法、教養の像、知性の重さのようなものが、いくつか別々の方向へ引っ張られて、きれいにほどけないまま、糸が絡まった状態になった、ということである。

まずポパーである。下巻に入っても、私の「吠え声」への違和感は消えなかった。それどころか、プラトン批判が強烈すぎて、「いや、これポパーはウソついてないか?」とさえ思ってしまったほどである。ここでいう「ウソ」とは、事実関係の捏造というより、読解の仕方、引用の切り取り方、強調の癖が、あまりに検察官的で、対話篇という形式の繊細さを踏みつぶしているのではないか、という疑いである。

私は以前から、ポパーの批判が「閉じている」というより「吠えている」と感じていた。上巻では、その吠え声の具体として、意図断定、人格史で裁くこと、対話篇の多声性を潰すこと、という三点を挙げた。下巻を読んで、その三点はむしろ固くなった。ポパーは、プラトンがこう企てた、こうすり替えた、こうして閉じた社会の祖型を作った、と言いたげな口調を崩さない。プラトンの内面へ滑り込み、意図を確定し、そこから罪状を組み立てていく。その勢いが増せば増すほど、私は逆に、歴史学の土俵へ引きずり出して裁きたくなる。

「プラトンがヒトラーを生んだ元凶である」という言い方を、ポパーが厳密にどこまで言っているかは、文脈の取り方にもよる。しかし、私の耳には、今日もその含意が聞こえてしまう。聞こえてしまう以上、私は問う。「因果関係あるわけないし、どうやってその因果関係を証明せよ」と。もし因果を言うなら、媒介を示せ。誰がどのようにプラトンを受け取り、それがどの制度や運動へ変換され、どの段階で近代の全体主義へ接続したのか。伝播経路を閉じよ。反事実に耐えよ。代替要因と切り分けよ。固有の寄与を示せ。私はそう要求したくなる。閉じれるものなら閉じてみなさい、という私のスタンスは、今日もここで立ち上がる。

ただ、今日の読書では、もう一つ別の違和感が加わった。ポパーのプラトン批判が強烈すぎると感じた一方で、私はプラトンの側にも、素直にうなずけない点を見つけてしまったからである。たとえば「哲人が永遠に一国を支配し続ける」という構想は、教育の観点から難しそうだ、という感覚である。

ここで私が言う「教育の観点」とは、単に学校教育の制度の話ではない。人間が次の世代へ知や徳を継承するという問題である。哲人とは、ただ賢い人ではなく、政治を導くに足る知を備えた人である。だが、その知はどこから来るのか。どのように養われ、どのように保証され、どのように次の哲人へ継承されるのか。永遠に支配し続けるためには、哲人が単独で天才であるだけでは足りない。哲人を産出する教育の仕組みが、永遠に機能し続けなければならない。

そして私は思い出す。ソクラテスは教育について答えが出せなかった、と私は記憶している。少なくとも、初期対話篇のあの感触は、教育に限らず、徳や知の伝達に関して、決着のつかない問いを残して終わる。問いを開いたままにする、というより、問いを閉じるだけの根拠がない、という終わり方である。もしソクラテス的な問いの開き方が、人間の思考の正直さだとすれば、プラトンの『国家』は、その正直さを、政治の設計図へと押し切っていく。私はその押し切りの力に惹かれつつ、同時に、その押し切りが教育の現実に耐えるのか、という別種の懐疑を感じる。

つまり今日の私は、奇妙な位置に立っている。ポパーはプラトンを過剰に断罪しているように見える。だがプラトンの側もまた、過剰に閉じているように見える。私の中で二つの過剰が衝突し、その衝突が「ウソついてないか?」という疑いを増幅させる。ポパーがウソをついているというより、私の側の耳が、過剰な断定に耐えられなくなっているのだ。

ここで私は、以前読んだ池田晶子のことを思い出す。池田晶子は、理想を恐れない。理想とは、実現可能性の見込みではなく、思考の姿勢であり、問いの置き方である、という顔をしている。プラトンがなぜ『国家』を敢えて書いたかを考えよ、という要求がある。ポパーのように「危険だから断罪せよ」と言うより前に、「敢えて書いた」という行為の責任と必然に向き合え、と迫る。その声を思い出すと、私はますます、ポパーの検察官口調が粗く聞こえる。

さて、ここから今日のもう一冊、大前研一である。正直に言えば、私は大前研一の本に、あまりピンと来なかった。ビジネスマン漬けの実務人間の語りは、どこか表面を滑っていく感じがする。もちろん、大前研一が提示する問題意識——知が衰退している、そこから脱却せよ、という主張そのものは理解できる。だが、それが読書の現場の具体や、思考の内側の手触りに接続してこない。

「ビル・ゲイツは寄付しているから偉大だ」みたいな発言が、私には軽く聞こえた。寄付は立派な行為である。だが「寄付しているから偉大だ」と言い切ってしまうと、偉大さが単一指標に回収される。しかも、その指標は、資本を持つ者ほど有利である。寄付は富の再配分でもあるが、同時に富の存在を前提とする。偉大さの尺度を寄付へ寄せると、富の尺度で人間を測ることになる。私はそこに、知性の粗さを感じた。

ここで、私の中に別の声が入り込む。執行草舟の声である。執行草舟は、アメリカのビジネスはクソだから引け目、負い目を感じている、寄付活動はその罪滅ぼしだと断言していた。私はこの断言の乱暴さも承知している。だが、乱暴な断言が、時に現実の心理を抉ることもある。寄付は善である、と言い切ることは簡単だ。寄付は罪滅ぼしである、と言い切ることも簡単だ。私はどちらの言い切りにも引っかかる。しかし今日、私がより強く引っかかったのは、大前研一のほうの軽さである。

私が「教養ない人間に見えるのは、むしろ大前研一なんですよね」と感じたのは、知識量の不足を言いたいのではない。教養とは、正しい意見を持つことではなく、言葉の重みを知っていることだと思う。偉大、善、正しい、必要、改革、成長——そういう言葉を、どの程度のコストで口にするか。言葉にコストを払う者が教養人であり、コストを払わずに流通させる者が教養なき者である、と私は考えている。

大前研一の語りは、私にはコストが安い。たとえば寄付を偉大さの証明にする言い方は、倫理を便利なバッジにしてしまう。倫理は本来、便利ではない。倫理は、返せないもの、取り返せないもの、不可逆なものに触れたときに重くなる。読書日記アプローチ的に言えば、倫理は形式の盲点に宿る。ところがビジネス的語りは、その盲点を見ないふりをして、前へ進むことだけを善にしてしまうことがある。私はそこに居心地の悪さを感じる。

一方で、私は自分の側の偏見も疑う。私はビジネスという言葉を聞くだけで身構える癖があるのかもしれない。実務人間の語りを、浅いと決めつける癖があるのかもしれない。だが、それでも今日の私は、身構えたというより、空振りをした感覚が強かった。言葉が届かない。届かないから反発すら生まれず、ただ「なんかピンときませんね」で終わってしまう。これは私にとってはかなり致命的である。なぜなら読書は知性を改善するためのものであり、ピンと来ない読書は、改善の回路が作動しないからである。

ここで今日の題名をつけるなら、「ビジネスって感じの一日」になる。頭の中が、制度、寄付、偉大さ、知の衰退、教育、支配、因果、歴史学、吠え声、といった語で満たされる。語は満たされるが、中心が定まらない。私はこの状態を、単に混乱として片づけたくない。混乱には、混乱なりの情報がある。

今日の混乱の中心には、たぶん二つの苛立ちがある。第一に、ポパーのプラトン批判が強烈すぎて、読解の誠実さを疑いたくなる苛立ちである。第二に、大前研一の語りが軽く聞こえ、教養の匂いが薄いと感じる苛立ちである。両者は逆方向に見える。しかし、実は同じ場所を刺している。つまり「言葉のコスト」である。

ポパーは言葉のコストが高いように見えて、実はラベルの圧縮でコストを節約している。判決。断罪。摘発。「唯一の論拠」「同一視している」「まだ〜の影響下にあった」。こういう短句で相手を縮め、縮めた相手に吠える。そこには、論点を丁寧に運ぶコストが省かれている気配がある。

大前研一は言葉のコストをそもそも払わない。寄付しているから偉大だ、という言い方は、倫理の複雑さを一語で潰す。寄付という行為の背後にある動機、構造、権力、免罪、羞恥、公共性をほとんど扱わない。だから軽い。

私は結局、同じものに腹を立てている。言葉が閉じていないのに閉じた顔をすること。あるいは、閉じるべきところを閉じずに、閉じたふりをして前へ進むこと。私は閉じることが好きだ。閉じれるものなら閉じてみなさい、と言いたい。だがその「閉じ」は、断罪の閉じではなく、責任の閉じである。撤回可能性まで含んだ閉じである。

そして今日、プラトンの『国家』をめぐって、私は別の種類の閉じの問題にぶつかった。哲人が永遠に支配し続けることは、教育の観点から難しい。ここでの難しさは、制度設計の難しさであり、伝承の難しさであり、人間の有限性の難しさである。もし哲人王政が成立するとしても、それは一代限りの奇跡になりやすい。奇跡が制度になったとき、制度は奇跡のふりをし始める。私はそのふりが怖い。

だからこそ、私はポパーの批判を全否定できない。ポパーの吠え声が不快で、読解の誠実さを疑いたくなっても、閉じた理想が現実の中で暴走する可能性は、確かにある。だが、その可能性を指摘するなら、指摘の仕方こそ誠実であってほしい。吠えずに閉じてほしい。歴史の因果を言うなら、因果として閉じてほしい。系譜を言うなら、系譜として閉じてほしい。

今日の私は、判断保留にする。『開かれた社会とその敵』はまだ読みの途上であり、全体を読まなければ裁けない。だが、違和感は違和感として保存しておく。読書日記とは、結論の展示ではなく、違和感の保管庫でもある。違和感は、後で効く。

私は明日も読むだろう。ポパーの吠え声の裏側に,,,,,

 

つづきは

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