
つづきを読み進めた。
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日記
私はポパー『開かれた社会とその敵』第一巻(上)を読み終え、本日は第一巻(下)を読み進め、同じタイミングで池田晶子『新・考えるヒント』も読んだ。いま私の中にあるのは、整理された結論ではなく、いくつかの違和感の束である。違和感は、理解の不足の別名でもあり、思考がまだ閉じられていないという印でもある。だからここでは、判断を下すのではなく、判断を保留したまま、違和感の形だけをいったん記録しておく。
『開かれた社会とその敵』を読み始めたとき、最初に引っかかったのは、論旨そのものというより、声の調子だった。ポパーは、ときどき説明しているのではなく、吠えているように聞こえる。私が「吠え」と呼ぶのは、単に語気が強いという意味ではない。断定の語尾、ラベルの圧縮、検察官のような言い回しが先に立ち、証拠の提示や反論の手続きが置き去りにされる瞬間のことである。結論の提示ではなく判決の読み上げ。説明ではなく摘発。論証ではなく断罪。私はそう聞き取ってしまった。
この「吠え声」への敏感さは、読み手の気分の問題ではなく、私の批判観と結びついている。私は議論において「閉じれるものなら閉じてみなさい」という態度を好む。閉じられるなら閉じてよい。閉じられないなら閉じるな。いや、さらに言えば、閉じられないものを、あたかも閉じたかのように装うな、ということである。閉じるとは、真理の宣言ではない。定義し、設計し、運用し、反例に耐え、破綻したときの撤回手続きまで含めて、責任を発生させることだ。私はこの態度を、単なる厳しさとしてではなく、誠意の形式として捉えている。だから誠意の形式を欠いた攻撃、つまり閉じを伴わない断罪には、なおさら苛立ってしまう。
ポパーの本は、ヒトラーの全体主義とプラトンの理想国家が思想的・構造的に似ている、という主張で読者を掴む。ここで私はまず「ヒトラーと哲人王は水と油だ」と反射的に思う。片や煽動と暴力の政治であり、片や知の統治という高貴な自己像である。両者を同列に置くこと自体が、私には乱暴に感じられた。しかし、より強く残ったのは、その乱暴さ以上に、乱暴さを押し切る声の勢いだった。「似ている」と言い切る調子が、議論の閉じ方ではなく、相手を殴り倒す勢いとして聞こえたのである。
もちろん、ポパーが比べたいのは人格ではなく制度の型だ、と言い直すことはできる。だが、私の読後感はそこに落ち着かなかった。上巻の段階で私が感じたのは、批判と攻撃の区別線を、ポパー自身が踏み越えているように見える瞬間がある、ということだった。口調が相手の論点を検査するというより、相手の罪状を列挙する方向へ滑っていく。「唯一の論拠」「同一視している」「まだ〜の影響下にあった」といった言い切りが、証拠の提示より先に来る。私はその順番に引っかかる。吠え方とは結論の内容ではない。結論の運び方である。
私の不快の核を、自分のために三つに分けておく。第一に意図断定である。「〜しようとした」「〜を企てた」といった言い回しで、作者の内面へすっと入り込み、その意図を確定する。第二に人格史で裁くことである。「まだソクラテスの強い影響下にあった」というように、作品や議論の筋ではなく、精神の系譜を善玉悪玉の物語に仕立てる。第三に対話篇の多声性を潰すことである。対話篇の登場人物の発言を、作者本人の最終立場へ寄せ、単線の断罪に回収する。私はこの三点が重なった瞬間に、議論ではなく断罪を読まされているような気分になる。
私がメモした引用の一つに、ポパーがプラトンの企てを描写する箇所がある。「かれは、否応なく自らを苦しめるこの幽霊のような世界の背後に、不変のほんとうの堅固なそして完全な世界があるというパルメニデスの説に深い感銘を受けていた。だがそうした考えでは、ほんとうの完全な世界が知覚対象物の世界となんの関係ももたずに対置されただけであり、プラトンの問題が解かれることはなかった。かれは、思い込みではなく、知識を、変化することのない世界についての知識を求めた。と同時にかれは、この変化する世界の探求に、とりわけ変化する社会秩序の探求に、つまるところ、奇妙な歴史法則をともなう政治的変動の探求に、役立つ知識を与えようとした。」この段落は一見、要約であり、評価の前提整理にも見える。しかし「与えようとした」という一語が、作者の意図を確定する。そこから「奇妙な歴史法則」というラベルが出てきて、読者の視線が一気に方向づけられる。私はここで問いたくなる。ここで閉じられているのは議論なのか、それとも作者の動機なのか。
もう一つのメモは自然主義の話である。「生物学版自然主義は、法のもとでの人間の平等という教えを擁護するためばかりでなく、強者の支配というそれとは真っ向から対立する主張を支えるために利用された。詩人のピンダロスはそうしたかたちでの自然主義の最初の提唱者の一人であった。……『ゴルギアス』は、かれがまだソクラテスの強い影響下にあったときの対話編であるが、かれはそこでこの主張を攻撃している。『国家』では、この主張をトラシュマコスの口にのせており、倫理的個人主義と同一視している。」ここには、私が嫌う三点がほぼ同時に出現している。「まだソクラテスの影響下にあった」という人格史の裁きがあり、トラシュマコスの発言をプラトン本人の同一視へ寄せる多声性の切断があり、「同一視している」という断定がある。
判決。断罪。摘発。
「唯一の論拠」。
「同一視している」。
「まだ〜の影響下にあった」。
こういう短句が続くと、議論は細り、相手は縮む。縮んだ相手に向けて吠えることは容易い。だが私は、容易さのほうに知性を預けたくない。
さらに私は別の箇所でこうメモした。「(・・・)プラトンは保護主義に反対したわけだが、その唯一の論拠は、それがいわゆる自己利益の追求という動機にもとづいているということであった。」ここでポパーが刺しているのは、動機批判だけで政策を裁く論証の貧しさだ、と読むことはできる。しかし私の耳には「唯一の論拠」と言い切る断定がまた引っかかる。相手の議論を検査するのではなく、議論の価値を一撃で処理してしまうように感じる。そして矛盾が見える。動機批判を貧しいと言いながら、別のところでは作者の意図を断定し、人格史で裁き、対話篇の多声性を潰して単線化する。動機批判を嫌うなら、意図断定も慎むべきではないのか。だがポパーは慎まず、むしろその断定の勢いで読者を引きずる。その引きずり方が、私の耳には吠え声として残る。
私はここで、ポパーがプラトンに非人道的なものを感じ取っているのではないか、と推測してしまう。奴隷制を当然の前提として語る古代の思想に、現代的な倫理感覚が反発するのは自然である。加えて、二十世紀の全体主義を見た人間が、閉じた秩序の設計図に恐怖を抱くのも自然である。だが自然であることは免罪符ではない。恐怖や嫌悪を根拠にするなら、その恐怖や嫌悪の語り方こそ、いちど閉じて検査にかけるべきだ。私はそう思う。
ここで私は自分の側の立場も明確にしておきたい。私は「批判は回答ありき」だと考えている。批判とは、何かを否定することだけではない。採用した前提、定義、評価基準、制度案を確定し、それに責任を背負わせ、検査にかけることである。だから私は、議論の逃げ道を塞ぐ意味で、批判可能性を殺すべきだ、とすら思う。閉じれるものなら閉じてみなさい、という態度は、この批判観の延長にある。
この態度で読むと、プラトンの『国家』は、少なくとも閉じる力を持っている。正義の定義を魂と都市の秩序へ接続し、教育、階級、統治、神話の運用まで含めて、一つの巨大な答えへ押し切る。閉じるからこそ、批判が可能になる。私はそう思う。もちろん、その閉じが暴走する危険もある。閉じたものが撤回不能になった瞬間、秩序は制度ではなく運命になる。だが、危険を引き受けたうえで閉じるからこそ、批判が生まれる。
それに対してポパーの批判は、上巻時点では、私の基準ではまだ閉じ切っていないように見えた。とりわけ私がこだわるのは、歴史的因果の扱いである。私はポパーを歴史学の土俵に引きずり出して裁きたい。もし「プラトンがヒトラーを生んだ」と言うなら、媒介を示せ、と迫りたい。誰がどのようにプラトンを受け取り、それがどの制度や運動へ変換され、どの段階でナチズムへ接続したのか。伝播経路を閉じよ。反事実に耐えよ。代替要因と切り分けよ。固有の寄与を示せ。私はそう要求したくなる。因果を証明できなければ、因果として語るプラトン批判は失敗に終わる。
ただし、私はまだ『開かれた社会とその敵』を四分の一ほどしか読めていない。下巻を読み進めた結果、ポパーがどの程度、媒介や受容史や政治的転写の議論を積み上げるのかは、いま判断できない。私は判断を保留する。保留しながらも、いまの自分の違和感を正直に書く。私は今日も、ポパーがプラトンを元凶として断罪しているように聞こえる瞬間に出会った。そしてその瞬間、私は「因果関係あるわけがないし、どうやってその因果関係を証明せよ」と思った。
この保留の姿勢を、別の角度から補強してくれたのが池田晶子である。私は『新・考えるヒント』を読み、ポパーと池田晶子は永遠に分かり合えないのではないか、と感じた。池田晶子は極限に現実的でありながら、その発想は理想的である。現実の具体に足をつけたまま、理想という言葉を恐れない。理想は実現の見込みではなく、思考の姿勢であり、問いの置き方である、という顔をしている。理想とは、理想と思っているから理想なのであって、そこから逃げるな、と言っているように聞こえる。
私の耳には、池田晶子の批判は「閉じた制度の危険」ではなく、「閉じることから逃げる精神の怠慢」へ向いているように響く。プラトンがなぜ『国家』を敢えて書いたかを考えよ、という要求がある。理想は妄想ではない。理想を置き、そこへ向かう足場を言葉で作ることが思考である。池田晶子はそう言っているように私には思える。だから池田晶子の読後には、ポパーの吠え声がいっそう粗く聞こえた。ポパーは現実的でありながら現実的である。制度の危険を語る語り口もまた、制度のように乾いている。乾いているのに熱い。熱いのに閉じない。そこが私には不思議である。
ここでロックの言葉が私を落ち着かせる。私はジョン・ロック『ロック政治論集』も読んだ。そして「読書は知性を改善するためのものである」という一文をメモした。ロックは吠えない。少なくとも私には吠えているようには聞こえない。ロックの文章は判決ではなく規則の言葉で動く。その一文が、吠え声で疲れた耳に沁みた。現代は読書と娯楽が簡単に結びつく。読書は楽しいもので、楽しくないなら読まなくていい、という空気もある。私はその空気を否定しない。しかし読書の背骨には、知性の改善という硬い目的があってよい。いや、むしろそこがなければ、読書はただの消費になる。
私はまだ未熟である。未熟さは、違和感を断罪に変えたがる。吠え声に腹を立てると、吠え声で返したくなる。私はその誘惑を感じる。だからこそ、吠え声に引きずられない訓練をしたい。吠え声は読み手の心拍を上げる。心拍が上がると論点が減る。論点が減ると敵が増える。私はその連鎖を、自分の読書の中で断ちたい。
つづきは