
現代において、炎上はもはや事故ではなく、戦略である。かつて炎上は社会的な失敗を意味した。軽率な発言や差別的な表現が、批判の炎に包まれ、当事者を窮地に追い込んだ。だが今や、炎上は「注目を集めるための装置」として利用され、さらには「カリスマ性の証明」とさえみなされるようになっている。ある人物が炎上した瞬間、彼は突然「ただの発信者」から「世間を揺るがす存在」へと変貌する。拍手も罵声も、同じ数のリツイートやアクセスを生み出すからだ。だが、炎上とカリスマを同一視する風潮は、本当に健全なものだろうか。
カリスマとは本来、稀有な資質である。人を引きつける魅力、言葉に宿る力、思想の深さ、そして行動の誠実さ。その積み重ねによって、人々はある人物に自然と従いたくなる。しかし、炎上によって集まる注目は、そうした「信頼に基づく従属」ではなく「好奇心と憎悪に基づく視線」でしかない。火事場に群がる野次馬の数を「支持者の数」と数えるのと同じ愚かさが、現代には蔓延している。
炎上は、言葉の内容よりも「刺激の強さ」で拡散する。極端な意見、過激な発言、挑発的な態度。これらがアルゴリズムに拾われ、人々のタイムラインを駆け巡る。その速度は真実の検証よりも速く、その勢いは沈黙の思慮よりも強い。だが、その過程で何が失われるか。言葉の重みが失われ、誠実さが置き去りにされ、ただ「目立つこと」が目的化される。こうして、カリスマとは「目立つ人」と同義になってしまう。だが、本当にそうだろうか。目立つことと人を導くことは、全く別物ではないか。
文学的に言えば、炎上は「黒い火の花火」である。一瞬の派手さで夜空を染め、人々の目を奪う。だがその光は有毒で、煙を撒き散らし、残るのは焼け跡と咳き込む群衆だけだ。対してカリスマは、炎ではなく灯火のようなものだ。小さくとも長く燃え続け、人々を導き、暖める。炎上をカリスマの証拠とすることは、花火を太陽と見間違える愚行である。
社会批評的に言えば、この「炎上=カリスマ」論は、資本主義とアルゴリズムの共犯によって生み出された。炎上すればアクセス数が伸び、アクセス数が伸びれば広告収入が増える。結果として、炎上は「経済的成功」に直結する。さらにSNSプラットフォームにとっても、炎上は滞在時間を増やし、利用者を引き止める装置となる。だからアルゴリズムは炎上を優遇し、炎上した発言をさらに拡散する。こうして炎上は「市場価値」に転化し、その市場価値が「カリスマ性」と混同されるのだ。もはやカリスマは資質ではなく、ビジネスモデルになってしまった。
だが、本当にそれでいいのだろうか。炎上で集まった群衆は、翌日には別の炎上に移動する。彼らが残すのは数字の痕跡だけで、持続的な信頼や支持ではない。炎上で得た注目は、炎上でしか維持できない。だから「炎上カリスマ」は炎上を繰り返し、過激化を重ねる。だが、その果てに残るのは虚無だ。誰も心から従ってはいない。人々はただ、見世物として消費しているにすぎない。
ここで問わねばならない。カリスマとは何か。本当に人を導くとは何か。もしカリスマが「炎上を繰り返す者」だとすれば、それは指導者ではなく、ただの火遊びの子供にすぎない。カリスマは炎ではなく、光でなければならない。人を焼き尽くすのではなく、人を照らし、進むべき道を示す光であるはずだ。
だから私は言う。炎上をカリスマの証拠にするのやめてもらっていいですか? 一瞬の炎を永遠の輝きに取り違えるのは、やめてもらっていいですか? 本当のカリスマは、炎上で測られるものではなく、むしろ炎上を超えて語り継がれる存在なのだから。
最後に・・・
あなたは「炎上した人」を信じるのか、それとも「炎上しなくても残り続ける人」を信じるのか?